もう戻れない
自席に戻った蛍はやりかけの仕事を片付けてから私物の整理を始めた。香山が取材から帰って来た。
「席替えですか?」
「ううん、退社」
蛍は事もなげに言う。香山は驚いた目で蛍を見、次いで剣崎を見た。上長席の剣崎は固く唇を結んで香山の視線を受け止める。香山は聞いた。
「どうしてですか?」
「諸事情あって。良いんじゃない?私も環境を変えたかったし、ここにいた所でもう何にもないもん」
蛍はそっと一騎の席を見やる。ねぇ長谷川さんどう思う?そんな問いかけも今日で最後だ。香山は狼狽して
「僕は嫌ですよ。長谷川が亡くなって、根津さんまでいなくなって・・・・」
「長谷川さんがパキスタンで撮って来た映像、あなたが責任を持って放映するのよ」
蛍は強い口調で言った。
夜の早い時間に蛍は私物を詰めた紙袋を持ってJNP通信を出た。エレベーターまで剣崎と香山が送ってくれた。
香山は涙で言葉にならない。剣崎も目の縁を赤くしている。一騎が死んでから蛍を含めてこの三人は泣いてばかりだ。
「本当に済まない。こんな結果になって」
剣崎は涙を拭った。しかし蛍の瞳は濡れていなかった。蛍は剣崎を静かに見て言う。
「私の望みは長谷川さんの映像を広く世に伝える事です」
「分かった。長谷川が命を落としてお前まで移籍してもらって、多大な犠牲を払った映像だ。絶対に世に出す」
「長谷川さんの家庭問題についての記事はともかく、長谷川さんが無許可で辺境州に入ったとか外国のスパイだったとかの記事は看過できません。会社としてさっさと反論して下さいよ。私と長谷川さんのビデオ通話をニュース番組で放映したら世間は一発で黙りますよ」
「分かった。ご遺族の許可が取れ次第」
剣崎は答える。しかし愛人と目される女と深夜にイチャイチャ長電話している録画画像に由紀子が放映許可を出すだろうか。一騎の汚名は永遠にそそがれないのだ。
「長谷川が死んでからいろんな事があったな」
剣崎は鼻を啜りあげた。
「後の事はお二人にお任せしますね。じゃあね、香山君」
蛍は香山に手を振った。香山は嗚咽を漏らしながら
「もう三人で取材には行けないんですね」
「長谷川さん、亡くなっちゃったからね。もう戻れないよ」
もう戻れないのだ。私達三人がドブネズミと呼ばれていた頃には。
エレベーターの扉が開き、蛍だけが乗り込んだ。蛍は二人に向き合い、深く頭を下げる。襟元から聖母マリアのメダイが零れ落ちた。蛍はメダイを服に収めることもなく、扉が閉まるまで二人に頭を下げ続けた。
剣崎と香山はエレベーターの前から動けずにいる。エレベーターが一階に着いたのを認めると、剣崎は口を開いた。
「根津の奴、行っちまったな」
そう言って大きな溜息をつく。そして
「根津と長谷川、結婚すりゃ良かったのによ」
「同感です」
「根津が奥さんならば、長谷川のモスクでの葬式は実況生中継だったのに」
「こんな時まで会社に利益ですか!」
香山は咎める気持ちで剣崎の横顔を見た。剣崎はフンっと鼻を鳴らして、
「おい、考えてみろ。長谷川の奴、取材を名目に何百人の葬式に上がり込んだよ?遠慮なく遺影も遺体も撮影し放題だった。てめえはよその葬式に押しかけておいて、自分の葬式は家族以外来るな?そんな身勝手許されるかよ。草葉の陰で一番悔しがっているのは長谷川自身じゃねえか。あいつだって覚悟を決めていたはずだ、自分の葬式にメディアが大挙してやって来ることを。逆に言えばメディアに囲まれた葬列こそ報道者として一番ふさわしい最後だったのによ」
香山は反論できなかった。他人のプライバシーは暴いておいて自分のプライバシーは隠し通す。自己撞着を起こしてしまった事を長谷川ならば恥じ入るだろう。
「ジャーナリストとしての長谷川の気持ち、根津ならば汲んでやれたのにな」
剣崎は悔しそうに言った。香山は考えた後、
「同感です」
と答えた。
「しかし最悪の結末ですよ。何の落ち度もない、それどころか文句を言いながらも長谷川さんを支え続けた根津さんが解雇ですか」
香山は不満たらたらだ。
「解雇じゃない、移籍だ」
剣崎はそう訂正する。
「会社から石持て追われたことには変わりはありません」
「仕方ないだろう。長谷川の奥さんが根津の首を差し出さにゃ映像の使用許可を出さねぇって言うんだもん」
「かー、あの奥さんカトリックかモルモン教徒か知りませんけど大したタマですよ。長谷川さんがパキスタン行く前に無理やり離婚届に判子を押させて、長谷川さんは即日提出を求めたのにそれを拒み、長谷川さんが死んだら映像の権利を盾に周りを屈服させて。長谷川さんも何であんな恐ろしい人と結婚しちゃったんでしょうかねぇ」
ここぞとばかりに由紀子への恨み節を並べる香山。苦々しい表情の香山を見ながら、剣崎ははっと息を飲んだ。
「まさか、香山、お前か!お前が長谷川んちのことをベラベラ他誌に話したのか!」
「僕じゃありませんよ」
「じゃあ一体誰が他誌に情報を流したんだ」
剣崎は香山に掴みかからんばかりだ。
「長谷川さん自身が喋ったんじゃないですか。長谷川さんが奥さんに離婚を迫られた事は後輩の僕が知っているんですよ。この会社の人間はみんな知っています。だって長谷川さんが残業している僕の隣に座って、『今日は俺の離婚記念日だ』とか『俺は鼻をかんだ後のテッシュペーパーみたいにポイ捨てされたー』とか大声で言ってんですもん。よっぽどショックで頭がどうにかしていたんでしょ。全く聞かれもしないのに自分のことをペラペラと。本当にあの人は男のくせにお喋りでしたよね!」
香山は呆れ果てた口調で言って、事務所の自分の席に戻って行った。




