由紀子の落ち度
二週間後一騎は帰って来た。由紀子は玄関を開けた一騎の姿を見て声が出ない。もう由紀子の元へは帰ってこないかと思っていた。由紀子は涙が出て来そうになっておかえりも言わず顔を背けた。
「これお土産」
一騎は暗い顔をして高価なバッグを由紀子に差し出した。
由紀子と一騎の間に緊張状態が続いた。一騎は映画のプロモーションを理由に国内の短い出張を繰り返した。
一騎が帰国して一カ月、一騎はしなのが寝た後由紀子をダイニングに呼んだ。
「映画はクランクアップしたし、もうフィリピンには行かない」
「そう」
由紀子はそれしか感想を持たない。一騎の胸元には聖母マリアのメダイがぶら下がっている。フィリピンの惨状を世界に伝えた事の感謝としてフィリピンの教会から与えられた物だ。一騎は報道を口実にフィリピンに行き来して不貞を犯した。裏表のある男、メダイを見つめながら思った。
「転職しようと思っているんだけどいいかな?少し年収も上がるし」
「いいんやない」
「次の所はニュース番組制作会社だ。そこならば報道の仕事が出来る」
「正社員?」
「勿論。先輩が去年立ち上げた会社でずっと誘われていたんだ」
「ふうん」
由紀子は以前のように一騎に関心が向かない。一騎は言いづらそうに、
「それで勤務地なんだけれど・・・・」
「どこ?」
「東京」
「あなた、行く気なんやろ」
「うん」
一騎は素直に認めた。
「こんな時に。随分家族を蔑ろにした話やな」
「ごめん」
「どうするんやこのマンション。ローンはまだ残っているんや」
「誰かに貸せないかな?」
由紀子はため息をついた。
「先月お父さんにがんが見つかってその治療が始まるんや。そんな中マンションの借り手を見つけて、知り合いのいない東京に引っ越して、時々親の様子を見に神戸に戻って。私もしなのちゃんを保育園に入れて働かなくっちゃならんし」
「由紀子の就職はまだ先でいいじゃない」
「いや、これから経済的に辛うなると思うよ。ローンを払って、更に東京でのお家賃も発生するんやろう?呑気に専業主婦している時やない。それで私は・・・・」
信用ならない不貞な男と暮らすんか、由紀子はそう言いかける。一騎に対して信頼も誇らしい気持ちもない。このまま惰性で暮らし続けたらあるいは家族として一騎を受け入れられるかも知れないが、転居する以上は様々な困難を乗り越えて同居を続けるしかない。果たして一騎への気持ちが冷めた今、それらの困難を乗り越えて行けるだろうか。
由紀子は言った。メダイの聖母マリアに聞こえるように。
「あなたが転職してもええし、東京に行ってもええ。でも私には無理や。行かれへん」
「そうか」
「私が行かない方がいいんちゃうの?」
由紀子は嫌味を言う。
「そんなことないよ、絶対に」
一騎は即答した。早すぎる返事が機械的に聞こえる。由紀子も機械的に言った。
「ローンの返済をお願いしていいの?」
「勿論だ。俺の義務だ」
「生活費も払えるかしら?」
「うん、家族なんだから」
引っ越しの日、業者が次々一騎の荷物だけを運び出す。
「わぁーい引越しや」
しなのは自分も東京に行くと勘違いして大はしゃぎだ。
「しなのちゃんは待っていて。先にパパだけ行っているから」
一騎は玄関でしゃがみこんでしなのに言う。由紀子はこのまま自分も東京に行って一からやり直そうかとも思う。しなのは聞いた。
「しなのちゃんいつ行けるんや」
「すぐや」
一騎は普段は使わない関西弁で応じた。
「えーいつや?」
駄々を捏ね始めたしなのを一騎は強く抱きしめ、
「ねえしなのちゃん、もうパパと一緒に東京に行っちゃおうか?」
しなのの髪が一騎の涙で濡れる。しなのは一騎に抱かれたまま
「ママはどうするん?」
と聞いて由紀子を見上げた。由紀子は手で顔を覆って泣き出してしまう。「お前も来い」そう言って一騎が強引に由紀子を玄関から引きずり出す事を由紀子は望んでいた。
しかし一騎はそうはしなかった。鼻を啜りあげて涙を拭き、
「君には何の落ち度もない」
と言った。
「落ち度?」
由紀子は聞き返す。今更どちらが悪いとか言う気はない。今由紀子が聞きたいのは一騎は由紀子をどう思っているかなのだ。しかし一騎は由紀子の気持ちを汲むこともなく逃げるように出て行った。