世界中のどこを探しても
一騎がいなくなっても会社は続く。由紀子の望み通り一騎の葬儀は家族のみで執り行われ、蛍は参列を許されなかった。関西国際空港で警察車両に載せられた棺を見たのが、蛍にとっての一騎の見送りだった。
蛍に日常が戻って来た。事件や事故の現場に駆けつけては取材。その合間に一騎の残した映像を整理する。パキスタンから送られた映像や一騎とのビデオ通話の録画は撮影日時と内容を記載した目録とともに会社に提出された。
蛍の机の直通電話が鳴る。掛けてきたのは三峰多香絵だ。
「根津です。今日は」
蛍は努めて明るい声を出す。蛍とは対照的に多香絵の声は暗かった。
「今お話しできますか?」
「もちろんです」
「あの、昨日地方裁判所から書類が届いて」
「裁判所?」
「金本から訴訟を起こされたようです。名誉毀損と営業妨害で」
それがどうした?長谷川一騎が部族地域で殺されたのに。蛍は多香絵と金本謙也の諍いに興味を失っていた。しかし蛍こそ金本事件を世に広めた張本人である。今更投げ出すわけにも行かず
「請求額はおいくらですか?」
と聞いた。
「三百万円です」
と多香絵。結構な金額である。蛍は質問を重ねる。
「弁護士さんに相談しましたか?なんて言っていますか?」
「和解して訴えを取り下げて頂くようお願いしてはいかかですかと言われました」
「三峰さんとしてはどういうお気持ちなんですか?」
多香絵は怒ったように答える。
「なんで私が金本にお願いしなきゃいけなんですか」
「争う意思があると」
「でも三百万円なんて大金、とても・・・・」
「その金額は金本さんが勝手に要求しているだけで、裁判所が満額認めるとはとても思えませんけれどね。ところで口頭弁論の期日はいつですか?」
蛍の問いに多香絵は
「口頭弁論?」
「裁判所に行かなきゃいけない日です」
「これの事かしら?四月三十日と書いてあります」
「そうのんびりもしていられないですね」
「私は一体どうしたら・・・・・」
多香絵の声は震えている。蛍はしばし考え、私だったらですよと前置きしてから、
「私だったら出廷して裁判官と相手の弁護士に自分の考えを言いますけれど。女性をターゲットにしたフィットネスクラブの経営者が性犯罪者なのは許せなかったと」
「私に被告席に座れと?」
「落ち着いて下さい。これは民事訴訟なのだから裁判を起こされた所で解雇になるわけじゃなし、前科がつくわけでもありません。私が見聞きした範囲ですけれど、この手の裁判は判決まで行かず、結局当事者同士の話し合いで、金銭の授受があって、和解になることが多いような・・・・。とにかく向こうの言いなりに金を払わなきゃいけないなんてことはありませんからね」
蛍はそう多香絵を励まして電話を切った。
金本の奴、加害者のくせに今度は民事訴訟を起こしたよ。
ねぇ長谷川さん、どう思う?
蛍は長年の癖で隣の長谷川に話しかけそうになる。蛍の隣は空席だ。取材を終えた一騎が慌ただしく会社に帰ってくることはもはやない。世界中どこを探しても一騎はいないのだ。蛍は救いを求めるように、服の上からメダイに手を添えた。




