インダスマーブル
一行はワゴン車とタクシーに分かれてイスラマバードに戻った。タクシーの助手席にアリが、後部座席に由紀子と剣崎が座る。
「奥さん、さっきはすみませんね」
剣崎は由紀子に詫びた。
「何がですか」
「ご主人のご遺体の写真を撮った事です。こっちで証拠を残して置かないと後で死因を捏造されたりするので、失礼だとは存じながら撮影しました」
「まあそれで・・・・」
「襲撃当時のご主人のお洋服も暫くお借りしたいのですが良いでしょうか?きちんと写真を撮って検証したいので」
「是非お願いします」
由紀子は頭を下げる。
「イスラマバードに帰る前にインダスマーブルに寄りましょう。ムハンマドにも伝えてあります」
「インダスマーブル?」
「それはこの先にある・・・」
剣崎はそう言いかけて、
「いやいや、長谷川さんが撮った映像を見て頂くのが一番です」
剣崎はスマートフォンに保管してある動画を由紀子に見せた。それは昨夜「インダスマーブルに寄ってください」と伝えるメールと共に蛍が送ってきたものだ。
一騎は広大な川を背景にレポートしている。
「私はアフガニスタン国境近くの、北西辺境州部族地域に向かっています。目の前に不思議な光景が広がっています。ここはインダス川とアフガニスタンから流れるカブール川の合流地点です。ここは紛れもなくアフガン世界への入り口です。
ご覧下さい。透明な水と泥を含んで濁った水が混じり合う事なく渦巻いて大理石の模様のように見えます。ここはインダスマーブルと呼ばれています。澄んだ方がインダス川、濁った方がカブール川です。やがて二つの川は混ざり合い、インダス川は濁った色のままパキスタンを縦断し、海へと注ぎます。高度な都市文明であるインダス文明をその流域に形成しながら。
アフガンの多数派、パシュトゥーン人は千年以上前からインダスの河畔に居住していました。十九世紀末、イギリス領インド帝国とアフガン国王との間で調印された条約により、パシュトゥーン人居住地の多くがインド帝国に組み込まれ、アフガンはインダス河畔の領土をすべて失いました。
ここに現在のアフガンの貧困の原点があります。もしアフガンが肥沃な土を運び流通の要となるインダス川を自由に使えたら、今日のようにアヘン栽培を主要産業にせざるを得ない荒廃したアフガンの姿はなかったでしょう。
西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘は仏典の原典をインドに求め、アフガニスタン経由で天竺に入ります。帰路彼の乗った船がインダス川で転覆し、多くの仏典が水没した史実があります。
以上インダスマーブルからでした」
インダスマーブルには直ぐに着いた。ワゴン車は駐車場の柵に寄せてバックで停められている。由紀子達はタクシーを降りた。駐車場は高台にあり、インダス川を見下ろせる。
確かに奇妙な光景だった。インダス川もカブール川も川幅が数キロに及び、向こう岸ははるか彼方だ。合流点で二つの河川の水はぶつかり合い、波が立っていた。それぞれも川の色はいつまでも溶け合う事はなく、渦を巻いている。
剣崎はワゴン車のトランクドアを開けた。一騎にインダス川を見せるかのように。剣崎の顔に車内の冷気が当たった。運転手のムハンマドは一騎の遺体を傷ませないように冷房を最大限に効かせている。
「長谷川見えるか。インダス川とカブール川だぞ。お前の言うアフガン世界の入り口だ。もうこれでアフガン世界から離れるんだぞ。日本に帰るんだ。みんな待っているんだ。日本中の誰にもお前の事を忘れさせない。忘れさせるものか」
剣崎はワゴン車の運転席に回り込み、一眼レフを構えた。開け放たれままのトランクドアからインダス川が見える。インダスマーブルを背景に一騎の棺を写真に収めた。由紀子は剣崎の行動に再び嫌悪感を覚えた。一騎の死に演出を加え、社名を売る魂胆がみえみえだ。
しかし剣崎の本意は違っていた。
剣崎は人々が一騎を忘れていくのが怖かった。成功するあてもなく会社を興した剣崎に 一騎は単身赴任をしてまでついて来てくれた。剣崎にとって一騎は部下以上の存在だった。一騎の肉体が朽ちるまで、一分一秒を惜しんでその姿を写真に収めてやる。そんな決意を持って剣崎は一騎の棺の写真を撮った。
眼下に広がるインダス川とカブール川は流れが早く、その二つの河川が作り出した渦は由紀子に恐怖心を抱かせた。禍事の前ぶれ。地獄が口を開けて由紀子と娘のしなのを待ち構えている。由紀子はインダスマーブルから目をそらした。
参考文献
前田耕作・山根聡 河出書房新社『アフガニスタン史』