知りすぎた女
妻なのに単身赴任中の配偶者の住まいの鍵を持っていないとは。剣崎は内心舌打ちをした。剣崎は一騎のマンションの大家など知りはしない。マンションまで行けばエントランスにでも管理会社の電話番号ぐらい書いてあるかも知れないが上司と名乗る男と妻と名乗る女にそうやすやすと合鍵を渡すだろうか。パキスタン行きの飛行機は明日には発つ。剣崎には時間がなかった。
剣崎は蛍の背後に立って彼女の首筋にかかる銀色の鎖を見つめた。
「御用でしょうか?」
視線を感じて蛍は振り返る。
「ちょっと話が」
剣崎は蛍と共に書庫に入る。
ドアを閉めると剣崎は切り出した。
「なあ根津、お前長谷川のマンションの鍵を預かっていないか」
剣崎は困り顔で蛍を見つめる。あれこれ詮索しないから助けてくれ。剣崎の目はそう蛍に訴えかける。直属の上司が外国の部族地域で客死。ニュース番組制作会社の一社員である蛍の手には負えない案件だ。彼女ははもう自分だけで抱えこめないと判断する。
「預かっています」
蛍があっさり認めると、剣崎は安堵の息を吐く。
「今持っています。お渡ししましょうか?」
「お願いするよ」
「それから、長谷川さんの部屋にパソコン机があって、その引き出しに保険証書があります。受取人はお嬢さんです。それをご家族に」
蛍は一騎からの頼まれごとを剣崎に託した。
「分かった」
「長谷川さんが自宅で使っていたパソコンのパスワードは1KKI〇五〇五です。後で紙に書いてお渡しします。一騎〇五〇五って言う意味だそうです。〇五〇五は長谷川さんの誕生日です」
「すまんな」
「それから」
「まだあるのか?」
「長谷川さんが改宗した事はご存知ですか?」
「知らん」
「パキスタンに行く前にムスリムになっています。どこのモスクとお付き合いがあるのかは知りません。お葬式とかお墓のことが気になっているんですけれど」
聞かなければ良かった、咄嗟に剣崎は思う。しかし社員を違う宗教で弔ってしまったら?自由と人権を社是とするJNP通信の権威は失墜するだろう。
「そうか、教えてくれてありがとう」
あまり感謝していない声で剣崎は礼を言った。
「奥様お待たせしました。長谷川さんは総務に鍵を預けていましたよ。いえね危険地域への出張前は総務に自宅の鍵を預けると社則で決まっておりまして。さあこれから長谷川さんのマンションに行きましょう」
マンションの鍵とパソコンのパスワードを手に入れた剣崎は由紀を促した。
剣崎は社用車に由紀子を乗せて一騎のマンションに向かう。由紀子は車窓から東京の町並みを物珍しそうに見る。
「奥様は東京にご縁は?」
剣崎は運転しながら聞いた。
「全くございません。生まれも育ちも神戸です」
「じゃあ長谷川さんを無理にこっちに引っ張って来ちゃって悪いことをしちゃったなぁ。十年前に私、独立したんですよ。その時に長谷川さんに頼み込んで私の会社に就職して貰ったもので」
「本人はチャンスが巡って来たとばかりに東京に出て行きましたよ」
「それがこんなことになって・・・・」
剣崎は黙った。やがて、ちょっと聞いた話なんですが、と前置きして
「長谷川さん、実はムスリムに改宗しているらしいですよ」
はっ、と由紀子が息を飲む音聞こえる。震える声で
「・・・・どうして?」
とだけ言葉を絞り出す。その疑問に答えられる一騎はもういない。別居をして九年。カトリックの信仰だけが家族をつなぐよすがだったのに。
「お葬式はどうしますか?神戸のことはよく存じませんが、大阪に大きなモスクがありまして、そこだったらご主人のお葬式が出来そうですけれど。一応聞いておきましょうか?」
剣崎はそう提案した。ルームミラーに由紀子の困惑顔が映る。しかし由紀子は
「やはり教会で葬儀式をします」
と答えた。
「大丈夫ですかね」
「実はこのような改宗の問題はよくあるんですよ。故人が亡くなる前に家族とは違う宗教に入ってしまうと言うことが。本人が明確な遺志を残さない限り、大体家の宗教で葬儀をします。それは日本でもヨーロッパでも同じです」
由紀子の意思は固く、これ以上剣崎は何もいえなかった。