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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第五章 根津さん、聞こえますか?
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メダイにキスを

JNP通信の電話は鳴りっぱなしだ。死亡したのは社員の長谷川一騎ではないかと言う情報がジャーナリスト界隈で駆け巡る。

 一騎が離婚していなかったという事実は蛍を深く傷つけた。ふと蛍は一騎の妻は夫のマンションに行くのではないかと思い至る。生前の生活ぶりを見たいだろうし、何より夫の家に泊まればホテル代が浮く。妻ならば合鍵を持っていても不思議ではない。もし鍵を持っていなかったとしても遺族だと名乗れば不動産屋は鍵を開けるだろう。夫の殉職に打ちひしがれた妻が剣崎とともにマンションのドアを開け、そこに女の下着が干してあったら。

蛍はホワイトボードの自分の欄に「取材 午後帰社」と書いて会社を飛び出す。目指すは一騎のマンションだ。


今朝まで同棲相手然として生活していた一騎の家。慌ただしい別れだ。いつ一騎の妻がやって来るか分からない。掃除機までかけている時間はなかった。簡単にベッドを整え、ゴミを集積所に持って行き、自分の荷物をまとめるだけだ。一騎から貰った花籠はとっくに枯れている。形見として籠だけをトランクに放り込んだ。一騎から言付けられていた保険証書は机の中に残した。誰かが郵送するよりも妻が自分で発見した方が自然だ。

玄関の扉を開ける刹那、蛍は大きく息を吸い込んだ。一騎さんの匂い、忘れない。そして一騎のベッドを見やる。数年に渡っていつも一緒にいたのに体を重ねたのはたった二回だけ。蛍は襟元からメダイを引き出し、唇をつけた。私を一騎さんの所に連れて行って欲しい、それが蛍の願いだ。


部屋を出た後に蛍は一騎のパソコンに残された自分の写真を思い出す。あれも消しておくべきか。蛍は部屋に戻ろうとするも一騎の妻の訪問を恐れてそのまま駅に向かう。あのパソコンは会社所有だ。パソコンごと会社に戻って来る。その時に自分の写真を何かの媒体に落とし込めば良い。


蛍は重いトランクを引きずって会社の最寄の駅に着いた。とりあえず駅のコインロッカーに荷物を入れて早歩きで会社に向かった。エレベーターホールで襟から飛び出したメダイを服の中に入れる。

丁度外出から帰って来た剣崎と鉢合わせした。剣崎は背の高い女を連れている。言われなくとも分かる、一騎の妻だ。

「なんだ出掛けていたのか。奥様、ご主人の直属の部下の根津蛍です」

剣崎は女に蛍を紹介した。

「長谷川さんの奥様だ」

そう紹介をされて蛍は挨拶に困り、

「この度は・・・・」

と月並みな悔やみの言葉を口にして頭を下げた。メダイが服から出てこないかヒヤヒヤする。剣崎は続ける。

「根津の他に香山と言う部下もいますが、昨夜は徹夜をさせてしまったので今日は家に帰らせています」

「主人の為にここまでして頂いて、本当に何て申し上げたらいいか」

そう言って一騎の妻の由紀子は濡れた瞳で蛍の顔を覗き込んだ。その悲しみを宿した瞳は大きくて美しかった。蛍は由紀子の顔をまともに見ることが出来ない。


三人でエレベーターに乗り事務所に入る。剣崎は由紀子を応接室に導いた。

「コーヒーをお持ちしましょうか」

蛍は剣崎に聞く。

「ああ、お願いする」

剣崎は答えた。

「どうぞお構いなく」

由紀子は恐縮して言った。


「この度はご愁傷様でございました」

席に着くなり剣崎は深々と頭を下げた。

「早速ですが、ご遺体の運搬先はどちらになさいますか?」

「神戸に。主人と私が通っていたカトリックの教会がありまして、そこで葬儀式をします。実はそこの教会で結婚式もあげましたので」

由紀子はここで涙ぐんだ。長く白い指で口元を押さえる。

「一番良い形でお見送りができるように私達も協力いたします。長谷川さんを失ってしまった事は弊社にとっても大変な損失でした」

剣崎の言葉はあながち社交辞令とは言えなかった。一騎はJNP通信のディレクター職である。

「今後のことなんですけれど」

剣崎が言いかけた時に蛍がノックをして入って来た。剣崎も由紀子も口を噤む。蛍はノックをする前にドアの前で彼らの話を盗み聞きしていた。結婚式を挙げた教会で葬式か、中々ロマンチックじゃないの。でも奥さんあの事知らないんだ。蛍は優越感を覚える。

蛍はコーヒーを置くと一礼して応接室から出た。剣崎は、

「明日の便でパキスタンの首都のイスラマバードに飛びます。イスラマバードで一泊して、翌日の朝一番で大型車でペシャワールと言う街に向かいましょう。ペシャワールの警察にご主人のものと思われるご遺体が安置してあります。そこで残念ながらご主人本人だと確認が取れたら車に棺に入れてイスラマバードに戻って、飛行機で関西国際空港にご遺体を運びます」

「遺灰にして日本に連れ帰る事は出来ないのでしょうか?」

由紀子の問いに剣崎は難しい顔をして

「今回のように海外でお亡くなりになった場合、多くはご遺体のまま日本に戻りますね。海外だと火葬する習慣がないので。ましてやイスラム圏では火葬はタブーですのでご遺体での帰国になりますよ。結構な金額がかかりますが、保険をかけていましたので奥様のご負担はないと思って大丈夫です」

「すみません、何から何まで」

由紀子は頭を下げた。剣崎は言いにくそうに言う。

「嫌な言い方になってしまったら申し訳ないんですけれど、ご遺体の状態が判りかねまして」

「とおっしゃいますと?」

「銃で撃たれたようなのですが、その・・・・、顔の損傷が激しいかも知れないんですよ」

「大丈夫です。私は看護士ですので遺体がどんな状態でも対面できます」

「顔を見てご主人だと確認できない恐れがあります」

「そこまで酷いことを?」

由紀子は息を飲む。首を切断されている恐れもある、そこまでは剣崎は言えなかった。

「ですのでご主人の頭髪とか、何かDNAを証明するものをパキスタンに持って行きたいと思っているんですよ。急な話なんですけれど、これからご主人のマンションに行って奥様お立会いの元DNAサンプルを採取したいと思います。奥様さえ良ければ、奥様がご主人のマンションに一泊して頂いても良いですし」

「そうですね。今夜は主人のところに泊まります」

由紀子は剣崎の提案を受け入れる。

「ご主人のマンションの鍵はお持ちですか?」

「持っていません」

由紀子の返答は剣崎には意外だった。

「そうですか。だったら不動産屋に借りましょう。ちょっと電話して来ますね」

そう言って剣崎は由紀の元を離れた。


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