部族地域からの退去
「ところで、何かレポートしたい事があるんじゃない?録画しましょうか?」
蛍がそう水を向けると、
「うん、そうだな」
と一騎は衣服の乱れを整え、真顔になる。
「では、三、二、一、はいどうぞ」
蛍は録画ボタンをクリックした。
「今晩は。三月二十日、私はアフガンとの国境を離れ、部族地域の市街地、ラーンディーコタールに再び戻って来ました」
蛍に笑顔を向ける一騎。蛍も笑顔で挨拶を返す。
「私がパキスタンの部族地域に入ってそろそろ二週間、状況はあまり良くなく、部族地域からの退去を検討しております」
「えっ?」
一騎の発言に素で驚きを示す蛍。録画中だと思い出し、
「具体的にはどのような状況なのでしょうか?」
と質問を投げかける。
「ジャーナリストへの規制が急に強くなりました。ここ数日まともな取材が出来ておりません。実は、私以外の外国人が部族地域に無許可で潜伏していると言う情報があります。そのため北西辺境州政府は外国人やジャーナリストへの警戒を強めています」
「無許可で潜伏している外国人の目的は何なのでしょうか?」
「今の所は情報は入って来ていません。ジャーナリストの取材活動なのか、諜報員の諜報活動なのか。いずれにせよ地元の人々と信頼関係がないと得られない情報もありますし、部族の感情を害するような取材に対しては私は反対です」
「そうですね」
「実際部族の人々が外国人に不安な気持ちを抱いている様なので、速やかに撤退する事が今までの感謝を表す一番の方法かなとも思いますし、次回の取材へ繋げるための方策とも考えています」
「日本のメディアが入る事が稀な部族地域での取材は、非常に実り多きものであったとお察し致しますが、取材が途中になってしまって心残りのことや、次回は是非掘り下げて取材したい事はありますか?」
蛍の問いに一騎は少しの間考えて、
「心残りですか?そうですね、そういう気持ちはあまりなく、逆に一介の外国人ジャーナリストに取材を許してくれた部族の方々に対する感謝の気持ちしかございません。状況が許すならば、再びこの地を訪れて取材を続けたいと思っています。ですのでパキスタンが自爆テロや空爆のない、平和な日常を取り戻すように願うばかりでございます。平和を取り戻すために何が必要かと申しますと、逆説的になりますが、この平和ではない状況を皆様に知っていただく事こそ平和への第一歩だと思います」
部族地域退去を控え緊張が解けたのか、一騎はいつになく饒舌だ。
「そうですよね、それこそがジャーナリズムの使命ですよね」
蛍は強く同意する。
「もう一つのご質問の、深く掘り下げてみたいテーマですが、それはパキスタン国内に暮らすアフガン難民についてです。アフガン難民は国境近くの部族地域のみならず、ラホールやイスラマバードなどの都市にも身を寄せています。次回の取材とは言わず、部族地域退去後はイスラマバードに取材拠点を移し、すぐにアフガン難民の取材を始めたいと思っています」
「随分慌ただしい取材の旅ですね」
「ただイスラマバードの取材には多少の人員の補給を要するかも知れません。その時はJNP通信に人員派遣を要請致しますが大丈夫でしょうか?」
そう言って一騎は蛍に微笑みかけた。蛍は一瞬言葉に詰まる。蛍には分かる、一騎は蛍に来いと言っているのだ。蛍は動揺を抑えつつ、
「あ、あの、大丈夫です。要請には必ず応えます。先にイスラマバードに行って取材を始めて下さい」
一騎は蛍の答えに満足したのか
「ありがとうございます。今回で部族地域からのレポートは終わりになると思います。次回はイスラマバードからのお届けになるでしょう」
「イスラマバードからのレポートをお待ちしております。道中お気をつけて」
「ありがとうございます。蛍さんお休みなさい。パキスタン北西辺境州、部族地域のラーンディーコタールより、長谷川一騎でした」
一騎は蛍に、そしてこのレポートを見ることになる多くの視聴者に向けて手を大きく振った。ここでビデオ通話は切れた。
最後に一騎さんは私の名前を呼んじゃった。こんな映像を世間に公表したら交際宣言だと勘繰られないだろうか、蛍は照れ臭い。
蛍は一騎の言う人員要請の意味を考える。蛍に向けたあの笑顔、あれは仕事の話の顔とは思えなかった。取材を手伝えと言うよりも、遊びに来いと言っている様に聞こえた。蛍はさっきまで一騎と話していたタブレットで、成田ーイスラマバードの往復航空券を検索する。週に一度パキスタンエアラインから直通便が出ている。その値段は、八万九千円である。こんなはした金で一騎と会えてしまうのか。しかも正午に成田を発てば夜にはイスラマバードにつく。つまりその日のうちに一騎に抱かれてしまうのだ。
蛍は胸のメダイを握りしめて、一刻も早く一騎との再会が果たせる様に祈った。蛍の気持ちは既にパキスタンに飛んでいる。この髪に、この体に、一騎から触れられたいと思った。確かイスラマバードはガンダーラ遺跡が近いはず。蛍は一騎と一緒に行きたいと思いガンダーラを検索しようとするが、明日は早朝から取材が入っている事を思い出し、タブレットを閉じた。スピーカーを消音にしてから手短に風呂に入って就寝した。
夜中、蛍は誰かがベッドに腰をかける気配を感じた。そのまま蛍が覚醒しないままでいると男の手が蛍の髪の毛を撫でてきた。手のひらの大きさと温かさで一騎の手だと分かる。蛍は心地よさにその愛撫に身を任せた。蛍は自分の手を男の手に重ねて指を絡ませた。
「一騎さん」
蛍は思わず声に出して呼びかけるも、あれ、彼はパキスタンじゃなかったかしらと我に返った。
ベッドから跳ね起きた蛍はやっぱり一人きりだ。ひとときの一騎との触れ合いが夢であった事にがっかりする。それでも蛍の髪を撫でる手の温かさや、絡めた指のゴツゴツとした感触はとても夢とは思えなかった。
時計は午前四時を指している。蛍はすぐに眠りの中に落ちて行った。




