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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第四章 スクープを求めてパキスタン辺境州
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マリアの加護

帰宅後蛍が一騎のベッドで横になっていると一騎からビデオ通話が掛かってきた。仕事の一環である。出ないわけにはいかない。蛍はうんざりしながらも髪の毛を整え、太いフレームの眼鏡をして応答する。

「お疲れ様です。根津です」

「蛍」

低い声で一騎が画面から呼びかけた。蛍が録画ボタンをクリックしようとすると、一騎は手の動きでわかったのか、

「今日は録画しなくて良い」

と蛍を制する。今日は無理に元気な声を出さなくても良いと知り、蛍はホッとする。

「どうだ、怪我は?」

「うん、まだ痛い」

蛍も一騎と同じように低い声で答えた。一騎は

「昨日もビデオ通話をしたんだけど通じなかったな」

「すいません。昨日は物凄く疲れちゃって」

蛍は渡航前に言いつけられた業務を遂行できなかった事を詫びる。

「いやいいんだ。私用でビデオ通話しただけだし。君が心配で」

私を抱いた後も部下としてこき使って来たのに襲撃されたら途端に恋人に昇格か。皮肉だなと思いつつも、蛍は一騎の優しい言葉が嬉しかった。一騎は言う。

「君の事件の事が記事になっていたな。日本のネットニュースに出ていた」

「今朝の朝刊に載っちゃった。小さくだけど」

「犯人は捕まったんだ」

「うん」

「良かったな。・・・って言っても気は晴れないよな。しばらく仕事を休むか?」

「ううん、こんなことで休めないよ。週末ゆっくりする。それだけで大丈夫」

一騎は顔色悪くうなだれている蛍に不安そうな眼差しを向けた。蛍はその眼差しに吊られるように、日中、カメラに囲まれて会見する事態になったことを伝えた。

「色んなメディアから事件の事を聞かれちゃって」

「応じるな」

「でもカメラが回っている状態で聞いてくるからこちらも答えない訳には行かないのよ」

「どこの会社だよ、聞いてきたのは」

「知り合いのフリージャーナリストに聞かれた。質問されるのはいいのよ。私も人に散々質問してきたし」

そこで蛍は言葉を切った。言葉にすると泣きたくなる。蛍は極力自分の感情を抑え、

「性的な暴行も受けたのかとカメラの前で聞かれた」

一騎は蛍の告白に憤って、

「おい、その質問も同じジャーナリストからか?」

「分からない。後ろの方から聞こえた。そしてその質問に対して周りの皆が笑った。笑い声も後ろの方から最初に上がった」

一騎は腕を組んで険しい顔をする。蛍は続けた。

「犯人も変な男なのよ。二十六歳、職歴なし」

「ニートだな」

「犯人は失礼な男で、私ならばみんなに嫌われているから何をされても構わないなんて言うんだよ」

蛍は自嘲気味に言った。

 蛍は、あはは相変わらずの嫌われっぷりだな、そう一騎は笑うかと思ったが笑わなかった。真っ直ぐに蛍を見据え、

「今すぐ日本に帰って君を抱きしめたい」

蛍は思わぬ言葉をどう受け止めて良いのか分からず、俯いた。そして俯いたまま

「うん、そうして」

と、小さな声で答えた。しかし二人のその願いは実現不可能だった。一騎は焦れたように

「あー、なんで俺はこんな時にパキスタンなんかにいるんだろう」

と恋人との距離を嘆いた。蛍は襟口からネックレスを引っ張り出し

「毎日しているのよ」

と聖母マリアのメダイを見せる。

「マリア様が君を守ってくれますように」

一騎はあながち冗談とも言えない口調で言う。

「うん、そうね。きっと守って下さるわ」

蛍は素直に肯定した。

「俺も毎日しているぞ。もっぱら盗難防止だが」

と一騎も同じくネックレスを引っ張り出し、ピンクトパーズの指輪を見せた。

「日本に帰ったらすぐにやるから」

「うん」

「君の手に渡る頃には、俺の汗と垢と体臭まみれになっている」

「う、いらない・・・・」

「まあそう言うな。今着けてみるか?」

そう言って一騎はレンズ近くまで指輪を差し出した。蛍はどきりとする。そもそもどの指に着ければいいのだろうか。一騎は不安げに蛍が指輪を受け入れることを待っている。彼女は躊躇った後に、左手を画面に近づけて、指輪の画像と自分の薬指を重ねた。しかしそれは一瞬のことで蛍は直ぐに指を引っ込める。一騎は蛍が自分を受け入れたと知り、安堵の表情を見せる。

「明日からまたネット環境の悪い所に取材に行くから、二、三日ビデオ通話が出来ないと思う」

「分かった。じゃあ週末は一騎さんの撮った映像を整理している」

「疲れるからやめろ。週末はゆっくりしておけ」

「ううん、一騎さんの撮ってきた映像を観たいから」

「え、そうか?」

嬉しそうな顔を見せる一騎。

「じゃあまたビデオ通話する。体調が悪い時は電話を受けなくて良いからな」

「もう大丈夫だよ。いつでもビデオ通話して来て。じゃあおやすみなさい」

「あははこっちはまだ寝る時間じゃねぇよ。君は早く寝ろよ」

そう言って一騎はビデオ通話を切った。

蛍は自分の左手の薬指を見つめながら、この指に指輪をはめてしまって本当に良いのかしらと思う。 蛍は一騎のベッドに潜り込み、一騎の愛撫を思い返した。二人でいる時の一騎は蛍の髪を撫で、時に髪にキスをしてくるのだ。四月の一騎の帰国まで待てるだろうか。今すぐに一騎に自分の全てを触れられたくなる。こんなにも一騎を好きになりすぎて怖い。蛍は一騎がずっと自分のそばにいる未来をまだ描くことができないのだった。


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