蛍への罰
蛍は住民が見守る中救急車に乗せられた。そのまま入院かと思いきや未明の時間に帰宅させられた。警察は夜を徹して現場検証だ。マンションの前に警察車両数台、及び警察の自転車が停められ、近隣にここが事件の現場だと遠回しに喧伝される。
蛍は痛む目と口を押さえつつ、極力客観的な口調で自分の被害を説明する。傷害罪に強制猥褻が加わったら更に犯人の罪が重くなると考え、部屋着のズボンと下着を下ろされた事を警察に報告した。
「その日は私の誕生日で、友人からプレゼントが届く予定でした。だから宅配業者を名乗る犯人に玄関を開けてしまいました。現に本当の宅配業者が来たではありませんか」
蛍は殊更に自分に落ち度はないと言い募る。
殴られた口は未だに腫れ、眼球は真っ赤に充血している。結局会社を休んだのは事件の翌日だけで、翌々日から蛍は撲殺された死体のような顔で電車に乗って通勤した。
同僚達は彼女を遠巻きに眺めるだけで誰も声をかけて来ない。時に発展途上国では権力に楯突いたジャーナリストが襲撃されるが、この成熟しきった日本という国ではジャーナリストへの迫害など誰も聞いたことがない。もしかして根津さんやられちゃった?同僚達は貞操への攻撃を勘ぐった。香山だけが心配そうに、
「少し休んでいたらどうですか?長谷川さんから振られた仕事ならば僕も手伝いますよ」
「ううん、大丈夫」
蛍は香山の顔を見ずに答える。目が痛くて眼球が動かせない。
蛍はいつものように深夜まで働いた。会社を出た蛍には駅まで歩く気力さえない。流しのタクシーを捕まえて浅草の自分のマンションまで乗り付けた。
電球の切れたエントランスを通り、自分の部屋に向かう。玄関の前に誰かいたらどうしよう。自分が玄関を開ける刹那、男が玄関に滑り混んで来たらどうしよう。蛍の脳裏には嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
誰もそばにいないことを何度も確かめてから玄関を開ける。しかし部屋に入った後も安心はできない。蛍は土足のまま傘を片手にトイレ、風呂場、クローゼットまで見て回る。疲れと興奮と外傷で彼女の目の奥は熱く熱を帯び、ジンジンと痛んだ。
宅配業者を装ったあの男。あの男は単独犯ではない。背後に誰かがいるはずだ。蛍は彼を単なる手先だと思っている。誰があの男を蛍の元にやったのか。
蛍は李朱亜の親玉が怪しいと思っている。
国際手配までされた産業スパイの朱亜とて単なる駒に過ぎない。裏社会の諜報機関が朱亜を上条昇に取り入らせたのだ。国家の機密を標的にするような闇の力を持つ組織だ、蛍のような無名のジャーナリストを消す事など訳はないだろう。
次は誰が来るのだろうか。そして私はどんな罰を受けるのだろうか。
出勤途中に顔に硫酸をぶっかけられて一生表に出られない容貌にされる?それとも衆人環視の元数多のならず者達に蹂躙されるか。このマンションに放火されて焼死する最後?
蛍は立ち上がった。クローゼットからトランクを引っ張り出してそこに下着や衣類、携帯用の化粧品、商売道具のパソコンを入れて、蓋を閉める。一騎から贈られた花籠を置いてけぼりにするわけにはいかない。蛍は手提げ袋に花籠を入れた。取材旅行に旅立つように戸締りをして出発だ。右手でトランクを引き、左手に花籠が入った手提げを持ち、マンション前でタクシーを拾う。
蛍が身を寄せる場所は一箇所しかない。主人が不在の一騎のマンションだった。
蛍が一騎のマンションにたどり着いた時には、時計の針は午前零時を指していた。玄関を開けると一騎の匂いを嗅いだような気持ちになった。蛍は安堵のあまり春物のコートも脱がずに、玄関に座り込んでしまう。
鍵を預かっているとはいえ勝手に上がり込んで。一騎は怒るだろうか。怒られたって構うものか。散々私を抱いておいて、たまには私の役に立て。その実蛍は一騎に宿泊の許しを乞うことが出来なかった。一騎に理由を聞かれる事が怖かった。
蛍は風呂場で一騎のシャンプーを借りて頭を洗う。テレビの広告でやっている、養毛剤配合の高価な物だ。そこかしこに一騎の存在を感じられ、蛍は自分が遭った被害のことを考えずに済んだ。
一騎のベッドから一騎の匂いがした。一人で入る一騎のベッドは広過ぎた。一騎に会いたい、一騎に会って抱き締められたい。今夜はいつになく一騎を求めてしまう夜だ。目の奥が相変わらず痛む。寝る前に目薬しなくては。そう思って蛍は身を起こそうとしたが、甘い眠りに引きずり込まれ、朝まで目を覚ますことはなかった。