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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第四章 スクープを求めてパキスタン辺境州
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暖かい雪

一騎は事務的な顔に戻り、

「この袋の中に娘宛の保険証書が入っている。もし俺が帰国できない事態になったら神戸に書留で送って欲しい」

保険証書が入った封筒には一騎の元妻と思われる長谷川由紀子の住所と名前が既に記載されていた。蛍は

「明日空港から自分で送ったら?旅行保険の証書を家族に送っておくのは普通のことよ」

「そうだなぁ」と一騎は腕を組んだ。

「今下手に先方に関わるとろくな事にならないと思うんだ」

「ろくな事?」

「俺の真心に触れて、先方が離婚届けの提出をためらう、とか」

と一騎は答えた。真心?蛍は思わず吹き出したが、一騎は大真面目だ。

「実は今まで何度も離婚の話が出ていたんだ。でも娘が中学受験するならば片親では不利だと妻に言われてそのままうやむやになった。ただ、ローンを払い終わったら俺も自分の役目が終わったように思えて、蛍と二人で会うようになっちゃって。きちんと離婚する前に蛍とそういう事になって、君に悪い事をしたとは思っているんだけど。俺も二重生活に疲れたよ。蛍ともちゃんと付き合いたいし」

蛍はその言葉を嬉しい気持ちで聞いた。

「妻の気が変わって、やっぱり子どもが就職するまでは夫婦でいましょうって言い出されても困るよ。俺はもう東京で根差している。今更神戸で家族と暮らせないよ」

「じゃあJNPに入る時に妻子を連れて上京すりゃ良かったじゃない」

蛍は至極まともな疑問を口にする。一騎はちらりと蛍を見た後に遠くを眺めるような目になった。

「同行を拒否された。妻からも娘からも」

「一騎さんは家庭内でもドブネズミだったんですね」

蛍はそう感想を漏らす。一騎はムッとした顔をして「悪かったな」と言う。蛍は言いにくそうに

「念の為に聞いておきたいんだけど、別居や離婚の理由って何?」

「決定打はない。俺は愛人とか借金を拵えたわけじゃないし。細かい事の積み重ねで」

「ふうん、微罪の累計犯ね」

蛍が言うと、一騎はかっと目を見開き、

「おい、さっきから失礼だぞ。人を万引きの常習犯みたいに言うな!」

と蛍を叱りつけた。そして

「離婚の理由は性格の不一致としか言いようがない。話せば長い話になる。向こうには何の落ち度はない。ただ彼女は俺と結婚するには善良過ぎて、常識的過ぎた」

と明言を避けた。そして

「俺ってエンジンふかしっぱなしの人間じゃん?言っている意味、分かるか?」

「うん分かる。いつでも発射直前というか、臨戦態勢というか」

「そう、それ。蛍もそうだよな」

蛍は「人からそう言われる事は多いわね」と認めた。

「だからさ、言葉は悪いけれど君と一緒にいると楽なんだよ。一から十まで説明しなくて済むし。色んなことを分かち合えると言うか。俺の仕事を理解してくれるし、結局俺のやりたいようにやらせてくれる」

一騎は自分の気持ちを吐露した恥ずかしさに、ベッドの上でもじもじする。どうせ私が反対してもやりたいようにやるくせにと蛍は思うもあえて反論はしなかった。蛍は

「まあいいけれど。郵便局ぐらい行ってあげても」

と保険証書の件を請け負った。

「まあ多分証書を送るような状況にはならないと思うけどな」

「一騎さんって私をこき使うよね」

蛍は嫌味を言った。上司と部下の関係がプライベートでも続きそうだ。

「あはは、悪い悪い。じゃあこれやるよ」

一騎は再び机の引き出しを開けて、銀のネックレスを取り出し、それを蛍の首にかけた。男物のチェーンは蛍の首には若干太く長すぎた。チェーンには親指の先ぐらいの大きさのメダルがかかっていて、蛍はその楕円形のメダルをつぶさに見た。ベールを被った女性が彫られている。一騎は言う。

「マリア様のメダイだ。君にやる」

一騎はカトリックの家に生まれ、幼児洗礼を済ませてあった。蛍はこのメダイは取材先のフィリピンの教会で授けられた物だと聞いていた。軽く貰える物ではない。

「こんな大事な物を受け取れないわ。一騎さんが持っていて」

蛍はチェーンを外そうとした。

「俺にはもう必要じゃない。実はムスリムに改宗したんだ。もうカトリックじゃない」

今日の一騎は驚きの告白ばかりだ。蛍は聞いた。

「何でまた」

「取材先で信頼関係を築きたい」

一騎はそう真顔で言った。蛍は鎖を外す手を止めて、

「分かった。そこまで覚悟を決めているのならばもう何も言わない。本当に頂くよ」

と言って、メダイをブラウスの中に納めた。ムスリムのくせに飲酒はする、女は抱く、とんでもない破戒者だと蛍は思ったが黙っていた。

「本当にもう帰るわ。電車がなくなりそう」

「そこまで送るよ」

蛍はコートを羽織りかけた一騎を押し留める。

「もう旅の準備をして。渡航前で忙しいんでしょう?」

「大丈夫だから」

そんな矢先にまた一騎の携帯電話にメールが入る。「ほらね」蛍が指摘すると、一騎は気まずそうに笑った。

「ここで良いから。取材の成功を全社を挙げて祈っている」

玄関で蛍は一騎と向かい合って言った。蛍はまだ自分が一騎からの質問に答えていない事を思い出し

「そう、さっきの話だけど」

「さっきの話?」

蛍は一騎の顔を覗き込んで、

「私はあなたを愛しています」

一騎は蛍を抱き寄せて、最後に丁寧に口づけをした。蛍の左手を強く握りしめて、

「でっかい宝石のついた指輪を買ってきてやる」

と約束をした。

終電間際の駅へと蛍は急いだ。雪は早くも積もり始めている。季節外れの大雪の中、今夜の雪は暖かいと蛍は思う。愛しているとお互いに告白しあって、合鍵を渡されて、信仰の証のメダイまで貰って、指輪を贈る約束もされた。一騎のマンションを振り返ると、一騎が携帯電話で話をしながら蛍を心配そうに見下ろしていた。蛍は傘の下で一騎に向かって手を振った。

あの人が私の恋人なんだ。蛍は胸に手を当てて、下着の中のメダイを確かめる。そのまま傘を捨てて走って行きたいような気持ちになった。



BGMは松山千春の「雪化粧」が似合うと思います。

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