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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第四章 スクープを求めてパキスタン辺境州
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ドブネズミにお似合いの情事

一騎が住む西日暮里のマンションにはすぐに着いた。一騎の部屋はモニターを始めとして各種AV機器が揃っており、簡易な映像スタジオと言った趣きだった。蛍が部屋に入ると大きなトランクが目に入った。明日からのパキスタン渡航に備えて荷造りは済んでいる。部屋の暖房をつけるが早いか、一騎は蛍を抱きしめた。蛍も一騎の背中に腕を回す。二人はお互いの唇を求め合った。

「蛍」

一騎は自分の腕の中に蛍を抱いたまま、蛍の名前を呼ぶ。こんな時の蛍は一騎にされるがままだ。蛍は一騎の肌を求めて、苦しい息の下、

「一騎さん」

と男の名前を呼んだ。 一騎は蛍の手を取ると彼女の手を自分の頬に導いた。

「君が好きだ」

蛍は一騎の頬に手をやったまま頷いた。一騎の手が蛍の手を離しても、蛍は一騎の頬に触れたままだ。

「君は俺を愛してくれるかい?」

蛍はその問いかけに答える事が出来なかった。答えようとすると胸がいっぱいになってしまう。答えを与える代わりに、蛍は一騎の背中に回した自分の腕に力を込める。彼女は一騎と肌を合わせながら、よその旦那さんを借りるのは今日だけだ、今夜は特別な夜なのだからと自分に言い訳をする。

二人が身を離した後、一騎は体を流すために浴室へ消えた。一人ベッドに残された蛍はカーテンを薄く開けて、曇りガラスを指で拭い、窓の外を見た。雪はいつまでもやまない。

ドブネズミと呼ばれる自分に相応しい情事だ、蛍は一騎との関係を自嘲的に思う。妻子ある上司との慌ただしい交合。私はこんな汚らわしい恋愛しかできない。


部屋着に着替えた一騎は台所の明かりを付ける。蛍は外から自分の裸を見られる事を恐れてカーテンを閉めた。

「あ、何にもねぇや」

一騎は空っぽの冷蔵庫を覗き込んで言った。長い留守の前一騎は食材の補充をしなかった。

「ミネラルウォーターで良いか?」

一騎は聞く。蛍が頷くと災害用に備蓄していたミネラルウォーターの栓を開けて、グラスに注いだ。蛍は胸元まで毛布を引き上げて、グラスを受け取り飲み干した。冷蔵庫に入れていなくても十分冷えている。蛍はグラスを一騎に返して礼を言った。一騎は再びベッドに入り、毛布ごと蛍を掻き抱いた。二人は上半身を起こしたまま、こめかみとこめかみをくっ付けた。

「泊まって行くか?」

一騎は聞いたが、蛍は断った。

「明日の朝は雪で電車もバスも止まりそう。今のうちに帰るわ。それに、渡航の準備もあるだろうし」

二人が体を重ねている間、一騎の携帯電話にメールがひっきりなしに入って来ているのを蛍は気にしていた。

「そうか」

一騎は残念そうに言って、蛍の髪の毛を撫で続ける。こんな時だけ優しいんだから、と蛍は一騎を憎たらしく思う。一騎は蛍の体を強く抱いて、

「何だか今回の取材は不安だ」

と弱気な声を出す。

「不安って?」

「紛争地域とは別の緊張感がある。紛争地域ってマスコミが大挙して押しかけるだろう?外国人も多いし、そんなに不安じゃない。でも今回のパキスタンの部族地域はそもそも外国人が入れない場所だし、俺を守ってくれる法律があるわけでもなし、ましてやパキスタン警察さえ介入できない場所だからなぁ」

そう言って、蛍の髪に自分の顔を埋めた。蛍は言う。

「余計な事を言うまいと思って黙っていたけれど、何でそんな危険な場所に行くの?今からでも取材場所を変更できない?」

「一年半がかりで準備して、色んな人に世話になった。今更引き返す事は出来ない」

「そう」

蛍は一騎の返答に落胆する。

「じゃあ行くからには誰も知らないアヘンの密輸ルートをスクープしなくっちゃね。あなたならば大丈夫。いつだって生きて帰れた」

蛍はそう励ますように言って一騎の額に唇をつけた。

私も同じだ。こんな時にしか優しい言葉をかけられない。


一騎と寝るのはこれで二度目である。数年前から蛍と一騎は不倫関係にあると噂されていた。よその旦那さんと平気で寝られる女、それがマスコミ界の蛍への見方だった。だからこそ蛍も一騎も男女の関係にはならぬように気をつけていたのだが、今年の一月、つい寝てしまった。きっかけは・・・・。

「あのさ、一騎さん」

蛍は一騎から体を離し、乾いた声を出す。

「何?」

「私達、前もこう言うパターンじゃないですか?一騎さんの海外渡航の前に仕事の引き継ぎを名目に家に連れ込まれて、それでこう言う事になった」

「そうだったっけ?」

一騎の取材先はいつも渡航自粛地域だ。紛争地域、武装地域。放射能汚染地域。今回は法律の通じない部族地域だ。今度の今度こそ戻って来られないかも知れない。今夜が一騎を知る最後の夜になるのではないか、蛍はそう思うとつい体を与えてしまったのだった。


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