父親はジャーナリスト
三月になったと言うのに、寒い日が続いていた。夕刻、長谷川一騎は喫茶店で別居中の由紀子と向かい合っている。
「なんだ、しなのも一緒かと思ったよ」
一騎は妻が養育している娘のしなのに会いたくて仕方がない。娘は妻と一緒に神戸で暮らしていた。今日は妻が上京して来たので、一騎は仕事の合間に時間を作って彼女と会っているのだ。
「まだ春休みじゃないでしょう」
妻はぞんざいに言う。子どもの学校の予定も把握してないのか、と言いたげに。
「まあそうだな」
一騎は大人しく妻の言葉を受け止める。
由紀子はコーヒーカップを静かに置き、
「しなのももう中学生。私達、もうはっきりさせへん?」
「うん、そうだな」
一騎は応じる。由紀子がわざわざ上京して来た理由は分かっている。離婚協議を終結させたいのだ。一騎は
「家族であるうちに一度だけしなのと会いたかったなぁ。だって俺、明後日にはアフガンの国境まで行くんだぜ。結構危険な場所だし」
と娘への未練を口にする 。由紀子は一騎に憐憫の情を持つでもなく、
「あなたはフィリピンのスラムを取材すると言って何度も向こうに渡航して、実際はフィリピンで女の人を囲っていたんじゃない」
と夫を責めた。彼等の両隣の客が、この男がと言う目で一騎を見た。
「囲うとかそんなんじゃなくって、単に現地採用のスタッフの一人だから。彼女は」
一騎は声を潜めて反論する。
「おまけにあなたは・・・・・」
由紀子は声を震わせて赤く潤んだ目で一騎を睨みつけた。この男は更に何をしたんだろう、隣席の客達は一騎と由紀子の会話に耳をそばだてた。泣かれたら嫌だなぁと一騎は思う。
「私、もうあなたの事を考えるのに疲れた」
由紀子は涙ぐみながらうんざりした顔をした。
「君がそうしたいんだったら、今日で合意に達したと言うことにしようか」
一騎がそう言うと、由紀子は指の腹で涙を拭い、事務的な口調で、
「養育費は?今まで通り払ってくれるんでしょうね?」
「勿論だ。この間文書にして約束したじゃないか。神戸のマンションのローンはもう完済している。所有者は君名義になっているはずだろう」
「そう、そうよね」
由紀は他に確認事項がないかと確認しつつ頷いた。一騎も自分の要求を口にした。
「親権は君が取るんだろう?俺としなのとの面会は?」
由紀子は鼻で笑いつつ、
「しなのの学業に支障がない範囲内ならばいつ会っても構わない。別居の時にそう決めたはずよ」
「ありがとう」
一騎は安堵して礼を言った。由紀子は聞く。
「今月の末はしなのの小学校の卒業式。あなたは来る?」
一騎は言いにくそうに
「行きたいのは山々だけで、取材先から帰国できそうにない」
「しなのに会おうと思えばいつだって会えたのに、あなたはいつも言い訳ばかり。入学式も誕生日もしなのの事は放ったらかしで。何が面会よ。どうせ会いに来ないくせに」
「俺だって会いたかったさ」
一騎は少しだけ大きな声を出す。
「でも仕事しないと。しなのの節目節目にはお祝いの気持ちで仕送りを増額して来たつもりだけど」
由紀子は薄く笑い、
「仕送りの増額って・・・・。親戚のおじさんじゃあるまいし。あなた父親でしょう?」
と鋭く切り返した。
「父親だからこそ家族の為に仕事をした」
一騎は苛立った気持ちで言い返す。危険な紛争地域での取材を続けたから神戸に送金出来たし、ローンも完済できた。家族を養う為に己の身を危険に晒し続けたと言うのに。勿論そんな事を口にしたら言い争いになるだけなので一騎は黙っている。一騎は由紀子と会うと最後はいつも苛立つのだ。一騎も由紀子と同じように、相手と向き合う事に疲れていた。
一騎が気分を害したのを見てとると、由紀子は優しい言葉をかけて来た。
「安心してよ、お父さんは取材で世界中を飛び回っていて日本にはほとんどいない、だから貴方に会えないんだと言ってあるから。今度は何をしにアフガニスタンまで行くの?」
「正確にはパキスタンだ。アフガンとの国境にあるアヘンの密輸ルートを取材しに」
アフガンが何だって?アヘンが何だって?俺は今親権を奪われようとしているんだぞ。しなのを除く全人類が薬物で汚染されればいい。一騎はそう思った。
「アヘンの取材にパキスタンに行ったって事もしなのに言っておいてあげるわ。父親がジャーナリストだって事はあの子にも大きな誇りやから」
「ありがとう」
一騎は静かに言った。
「いつ日本に帰って来るの?」
「四月の終わりぐらい。余りに治安が悪かったら早目に切り上げて来るけれど」
「そう。じゃあ急かせるようで悪いんだけど」
由紀はそう言いつつ、バッグから茶封筒を取り出し、中身を一騎の前に広げた。それは離婚届だった。
「途中で苗字が変わったらしなのはお友達から奇異な目で見られるわ。苗字を変えるのは中学入学前の今しかないの。ねぇ今日書いてもらえないかしら」
「え、今?こんな大事な事・・・・・。悪いんだけど、預からせてくれないか?」
「預かるっていつまで?貴方は何ヶ月も外国に行っちゃうんでしょう?三月中に役所に提出しないと、しなのの苗字が変な時期に変わっちゃう。ねぇお願い。あの子のためよ」
しなののため。そう言われたら一騎は妻の要求をのまざるを得ない。ちょうど二人の両隣は今空席だ。一騎は離婚届に自分の名前を記載し、いつも持ち歩いている三文判を突いた。届けを折り畳んで妻に返してから、
「これで最後だから一緒に出しに行こうか?」
と提案した。由紀子は目の淵に涙を溜めたが、強く唇を結び、天井を仰いで涙を零さないようにした。呼吸を整えてから、
「それも一案だけどもう神戸に戻らなきゃ行けないの。神戸で出すわ」
と言って立ち上がった。一騎も共に立とうとすると由紀子は、
「あ、ここでバイバイでいいわ」
と言って、自分のコーヒー代をテーブルに置く。
「良いよ。新幹線代もかかるんだろう」
一騎は千円札を由紀子に返した。由紀子は一瞬躊躇ったが、千円札を受け取った。そして一騎の目を覗き込み、
「しなのの父親はジャーナリスト。それは生涯変わらないわ」
と言って店を出て行った。
これが夫婦、いや、家庭の終わりか。こんなに呆気なく。一騎はカメラを担いで世界中を取材して回って来た。カンボジアでは同行者が地雷を踏んだし、チベットでは自分が中国の公安に拘束されたこともある。数々の困難を潜り抜け、いつも生きて帰ってきた自分を特別な存在だと思っていた。しかしこの自分が妻に離婚を切り出されるとは。
俺と根津蛍と香山誠、この三人がいつからかドブネズミとあだ名されるようになった。事件、紛争、醜聞、これらの元にはいつの間にかドブネズミが姿を現わす。 一騎はこのあだ名を苦笑しつつも受け入れていた。実際ドブネズミ並みの嗅覚で事件を嗅ぎつけ、報道してきたからだ。しかし、今はその呼び名が忌まわしい。それは自分が名実共にドブネズミのような存在になってしまったからだ。ドブネズミのように薄汚く、人から追い払われ、誰も寄り付きはしない。
しなのはこんな自分を父と思い続けてくれるだろうか。一騎は背中を丸め、周囲から身を隠すようにして自らの生き方を省みた。




