母親なんだから
花梨がここまで書いた所で、夫の公仁が帰って来た。信用金庫に勤務している公仁とは親の勧めるままに見合い結婚をした。花梨は根津蛍の名刺を財布に押し込んで夫を出迎える。残業から帰って来た夫に軽い夕食を出し、風呂の準備をする。
花梨が明かりのついた寝室で横になっていると、入浴を済ませた夫が入って来た。公仁はベッドに潜り込むと、眠気が訪れるまでスマートフォンをいじっている。
「ねぇきみ君」
花梨は結婚当初の呼び方で夫を呼んだ。「なんだ」公仁はスマートフォンの画面を見ながら返事をする。花梨は続ける。
「私、きみ君に黙っていた事があるんだ」
そこでやっと公仁は顔を上げて妻を見るのだった。
「何?」
公仁は険しい顔だ。花梨はその顔に気押されながらも、今日言わなくては、私は昨日までの私じゃないんだからと自分に言い聞かせる。そして何でもない事のように
「私さ、実は大学を卒業していないんだ。中退しちゃった」
「何で?」公仁は咎めるように尋ねた。
「うーん、なんて言うか、痴漢に遭っちゃって、外を出歩くのが怖くなっちゃってね」
花梨は自分の被害を殊更矮小化して言ってみた。公仁は返事に窮した顔で黙っている。
「犯人は捕まったよ。女の子の友達で勇敢な子がいてさ。その子多香絵って言うんだけど、多香絵が犯人を警察に突き出してくれたんだ。犯人も同じく大学生で、彼等は大学を辞めさせられて、執行猶予付きだけど有罪判決を受けたんだ」
「彼等?」
公仁は妻の告白を聞き逃さなかった。
「あ、あの、犯人は複数で・・・・・」
花梨は自分の受けた被害が単なる痴漢ではないと知られたようで心臓が縮こまる。しかし公仁はそれ以上追求して来なかった。その代りに別の質問をした。
「犯人とかその多香絵とか言う女の子は今どこにいるんだ」
「多分東京」
犯人をぶん殴ってやりたい、多香絵ちゃんに俺からもお礼を言いたい。そう公仁は言うと花梨は思った。公仁は言った。
「あなたも二人の娘の母親なんだから、寝た子を起こすんじゃないよ」
そして面倒臭そうにスマートフォンの画面を消し、部屋の明かりを消すためのリモコンに手を伸ばした。え、それだけ?花梨はリモコンのボタンを押そうとする公仁の手を自分の手で止めて、
「きみ君は私が可哀想とか心配とか思わないの?」
公仁は妻の反応に驚きつつも
「可哀想と言うか・・・・、犯人の逆恨みが気になる」
「そうじゃなくって、加害者の気持ちじゃなくって、被害者の私の気持ちを考えないの?」
「でも犯人の恨みの矛先が、君だけじゃなくって、娘達に向くことも考えろよ」
子どものことを持ち出されたら花梨は何も言えなくなる。花梨が黙ると、公仁も黙る。花梨はリモコンに手を伸ばして自分で部屋の明かりを消した。暗闇の中、公仁が花梨の反対側に寝返りを打つ音が聞こえる。花梨は怒りの中、公仁の背中に向かって言った。
「あなたはさっきから一つも私の質問には答えないよね」
公仁は横になったまま
「可哀想だと思っているよ」
花梨は何も答えなかった。どうせ私のために何かしようとは思わないくせに。花梨は心の中で悪態を付き、聞こえよがしに大きなため息をついた。
花梨と公仁は肌も気も合わない夫婦だった。こんな時、花梨は結婚した事をひどく後悔するのだった。




