眠ってなどいられない夜
その時蛍はふらつきを覚えて立ち止まった。今頃になって酔いが回ったのか。街路樹はミシミシと音を立てて軋んでいる。地震だった。彼女は揺れる街灯を見つめ揺れが収まるのを待ったが、すぐに立っていられなくほどの地面からの突き上げを感じ、頭をバッグでかばいしゃがみ込んだ。ハンドル操作を誤った車が歩道に乗り上げ危うく蛍を轢きそうになる。揺れは収まっては繰り返し、悲鳴やガラスが割れる音があちこちから聞こえた。
揺れが収まると恐ろしい程の静寂が支配した。何か禍々しいものの前兆であるかのように。蛍は立ち上がり左右を見渡しながら歩き出す。耳を澄ませて人のざわめきを感じ取る。
騒ぎがあるのはこっちだ。蛍は数寄屋橋交差点から離れ、細い裏道に入る。ざわめきが更に大きくなる。蛍がそこで見たのは古い看板の下敷きになり苦しんでいるバーテン風の若い男だった。
「救急車だ、救急車!」
誰かが怒鳴る。蛍は人を掻き分けて血まみれの男のそばに近づいた。バッグからデジタルカメラを取り出してバーテンの男を撮影した。
「不謹慎ですよ。やめて下さい!」
怪我人を取り囲んでいた女性の一人が棘のある声で蛍に声をかける。蛍はカメラのモニターに視線を向けたまま、
「報道です」
と答える。
「報道だったら何をやってもいいの?」
女は更に食ってかかった。蛍は答えない。蛍はひたすらシャッターを切る。報道用の一眼レフを持って来なかったことを後悔しながら。
長い時間が経ち、救急車が到着した。蛍は救急車に搬入されるバーテンダーを撮影し、カメラをバッグにしまった。救助を手伝うことなく撮影し続けた蛍に多くの憎悪のこもった目が向けられたが、蛍は構うことはない。新たな事件を求めて独特の嗅覚を頼りに歩き出す。
蛍は手首を裏返し時計を見る。午前二時。もちろん終電は終わっている。もとよりこの地震で電車は動いていないだろう。タクシーを待つ長い列をカメラに納めて、今夜の取材を終えることにする。新富町に蛍の所属するニュース番組制作会社があった。今夜は朝までそこで過ごすつもりだ。蛍は銀座から歩いて新富町を目指した。
未明だと言うのにまだ社屋には明かりがついていた。こんな非常事態の夜はスクープ狙いのジャーナリストは眠ってなどいられない。蛍とてそれは同じことだ。排水溝を伝ってどこにでも現れるドブネズミ。根津蛍を始め、同じチームの同僚達がいつしかドブネズミと呼ばれるようになった所以である。
蛍が蛍光灯の灯る事務所のドアを開けると、会社代表の剣崎二郎がギョッとした顔で彼女を見た。
「なんだその格好は!銀座で水商売をしているといううわさは本当だったのか?」
「銀座じゃなくって赤坂です。中国人にハニートラップをかけられている可哀想な男やもめの情報を聞きつけましてね」
「上条昇か?経産大臣政務官の」
剣崎の問いに蛍は頷いた。
「上条も大変だな。中国人の産業スパイからもジャーナリストからも色仕掛けで嵌められて」
「あんな爺さん、赤子の手をひねるより簡単でした。李朱亜の勤務先まで分かりましたよ」
蛍は自分の手柄を上司に申告するも、上条に自分の正体を知られたことは黙っていた。
蛍が勤務しているJNP通信はニュース番組制作会社だった。テレビ局にニュース映像を提供する他、独自に入手した情報を自社サイトで流していた。
蛍は夜を徹して銀座の惨状をネットニュースに流し続けた。昨夜の飲酒のせいもあり瞼が下がって来て仕方がない。この間剣崎は来客用ソファーでうたた寝だ。午前五時。全てのニュースを配信し終わり、鉄道の運行状況を調べていると事務所の扉が開き、直属の上司の長谷川一騎が入って来た。
「お、長谷川、お前も来たか」
目を覚ました剣崎は上半身を起こした。朝日が事務所を満たし、剣崎のハゲ頭を照らす。六十近い剣崎は加齢によるハゲだが、まだ四十前の長谷川も早額が後退し始めている。本人も広くなりつつある額を気にしているのか、常に髪を短く刈りこんでいた。長谷川は剣崎に向かって、
「昨日の夕方にシリアから帰国しましたよ。いやー俺は運が良い。帰国が一日遅れていたら、他社に震災報道で出し抜かれますからね」
長谷川は誰が出勤しているか確かめるために社内を見渡した。そして胸元露わな蛍を見て口をあんぐりだ。蛍は長谷川の視線に気がつきショールで胸元を隠す。長谷川は我に返り蛍の胸から目を逸らした。しかし今度は彼女の顔を見て驚きの声を上げる。
「根津さん、なんだその顔は!化け猫じゃないか!」
「うふふ、このぐらいじゃないと赤坂でホステスは務まりませんからね」
蛍はそう言って顔を上げて社員一同に見せびらかすようにその場で一回転した。長谷川は聞いた。
「整形したのか?」
「ヒアルロン酸を色んなところに入れて頂きましたの。あとはお目目もいじって。しばらく経ったら元に戻りますけれどね」
蛍の豊かすぎる乳房もヒアルロン酸の豊胸術で一時的に作られた物だ。鼻梁にも同じものを入れた。
「長谷川さん、電車は動いていますか?」
蛍は聞いた。
「ノロノロ運転だけど動いているみたいだぞ。俺はバイクで来たから知らんが」
「あっそ。まあいいや。私は帰ります。昨夜から色々取材で疲れているんだから」
蛍はつけまつげをむしり取るとそれをゴミ箱に捨てた。
「ところ根津さん、今夜は空いていますか?」
と長谷川。
「うーん、予定はないこともないけれど、この地震じゃ取材対象が会ってくれるか・・・」
蛍が言うと、
「よし、被災地に取材に行くぞ。今夜出発だ」
被災地取材なんて何日も風呂には入れない、宿泊は車の中。楽しいことなんて何もない。蛍は気乗りしないまでも
「はいわかりました」
と平坦な声で答える。
「そうそう他社も被災地入りをしているんだからうちも遅れを取るわけにいかないからな」
と剣崎。
「そうして日本の報道は横並び」
という蛍の嫌味を剣崎は涼しい顔で無視した。
長谷川は蛍に顔を近づけ、薄ら笑いで
「東北の原発が緊急停止中だってよ」
と囁いた。
「と言う事は?」
「もうすぐ爆発」
「・・・益々行きたくなくなった」
「そう言いなさんな。歴史に名前を刻めるぞ」
「名前?」
「原発が爆発する瞬間を撮影するんだよ」
「死んじゃう」
「大丈夫だ。原発から十キロ離れた場所に良いポイントがあるんだよ。そこで撮影すりゃ被曝量なんてたかが知れている。それに事前にヨウ素を飲んで防御服を着込めば準備万端よ」
「そんなにうまく行くんですかね」
「俺をだれだと思っている。核問題を専門に、世界を股にかけるイッキ・ハセガワだぜ」
「私は政界のスキャンダル問題を専門としており、長谷川先輩の足手まといになるだけだと」
蛍は婉曲に同行を断る。
「くだらない漫才をしていないで、お前ら今夜には被災地に向かえよ」
剣崎がうるさそうに二人を手で追いやった。