金本一族のその後
多香絵は四十歳になった。中堅の貿易会社に勤務し、静かに暮らしている。未だ独身で結婚の予定も、その意思すらなかった。
週に一度のフィットネスクラブ通いが唯一の趣味らしい趣味だ。いつものように会社帰りに自宅近くのクラブに寄った。チェックアウト時に多香絵は顔見知りの若い男性職員に話しかける。
「先週ここでホワイトゴールドの指輪を忘れて来たみたいだけど、届いている?」
「どのような指輪でしたか?」
「アクアマリンの」
「ああ、それでしたら」
彼は大きく頷いて、カウンター裏の事務所に回り、小さなビニール袋に入った指輪を持って来た。
「そう、それそれ!」
多香絵は声を上げる。
「では受け取りのサインを」
職員は多香絵の前にノートを差し出す。多香絵はサインをしつつ
「あー良かった。気に入っていたのよ」
「可愛い指輪ですね」
「バリ島で買ったの」
そう言って愛おしそうに自分の人差し指に指輪をはめた。
「バリならば僕も何度か行きましたよ」
「何をしに?サーフィンとか?」
「僕はスキューバダイビング目当てですね」
そんな他愛のない会話を交わしていると、奥の事務所からスーツ姿の男が出て来た。フロントの職員は男に
「お疲れ様です」
と声をかけた。声を掛けられた男の方は鷹揚に首をかすかに動かして応じるだけだ。男の横顔を見て多香絵は息を呑む。
金本謙也だった。
多香絵の息を呑む音が聞こえたかのように金本は多香絵の方を見やった。途端に金本の顔色が凍りつく。多香絵は何も言えずに震える指で金本の鼻先を指差すのが精一杯だった。金本は一度強く目を閉じて、そのまま背中を丸めてフィットネスクラブから出て行った。
金本が乗ったエレベーターの扉が閉まるのを確かめてから、多香絵はフロントの職員に
「あいつ、いえ、あの人はなんでここに出入りしているの?」
職員は表情を消し、慇懃に
「金本は弊社の取締役でございます」
「あいつがここのオーナーとか?」
「いえ、オーナーと言うわけでは・・・」
「ここのオーナーは誰なの?」
職員は言い淀んだ後、
「金本譲と言う者です」
「金本謙也のお父さん?」
「はい、そうです」
「じゃあ、息子は次期社長?」
「さぁ。それは何とも」
「かー、私は何年間も金本親子にお金を落とし続けていたってわけだ」
フロントの職員は多香絵の激昂ぶりに困惑して黙っている。
「私、悪いけれどここを辞めるわ」
「え、え、あの・・・・」
多香絵はフロントに身を乗り出して職員に耳打ちした。
「ねぇ知ってる?金本謙也って大学から退学処分されたのよ」
「え、そうなんですか?」
彼は目を見開く。
「強制猥褻事件を起こしてね。さらに猥褻画像まで盗撮しちゃってね。あ、勿論刑事事件になって有罪判決を受けたわよ」
職員は小さな声でうわぁとひとりごち、慌てて口を押さえた。
「性犯罪者の前科者がフィットネスクラブの経営陣。シャワールームに隠しカメラぐらい設置されているんじゃないの、真面目な話」
「いえ、弊社は断じてそのようなことは」
「まあいいや。あなたもさっさとここを辞めた方がいいわよ。このクラブ内で事件があったらあなたまで疑われる。退会届をちょうだい」
職員は再び事務所に戻り、退会届の用紙を持って出て来た。躊躇いながらも多香絵に渡す。
「今書いていいかしら?」
と多香絵はペンを取ったが、手が震えて字が書けなかった。
「まあいいわ。家で書いて郵送する。私、こんなところに一分一秒いたくない」
多香絵は退会届けを折り畳んでバッグに入れた。
「じゃあそう言うわけだから。さようなら」
多香絵はフロントから離れる。多香絵の背中に向かって職員は、
「お疲れ様でございました」
と労い、深く頭を下げた。
多香絵は眠られない夜を過ごしている。
結局向こうは何も失ってはいなかった。金本は大学を追われ、執行猶予付きながらも有罪判決まで下された。多香絵は彼に一矢報いたつもりでいたが、金本は今や次期社長である。多香絵は金本の指にはまった結婚指輪を見逃さなかった。何にもなかった顔で女にプロポーズまでしたと言うことか。
それにひきかえ自分はどうだ。多香絵は事件をきっかけに親と不仲になり、結局親が死ぬまで和解できなかった。何より多香絵が辛く感じるのは、誰に対しても胸襟を開いて接することが出来なくなってしまったことだ。人との関係はどうせ奪い合いだ。弱いものはいつでも食い物にされる。足を引っ張る者は容赦なく切り捨てられる。それは親子であっても友人であっても同じ事だ。笑顔の下の本性は残虐で、相手の首筋をいつ噛み切ってやろうかと虎視眈々と狙っているのだ。
多香絵は配偶者も親しい友人もいない。親は死んで、家族との縁はとっくに切れている。一人ぼっちで年老いて死んでいくことを既に受け入れている。
でもそれでいいの?被害者の自分一人が生涯苦しんでいて。
いやいや終わったことなんだと多香絵は自分に言い聞かせる。金本も木村も裁きを受けて、結局執行猶予付きの判決を得た。つまり彼等が私にしたことは、刑務所に入るほどの事ではなかったと言うことか。
多香絵は彼らのことを考えると体の震えが止まらなくなるのだ。連日の不眠で目の奥が痛い。しかし目を閉じると、何万ものストロボのような閃光が瞼の中を走るのだ。多香絵は楽になりたいと思った。自分のこの苦しみをどこかに吐き出したかった。でもどこへ?
多香絵はベッドから抜け出して、六畳間の片隅にある机に向かった。パソコンの電源を入れて、モニターの向こうの全世界に金本への憎悪を吐き出した。