その名は翠蘭
ルームミラーに秘書の姿が見えなくなると、ドブネズミ呼ばわりされた根津蛍は
「浅草に行って」
と運転手に命じ、化粧が落ちるのも構わず手の甲で乱暴に唇を拭った。そして舌を出して、舌をハンカチで何度も擦る。上条の唾液を拭き取るかのように。
「上条先生はモテますからねぇ」
前を向いたまま運転手は唐突に言った。彼女は返事をせず床に落ちた千円札を拾う。運転手は構わず続けた。
「まああの人は独身ですから。あ、私、上条先生の事を何度か乗せたことがあるんですよ」
蛍は軽く身を乗り出し
「あの人が女性と一緒の時にも乗せたかしら?」
と聞いてみた。
「はい。私が載せたのはいつも同じ人だったように思うなぁ」
と運転手。
「どういう人?」
「美人ですよ。若い頃のジュディオングみたいで」
「ということは外国人?」
「中国人だと思いますよ」
運転手の答えに蛍はほくそ笑んだ。やっぱりね。上条が中国の諜報員に取り入られていると言う噂は本当だったのか。
「お嬢さん、小綺麗にしているけれど、本当はホステスさんじゃないよね?」
運転手はルームミラーで彼女に視線を送りながら言った。彼女は黙っていたがふとした好奇心から聞いた。
「どうしてそんな事を?」
「あなた、急に顔が真顔になる。何かを探っているように見えるけれど。それからそのバッグ。水商売の女性にしては大きすぎない?税務署職員じゃないんだからさ。お嬢さんは警察か探偵なの?」
運転手の予測に蛍はふふんと笑って、シートに身を沈めた。運転手は言う。
「お近づきの印に一つプレゼントを差し上げましょうか?」
「プレゼント? 」
蛍は身を起こす。
「上条先生の彼女が働いているお店にご案内しましょう」
「まあ有り難う!」
彼女は飛び上がらんばかりに喜ぶ。しかし次の瞬間不安がよぎる。
「何で私に優しくしてくれるの?」
彼女の問いかけに運転手は
「私は退屈が苦手でね。あなたみたいに物事をひっくり返す人をみると加勢したくなる」
タクシーは銀座五丁目で止まった。
「ここが彼女のお店」
ブティックに隣り合う雑居ビルを見上げた。十階まである。看板を見ると全ての店が酒を出す店らしい。
「どのお店か分かる?」
蛍の問いかけに運転手は
「さぁ、そこまでは」
と首を捻る。
「まあ良いわ。有り難う。あ、お釣りはいらないから」
蛍は一万円札を運転手に渡した。
「そうそう、彼女の名前はスイランちゃんですよ。翡翠の翠に花の蘭。名刺が車内に落ちていました」
運転手は領収書を渡しながら言った。蛍は財布を再び開けて追加でもう一万円札を運転手に渡した。
中国人諜報員、李 朱亜、蛍の標的は彼女だった。
蛍はバッグから取り出したつば広帽子を目深に被り、人待ち顔で路上に立つ。エントランスから女達が吐き出される度に翠蘭と呼ばれる女が出て来ないか探っていく。
初夏を感じさせる五月中旬ではあったが、夜半過ぎはさすがに寒くなってきた。蛍は肩も露わなノースリーブの上にショールを羽織った。十二時近くなって、女達が華やかな笑い声とともにエントランスから出てきた。赤ら顔の初老の男が自分よりもずっと長身の女性にぶら下がるようにしてやって来た。
男は言った。
「スイランちゃーん、今度食事に行こうね」
「うん、行こう。楽しみにしている。今日はごめんね」
どうやら翠嵐は男との店外デートを断ったらしい。
翠蘭いや李 朱亜は噂通り美しく、女の蛍でさえも見惚れるほどだった。ふん、どうせ整形だと蛍は心で悪態をつきながらデジタルカメラで朱亜の写真を隠し撮りする。
「また来てよ牛島さん」
朱亜は甘える口調で言った。
「来る来る、明日にも来ちゃうよ」
牛島と呼ばれた男はデレデレだ。朱亜の手を握ったまま離さない。牛島、牛島・・・・、蛍を記憶を辿り、財界人やスポーツ界の重鎮の中から該当人物を見つけ出そうとするが思い浮かばない。重要人物かも知れない、そうではないかも知れない、とりあえず朱亜といちゃつく写真を撮っておいた。牛島をタクシーに乗せると朱亜は笑顔を消して、鷹のような目をして同僚達とエレベーターに消えて行った。エレベーターは十階で止まる。「水琴窟」それが店の名前だった。
李 朱亜。産業スパイとしてアメリカでも捜査対象になっている中国の女だ。その女が経済産業大臣政務官たる上条昇と昵懇である。もちろん普通の男女の仲のはずはない。少なくとも朱亜は上条を恋人とは見ていない。
朱亜に国際指名手配がかかるのは時間の問題だった。その前になんとか彼女と上条の関係を証明する写真をものにしたいと蛍は思っていた。
蛍は手首を裏返して時計を見た。今からならば自宅のある浅草までは電車で帰れないが、途中の上野あたりならばたどり着けそうだ。蛍は水琴窟を離れて有楽町駅に駆け足で向かった。