金本の謝罪
連日の冷たい雨で多香絵は風邪気味だ。六月の下旬、彼女は夕方から布団に潜り込んだ。
「多香絵、多香絵」
母親は多香絵を起こした。
「電話よ。金本って人から」
金本の名前を聞いて多香絵の心臓は縮こまる。母親は背中を向けて部屋から出て行った。その表情は見えない。
多香絵は受話器を握ると思いっきり低い声で
「もしもし」
と応じた。
「金本と申します。この度は大変申し訳ありませんでした」
金本の声は震えている。
「今三峰さんの最寄りの駅にいます。うちの親もいます。木村君も親御さんと一緒です。今からみんなで三峰さんのお宅にお詫びに伺っても良いでしょうか」
金本と話していると多香絵は呼吸が荒くなり、指の先が痺れて来た。多香絵はしゃがみ込む。受話器を握っているのがやっとだ。
「今日は体の具合が悪いので、帰って下さい」
多香絵がそう言うと、金本は残念そうに
「そうですか。では日を改めます」
と言った。
「ねぇ、弁護士は一緒なの?」
多香絵の問いに金本は一瞬黙り、その後、
「いいえ、僕たちだけです」
と答えた。多香絵は声を振り絞って言った。
「先日弁護士から示談に応じないと就職活動で不利になると脅迫を受けて、私はとても不愉快だった。こんな気持ちでは示談交渉を応じられない。もう永遠に無理だ」
荒くなりそうな息を懸命に押させて多香絵は続ける。
「あなたが何を言ったところで私の胸には響かない。あなたがニヤニヤ笑いながら、私がゲロをしたとか私があなたを誘ったとか下品な事を言った事を私は忘れられない。あなたは性的な変質者で、それは警察もあなたの大学職員も知っている。誰もあなたの言葉を信じない」
多香絵はそれだけ言うと黙った。涙が出て来てそれ以上のことは言えなくなった。泣いている事を金本に悟られない為に嗚咽をかみ殺すのが精一杯だった。
「あの、本当に僕たち、悪い事をしたと思っていて・・・・・」
受話器の向こうから鼻を啜り上げる音が聞こえた。金本が泣いていると思うと痛快だった。多香絵は言った。
「こんな風に話し合ったって無駄だよ。 もう裁判でやろうよ」
大学から処分が下るまで示談交渉はするな、と言う洋平の言葉に多香絵はすがった。そうだ、示談交渉に応じちゃいけないんだと多香絵は自らを鼓舞する。
「もう電話を切っていい?本当に体の具合が悪いんだけど」
多香絵はぞんざいに言う。
「申し訳ございませんでした。では失礼します」
金本は焦ったように言って、電話を切った。また連絡するとか日を改めるとかはもう言わなかった。示談交渉炸裂という訳か。でも一介の大学生の私に、裁判なんか出来るのだろうか。多香絵は自分が取り返しのつかない事をしてしまったかのような気持ちになった。
気持ちを落ち着かせるために多香絵は階段を降りて台所で水を飲んだ。母親は夕食の準備中だ。
「なんだって?」
母親は多香絵に背を向けたまま聞いた。
「お詫びをしにこれから家に来たいんだって。勿論断ったけど」
「あんたって本当に親の言う事を聞かないよね」
母親が言ったのはそれだけだった。多香絵は流しにコップを投げ捨てるように置いて、自分の部屋に戻った。
大丈夫だから、大丈夫だからと母親に抱きしめられたかった。母親の胸で不安な気持ちを吐き出したかった。小さな子どものように、お母さんあのね、と話しかけたかった。しかしそれはもはや多香絵には望むべくもない事だった。




