女スパイ陥落す
間も無く李朱亜は国際指名手配された。 李 朱亜は足立区のアパートに居を構えていたのだ。朱亜逮捕の一報を聞きつけて蛍は千住署に急行する。メディアは千住署に連行される朱亜に礫のようにシャッターを切った。朱亜は目深にジャンパーのフードを被り、手錠をされた両手首はジャンパーの中に隠されている。頬や細い顎の白さが彼女の美貌を物語る。フードの下から一度だけその表情を見ることができた。彼女は口元を固く結び、黙秘を貫くことを自らに課しているようだった。
李朱亜の国際指名手配のニュースはさほど日本人の関心を引かなかった。中国人スパイに情報を盗まれてアメリカ政府が怒っている、その中国人がたまたま日本に潜伏していた程度の認識だった。せいぜい朱亜の美貌と産業スパイという身分が人々の耳目を集めたに過ぎなかった。
そこで蛍は手持ちのカードを切る。
蛍は李朱亜と上条昇の関係を所属先のJNP通信のサイトで公表した。
李朱亜が銀座のバーでホステスをしていて、交際相手がこともあろうに経済産業大臣政務官・上条昇だったのだ。二人が共にタクシーを乗り降りする写真、そして上条のマンションに入って行く写真が二人の関係を決定づけた。
つまり李朱亜は諜報活動を目的に日本に入国していた事になる。
政権を揺るがしかねない大スキャンダルとなった。上条昇は政務官を即辞任。中国には東シナ海ガス田開発で何回も約束を反故にされている。また日本は彼の国から知的財産権の侵害を受けていた。ガス田も知的財産権も管轄省庁は経済産業省である。その政務官たる者が中国人女性と交際しているだけでも非難されるべきなのに、その交際相手が産業スパイとして指名手配されたとは言語道断である。危機管理能力の欠如をやり玉に上げられ、上条の国会議員としての身分も危うくなる。そしてかつて廃案になったスパイ防止法を制定すべきだとの世論が再燃した。
悲劇はそれだけでは終わらなかった。
日本政府が彼女をアメリカに引き渡すよりも前に、中国政府が彼女の送還を強く要求してきた。日本政府が中国の要求に従わないとみると、中国政府は中国国内の日本人をスパイ容疑で拘留したのだ。
しかし、同盟国であるアメリカに日本が逆らえるはずもなく、朱亜はアメリカに引き渡された。中国で拘留中の日本人被疑者の未来は暗い。
上条は国会議員を辞職し、議員会館からの引越しを余儀なくされた。秘書二人が議員会館に駆けつけ、上条の私物をすべて彼の自宅へと運んだ。今上条の自宅は議員会館や個人事務所から引き上げた荷物で足の踏み場もない。
「あの女だけは許せない!」
上条の秘書達は歯噛みする。あの女呼ばわりされているのは根津蛍である。李朱亜が何某かの目的を持って上条昇に近づいたのは事実であろうが、実際に何の機密を朱亜が持ち去ったのかは最後まで分からなかった。そもそもスパイ活動は日本では禁止されていない。つまり上条は何ら触法行為をしたわけでもないのに、根津蛍の記事により政務官の職も国会議員の肩書きも失った事になる。
なおもあの女があの女がと罵る秘書達を上条は
「もうやめなさい」
と窘めた。
「根津さんの事も李朱亜の事ももういいから」
ダンボールの山の隙間に置かれたソファーに上条は腰を下ろした。
上条は二人の女達の事を露ほども疑っていなかった。単に二人ともホステスで、自分が彼女らの為に消費する金品が目当てで取り入っていると思っていた。それが一方は国家機密を狙うスパイで、もう一方がスパイとの交際をスクープしようと企てるジャーナリストとは。
「君達はこんな私に長年仕えてくれて、本当にありがとう。親しかった議員に声をかけて君達の再就職先を探しているからもう少し待っていてくれ」
いやに殊勝な上条の言葉に二人の秘書は顔を見合わせる。
秘書達は上条と蛍の交際には気づいたが、李朱亜との付き合いは盲点だったようだ。上条は口には出さないまでも、どうせならば李朱亜との関係を止めて欲しかったと恨みに思ってしまう。そして李朱亜の本性をいち早く見抜いた根津蛍の方が二人よりもよほど議員秘書の適性があると思うのだ。
秘書の一人が遠慮がちに聞いた。
「先生、次の選挙は・・・・・」
上条は面倒くさそうに顔の前で手を振って、
「私はもういい。引退する」
そう言って、咳こんだ。咳はいつまでも止まらず、秘書の一人が上条の背中をさすった。
「済まんな。この通り体の具合が悪くて」
「一度診てもらった方がいいですよ」
「そうだな。あーあ早くあいつの所に行きたいよ」
上条は死別した妻を思い出して言った。秘書は困り切って
「先生、そんな気弱な事をおっしゃらずに」
「いやいや、あいつが亡くなったばかりだと言うのに調子に乗って。バチが当たったんだよ」
そう言って背中を丸めた。




