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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第一章 だからみんなに嫌われる
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さよならハニー

香山が水琴窟の分厚い扉を開けると、既に上条はソファに身を沈めて、若い女に水割りを作らせていた。あの女が李朱亜か。なるほど女優のように美しい女だ。

「いらっしゃいませ」

黒いスーツの男が恭しく香山を出迎えた。香山は上条と目を合わせないようにして、ウェイターに導かれるまま店へと入った。絨毯が柔らかく足を取られそうになる。

「ご指名はございますか?」

「いえ、特には」

香山が短く答えると、ウェイターと入れ違うように和装の女がやって来た。この店一体いくらかかるんだろう、香山は落ち着かない。女は香山の隣に腰を下ろすと、聞いた。

「こちらのお店は初めてでしょうか?」

「はい」

香山は正直に答えた。装いのせいか女は女ざかりの三十代のように見えたが、肌の美しさや時折見せる無防備な笑顔は香山と同じ二十代後半にも見えた。女は摩耶と名乗った。摩耶と話しながらも香山は上条が気になって仕方がない。摩耶は香山の視線に気がつき、上条の方に目をやりつつ

「あちらの方とはお知り合いでしょうか?」

と尋ねた。

「いえ知り合いというわけでは・・・・。テレビで見たことがなるなと思って」

「そうです。国会議員の上条先生です。もし何でしたらご紹介しましょうか?」

「それだけはやめて!」

香山は腰を浮かせて摩耶の申し出を拒絶した。尾行をしているのに顔を覚えられたら全てがおしまいだ。摩耶は香山の狼狽ぶりに吹き出した。

「冗談ですよ。皆さんお仕事を忘れて楽しんでいるのに紹介だなんて」

そして笑顔を消して、

「私に何かご協力できることはありますでしょうか?」

と香山の顔を覗き込んだ。摩耶の目は切れ長で、黒目がちの瞳はつややかな光を放った。目に黒曜石が埋め込まれているみたいだ。

「実は僕・・・・」

香山は自分の来店目的を言いかけた。摩耶を信頼してみようかと思ったし、上条の事を口実に摩耶と深く知り合ってみたかった。

その時彼の心の揺れを見透かすかのように携帯にメールが入る。当然蛍からだ。

『まだ水琴窟?彼が店を出る前に香山君は店を出て下さい。私は彼の自宅前で張込み中』

香山は自分の横で静かに座っている摩耶を盗み見た。上条に猛然とハニートラップを仕掛ける二人の女、蛍と朱亜。まさか摩耶も何かの魂胆があるのか。

『上条ホステスといちゃつき中、多分彼女が李 朱亜』

香山は蛍にそう返信すると、摩耶に告げた。

「僕、そろそろ帰ります。お会計をお願いします」

「あら、もう?」

「行かなきゃいけないところがありまして」

向かいの席では上条は朱亜の手を握って離さない。すげぇなと思う。あの爺さんすっかり中国女に籠絡されている。今夜はバイアグラでも飲んで若き青春の日々を取り戻すつもりか。


勘定は二万円だった。香山が水割りを一杯飲み、後は摩耶に奢ったからだ。香山はしっかり宛名のない領収書を受け取り、上条がまだ席を立たないことを確認してエレベーターに乗り込む。摩耶も同乗する。

「急いでいますか?」

摩耶まで切迫した口調だ。

「うん、まぁ」

「また来て下さいます?」

「うん、来れたら」

エレベーターは一階に止まった。

「タクシーを呼びましょうか?」

「いえ、歩いて行きます」

摩耶は香山の顔に口を近づけて、

「上条先生の事は他社さんもマークしていますよ」

香山は改めて摩耶を見た。摩耶は硬い顔で頷く。すぐにホステスの顔に戻り深々と頭を下げた。海千山千の銀座のホステスには、若き一見の客の正体などとっくにお見通しである。


間も無く上条は朱亜と一緒に出て来た。いわゆるアフター呼ばれる店外デートだろう。長身の朱亜は白いスーツがよく似合った。二言三言二人は会話を交わす。

上条はタクシーを止め自分が先に乗る。朱亜は慣れた様子で同じタクシーに乗り込んだ。香山はその様子をカメラに収めた後、慌ててタクシーを捕まえて、

「前のタクシーを追って。でもあまり接近しすぎないで」

と運転手に難しい注文をつけた。

 香山は早速蛍にメールを打つ。

『上条、例の中国女と一緒にタクシー同車。どこに向かうかは不明。一応乃木坂方面』

乃木坂は上条の自宅マンションの所在地だ。


香山は摩耶の言葉を思い出す。他社も上条をマークしていると。他のマスコミも朱亜の正体を嗅ぎつけているのだ。香山達がスクープをものにするか、それとも他社に出し抜かれるか、国際指名手配がなされる前に朱亜が国外逃亡を企てるか。他の可能性もある。上条の秘書達が朱亜の正体を見破り、かつて蛍にやったように朱亜を上条の前から排除することも考えられた。決戦は近かった。なお朱亜がスパイだとしても日本では彼女を逮捕出来る法律がなかった。せいぜい日本ができる事は逮捕状を発布した国に彼女の身柄を引き渡すぐらいだ。


その時蛍は乃木坂にある上条のマンション付近にいた。香山から知らせが入ったらすぐに撮影の準備に入るつもりだ。蛍は正体を見破られたことがある。上条はマスメディアを警戒して朱亜をマンションに連れて来ないかも知れない。しかし朱亜の方は自宅で過ごしたいと主張するだろう。国会議員の自宅は機密の宝庫であるし、場合によっては盗聴器を仕掛けられる。今更朱亜をホテルに導くなど、行きずりの女への扱いのようだ。上条は可愛い愛人のご機嫌を損ねる事を恐れて女を乃木坂の自宅に連れて来るはずだ。


ここで香山からのメールが届く。

『上条は乃木坂にいます。自宅に向かっている模様。僕はもう尾行を打ち切ります』

蛍は欣喜した。ビデオカメラを構えてエントランス横の植え込みに身を潜める。やがて上条と朱亜を乗せたタクシーはマンション前に止まった。今夜上条の唇を受け入れるのは朱亜だ。

蛍は心の中で上条に語りかけた。私のハニー。可哀想な男やもめ。貴方に恨みはないけど、こんな結果になって残念だわ。これは国家の機密を守る為。仕方なくやる任務なの。


蛍は植込みの隙間からレンズだけを露出して撮影を始める。ここで見つかったら一貫の終わりだ。半年かけて上条を追い続けた日々が無駄になる。

 二人はタクシーから降りた。上条は軽く朱亜の腰に手を添える。そうよそうよ、そのままいちゃつきながらマンションに入るのよ。蛍はそう念じ続けた。そして親子ほど歳の離れた国際カップルは連れ立ってマンションに入って行った。

 これで蛍の仕事は終わりではない。蛍は朱亜の潜伏先の管轄警察に電話をかけた。李朱亜の職場、潜伏先住所を通報した。指名手配がかかったら速やかに逮捕させるためだ。

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