男やもめと女
黒いノースリーブブラウスと、同じ色のパンタロンに身を包んだ女は男にもたれかかるようにして歩いた。細い鼻梁に尖った顎、西洋人のようにえぐれた眼窩、妖艶な美人である。女よりも遥かに年上と思われる初老の男は、女を助けるような体で女の腰に手を回した。
「どうだろう?もうちょっと飲んでいくかい?」
男は囁くように女の耳に口をつけて尋ねた。女のブラウスの胸元は大きく開き、豊かな乳房が零れ落ちそうだ。その肌は青白く、宵闇の中では浮き上がって見える。男ならば誰でもむしゃぶり付きたくなるような柔肌だ。男はしばし絵画のように美しい女の容貌に見惚れた後、何ら躊躇なく唇を重ねて来た。
「あ、先生・・・・」
女は短く拒絶の言葉を口にするも、男の唇を受け入れ、陶酔するかのように目を閉じて深く息を吐いた。
唇が離れた後、女は緩慢な動きで首を横に振ると、
「いいえ、お酒はもう十分」
「じゃあもう少し一緒にいようか?」
男は女の答えを待たずにタクシーを拾うために手を挙げた。男は自分の馴染みのホテルに女を連れ込むつもりだった。
「ちょっと待って先生」
女は男の手に自分の手を重ね、手を下ろさせた。そのまま指を絡めて、躊躇うように身をよじらせた。
「私は勿論上条先生のことが好きですよ。でもまだ・・・」
「じゃ今夜は帰るかい?」
女は含羞の表情で、
「あの・・・、先生のおうちになら、ちょっとお邪魔したいなって」
「うちに来るの?」
上条と呼ばれた男は女の申し出に驚く。経済産業大臣政務官である彼は夜の店で知り合った女を自宅に上げる事にためらいがあった。
「あ、ごめんなさい。そうですよね、失礼ですよね。忘れて下さい」
女はさっと上条から身を離した。
「先生だって、もう奥様とか特定の方がいらっしゃるのに」
「いやいや私は独身だよ。去年妻に死なれたってずっと言っているじゃないか。それからは何もないよ」
上条は改めて女の体を抱き寄せ、
「じゃあうちに来なさい」
女は潤んだ瞳で男を見上げ、男に身を任せる。男は手を挙げてタクシーを止めた。そのまま二人はもつれ合うようにタクシーに乗り込んだ。
「ドアを閉めますよ」
運転手がそう注意喚起をしてドアを閉めようとしたその刹那、
「いけません!」
「先生!やめて下さい」
スーツを着た二人の若い男がタクシーのドアをこじ開けた。
上条は驚愕の表情を浮かべ、その後不快感を露わにする。
「何だね君たちは、こんな夜遅くに」
「この女性はいけません!」
男達は口々に言う。
「上司のプライベートを秘書がとやかく言う権利はないだろう」
上条は秘書達を叱り付けた。
「とにかく一度降りて下さい。さあお前も降りろよ」
秘書の一人が女の手を強く引き、彼女をタクシーから引きずり出す。
「きゃあ!」
女は悲鳴を上げた。女に続くように上条もタクシーから降り、
「彼女に乱暴するのはやめなさい!」
と大きな声を出す。タクシーの運転手は前を向いたまま客からの次の指示を待っている。
秘書が言った。
「先生、この女性は根津蛍ですよ」
「根津蛍?」
上条は首を捻った。名前に心当たりがない。秘書の一人が
「ドブネズミです」
と言い放った。
「まさか!」
上条は瞠目して秘書と、女を交互に見た。
「先生は僕が送ります。さあ乗って下さい」
路肩に車が停まっている。秘書は自分が運転してきた自家用車へと上条を導く。上条は目を白黒させながら親子ほどの年齢差のある若い秘書の指図に従い、車に乗った。秘書は険しい顔で車を急発進だ。
路上に残されたのは秘書一人と女である。秘書は鋭い目で女を睨みつけ、腕組みをしたまま女に聞いた。
「おい、根津。お前は何を嗅ぎ回っている?」
「人違いですよぉ。私はただ上条先生と親しくさせて頂いて・・・・」
女は身をよじらせ甘い声を出す。
「うまく化けているつもりだろうが、その声は根津蛍そのものだ。おいバッグの中を見せろよ。盗聴器でも仕込んであるんじゃないのか」
秘書は乱暴にバッグを引ったくろうとするが、女はさっきまでのしなをかなぐり捨てると素早く身をかわし、
「やめて下さいよ。一体何の権利があって。国家権力じゃあるまいし」
と鼻であしらった。秘書は激昂した表情を見せ、
「さっさと失せろ」
と女に言って相変わらず路肩に停まっているタクシーを顎でしゃくるのだった。女がむくれて黙っていると、秘書は
「さあ行けよ」
と女の背中を押し、待たせていたタクシーに無理やり乗せたのだった。
「ほれ、これで好きなところに行け」
秘書はタクシーの中に千円札を放り投げた。千円札はヒラヒラと舞ってタクシーの床に落ちた。女は秘書に行き先を知られるのが嫌だったので、彼がタクシーから離れるのを待ったが、彼は仁王立ちで女が立ち去るのを待っている。女は仕方なく
「とにかく車を出して。後で行き先は言うわ」
と運転手に告げてタクシーを発進させた。