妻の猫が亡くなった話
12月1日。
その日、妻の猫が亡くなった。
15歳くらいの老猫だった。
大して関わりのなかったその猫の死に
私は大号泣をした。
何故、と問われても解らない。
ただただ悲しさだけで溢れる涙ではないような気もしていた。
彼と初めて会ったのはまだ妻と交際している時分だった。
全体的に黒い毛で覆われており、鼻の周りと足元だけ白かった。
靴下を履いているみたいだな、と思ったのを覚えている。
エージというその猫は、昔義姉が貰ってきたのだそうだが
既に結婚して家を出ていたため、主に面倒は妻と義母がみていた。
そんな彼が亡くなったのは、私と妻が入籍して2週間ほど経った時だった。
ピピピピ
妻の携帯が鳴り響いた。
彼女はゲームする手を止め、電話を取る。
「あ、母?どした?」
どうやら電話口は義母の様だ。
まだ迎えに来ないのか、と文句でも言われているのかなと思った。
というのも、今日は両家の顔合わせの日だった。
大胆、と言うか豪快、というかガサツなところがある義母は、
『顔合わせは良いが酒の飲めん席には行かん』と宣ったため、私達で送迎することになったのだ。
私は、聞き耳を立てるのも悪いと思い、ゲームに戻った。
必要があれば切った後に話してくれるだろう。
しかしすぐに異変に気付いた。
いつもならば、2人の電話は聴かなくても聞こえる程姦しいのだが、何故だか今日は妻の声さえ意識しなければ聞こえて来なかった。
ちら、と彼女の方を見ると、俯いていた。
時折、相手の声に対して小さく頷いたりしていた。
恐らく聞こえないだけで相槌を打っているのだろう。
「エージが…死んだって…」
電話を切った妻は、困った様に眉根を寄せて、口元は笑っているような形をしていた。
当然、困っているのでも笑っているのでもない。
「え…?」
絶句、とまではいかないまでも何も言えなかった。
確かに歳も歳だったので、いつこうなってもおかしくない、とは言っていた。
しかし、つい先週遊びに行った時にはまだまだ元気そうだったのだ。
彼の小屋に向かって「にゃー」と呼びかけては「にゃー」と返してきて…と延々と繰り返して遊んでいたのに。
「さっきね、母が帰って来たら、もう冷たくなってたって」
「…お花でも買ってくか?」
そのくらいしか、言葉にならなかった。
なんで急に、だとか、もっとたくさん遊べばよかった、だとか、色々な想いは過ぎるものの、
なんだか言葉にすると卑しい気がした。
「うん」
いつになくしおらしい態度で頷く。
目元には光るものが見えた気がした。
さっと準備を済まし、軽自動車に乗り込む。
その間、お互いの鼻をすする音以外は何も耳に入って来なかった。
ぱたん、と弱々しくドアを閉める。
エンジンをかけて、前を向いた。
だと言うのに、アクセルが踏めない。
「…出ないの?」
「ちょっと…待ってね」
彼女は私の顔を見て全て悟ったのだろう。
少しだけ、ほんの少しだけ可笑しそうに笑った。
「そんな泣かないでよ」
「そんな風にされたら…っ、こっちまで…っ」
笑いながら、泣いていた。
それに釣られて、私もまた泣いた。
どのくらいそうしていたかは解らない。
ずっと泣いていた様な気もするし、一瞬だった気もする。
ひとしきり泣いて、ようやっと視界が歪まなくなった頃に車を出した。
夕刻を過ぎた頃合いだった為、花屋はやっておらず(そもそも冬場なので休業していたのかも知れないが)
ホームセンターに寄って仏花を購入する事になった。
ついでにあの世に持っていくおやつも買ってあげられるだろう、と話し合ったのだ。
車を降り、ホームセンターの扉をくぐる。
先におやつを買おうとペットコーナーを目指す。
「エージはね…っ、チュール食べるの下手くそだったんだ」
妻はエージ君との思い出話を聴かせてくれた。
チュールというのは猫用のおやつで、スティック状の容れ物にゼリーが入っているものだ。
巷では、猫に与えると可愛く食べてくれると人気の商品なのだが。
「ちゅるって搾ると、手で取ろうとして爪出して来たり、直接噛み付いて来たりして…」
それは幾度となく聞いたことのある話だった。
彼の生前には「そんな事もあるものなのだなぁ」くらいにしか思っていなかったこの話も、
今聞くと、どうしてだか胸が締め付けられる様な気がした。
ただ、それだけでなく、どうしようもなく愛しい話であるようにも思えた。
「んでね、噛み付くものだから、容器のあっちこっちに穴が開いちゃって…色んなとこからチュールがぶちゅーって出てきてね!余計…っ、余計に上手く食べれてなかったなぁ…」
楽しい思い出なはずなのに、途中から思い出したかの様に涙があふれてきた。
私のその様子に、妻も釣られて泣いていた。
猫用のおやつをたくさん見て回ったが、やはり件のチュールを買っていくことにした。
「今度は上手く食べれるといいなぁ」
「そうだね、向こうでならもしかしたら人間みたいに手が使えるかも知れないしね」
何て軽口を言ってはいるが、2人とも頬は濡らしっぱなしだった。
仏花も持ってレジに並んでいる間、無言で涙を流し続ける私達の姿は、随分と異様だっただろう。
花とチュールを持って義実家のインターホンを押した。
買い物を終えてからかれこれ30分ほど経過していた。
距離があった訳ではない。
単純に、しばらく車を運転できなかったのだ。
「はいはい」
多少面倒くさそうに出迎えてくれたのは義母だった。
これは私の勝手な想像なのだが、彼女のこの態度は照れ隠しというか、悲しんでいる様を見せまいとしていたのではないかと思っている。
女手ひとつで娘2人を育て上げて来た義母は、「父親」としての役目も一人で背負わねばならず、強くあるしかなかったのではないだろうか。
「エージは…?」
「ん、そこ」
弱々しく尋ねる妻に対して、あっけらかんと、見ようによってはぶっきらぼうとさえ言えるかも知れない態度でエージ君の遺体を指差す。
だがその態度とは裏腹に、エージ君は生前使っていた毛布に丁寧に包まれていた。
入れ物こそダンボールではあるが、そこに愛情を見出せない程私も馬鹿ではない。
「そんなしんみりすんなって。もう歳だ歳!よう頑張った方だと思うよ」
毛布から覗かせていたエージ君の顔は、痩せこけていて、汚れもひどかった。
そもそもお風呂が嫌いな子だったのもあるが、歳をとって痩せてしまってからは危なくてお風呂に入れてあげられなくなっていたそうだ。
そんな彼の口元に、チュールをおいて、箱の中に仏花を添え、二人静かに手を合わせた。
心の中だけで「お疲れ様」と労ってから、2、3度頭を撫でる。
「前はこんな風に触らしてくれなかったなぁ」
以前に少しだけゲージから出して遊ばせて貰った事があった。
その際に、足元には擦り寄って来てくれるのだが、頭や顎は触らせてくれなかったのだ。
「生きてる時もこれくらい大人しかったら、お風呂も楽だったのになぁ」
妻も彼の髭のあたりをかりかりと掻いてあげながら呟いた。
「前にね、お風呂入れようとしたら滅茶苦茶嫌がって…。肩を本気で引っ掻かれたの。まだちょっと傷残ってるくらいだよ」
その話も聞いた事があった。
だが、何度聞いた話でも、今聞いてしまえば涙をこらえきれない。
「ちょ、何でお前が泣くん!?」
余りに私が泣きじゃくるので、義母が面食らっていた。
「あはは、私より泣いてるじゃん」
妻も、涙は止まっていないし、しかめっ面をしているものの、少し楽しそうな声を上げた。
「し、仕方ないじゃないですか。悲しいもんは悲しいんです」
涙をゴシゴシ拭って、再びエージ君の顔を撫でる。
「最後だし、少しくらい綺麗にしてあげようか」
お風呂に入れるとまではいかなくとも、ウェットティッシュで拭いてあげるくらいはしてあげたかった。
確か使いかけで少し乾き始めてしまっているのがあったな、と棚をゴソゴソしていると
よく妻がエージ君にあげていた干したカニカマが出てきた。
「…それも家にあったって仕方ないし、一緒に入れとくか」
妻は紙皿を持ってくると、中身を全部移し、エージ君の側にそっと置いた。
このおやつは、私も妻と一緒にあげたことのあるものだった。
もう年老いていて、動き回るのは億劫だろうに、食い意地だけは年甲斐もなく、
あの袋を持ってくるとぴょんぴょん飛び跳ねていたものだ。
エージ君を綺麗にしてあげて、おやつもあげて、お別れも言って。
泣いて。
泣いて。
泣いた。
しかし、顔合わせの時間も迫っており、いつまでもこうしてはいられなかった。
そろそろ出掛ける旨を伝えようとリビングの義母の元へと行くと、テレビを観ながら
「っだくだらん」と悪態をついていた。
「母!母は悲しくないの!?」
その様子に、怒っている、と言うよりは、理解ができない、と言った風に妻が声を荒げた。
「だからもうえぇ歳やったろって」
一方に義母は涙を流す素振りもなかった。
だが、よくよく観察してみると、日中仕事をしていたはずなのに、私達が来た時から既に仕事用のメイクではなく、バッチリ決まっていたし
髪の毛だって丁寧に揃えられていた。
普段は出掛ける直前に準備をしている様を何度も目撃している。
なので、これまた私の勝手な想像だが、私達が来る前にひとしきり泣いた後なのではないだろうか。
涙跡は洗顔後にメイクをすれば隠せるだろう。
「もう、いいから行くぞ。向こうの親御さん待たせるのも悪い」
そう言ってそそくさと出て行こうとする義母に、やはり照れ隠しなのかな、とより一層可愛らしさを感じてしまった。
両家の顔合わせは滞りなく終了した。
その後義母を家まで送り届け、また少しだけエージ君と戯れたあと帰宅した。
「明日また迎えに来るからな」
と別れ際にもまた泣きながらお別れをした。
何でも、義母は明日朝から仕事であるし、義姉の方も旦那さんが仕事で車を乗っていくので、火葬場に連れて行ってやって欲しいと言われたのだ。
帰りの車中、どちらともなく、ぽそりぽそりと言葉が漏れる。
「寂しく…させちゃったのかな」
「うん…そりゃ今までそんなに一人の時間ってなかったろうしね」
恐らく、妻が家を出て2週間足らずで亡くなった事もあり、罪悪感のようなものも感じてしまっているのだろう。
「でもさ、多分エージ君も今しかないと思ったんじゃないかな」
言い方は悪いかもしれないが、とてもいいタイミングではあったのだ。
妻が家を出て、全ての面倒を義母一人でみなければいけなくなったし、
引越しに際して出た粗大ゴミがもうじき回収日だったので、数日後に男手を募ってゴミ捨て場まで運ぶ算段をしていたのだ。
「『もう母ちゃんにこれ以上迷惑かけんのもな』とか思ってたのかもね」
また、ウルっときてしまう。
「そだね、なんだかんだお義母さんには1番甘えてたもんね、エージ君」
「母も口では文句ばっかりだったし、『この馬鹿猫が!』ってしょっちゅう言ってたけど、甲斐甲斐しく世話してたもんね」
少しだけだけれど、エージ君の死を前向きに捉え始めているような気がしたので、この場では言えなかったが
もう一つ、彼がこのタイミングを選んだ理由があったんじゃないかと個人的には思っている。
それは妻との約束だ。
彼女が家を出る時に「次来る時まで生きとれよ」とエージ君に言って出たのだ。
そして彼はそれをちゃんと守った。
引っ越してすぐ、忘れ物だったか何かを取りに二人して義実家に寄ったのだ。
その時にはまだ以前と変わらない様子だった。
にゃーにゃー言い合って遊んだり、「お、ちゃんと生きてた!」と冗談めかして笑ったりしていた。
そして、「じゃあな、エージ」と言って帰ったのだ。
あの時こうしていればどうだったのか、なんてどうしようもない事だと思う。
だが、どうしてもたまに考えてしまう事もあるのだ。
あの時
「また次まで生きてろよ」
と言っていたらもう少しだけ長生き出来たのかな、なんて、どうしようもない事を。
翌日、無事動物専門の火葬場で火葬してもらい、供養してもらった。
いつでも来られるようにナビに地点登録もされている。
ただ、そこに表示されているのは霊園の名前ではない。
『エージ』
と、ただそれだけ。
妻の茶目っ気でつけたのだが、彼は気に入ってくれただろうか。
なんとなく、「にゃーん」と聞こえたような気がした。