3 初めての友達
レイはとても物知りだった。
私より一つ年下なのに、ずっと年上のようだった。彼自身も自分の知識をぞんぶんに話したいという気持ちがあったようで、初めて会ったその日は一日中話し通しだった。
それが私にはとても新鮮で、とても面白かった。
「すごいわ、レイ。お母様はいろいろなお伽噺やお話をしてくれるけど、そんなの初めて聞いたわ」
「これくらい常識だよ」
そうは言いながらも得意げに、彼は話を続ける。
「雲のできる仕組みだって、たくさんの学者がたくさん研究をして突き止めたんだ。僕の父さんは貴族であり騎士でもあるけど、学者の友達も多い。僕は、知識に勝るものはないと思っている。将来は学者になりたいんだ」
「へえ、それは素敵ね」
「母さんはあんまり良い顔をしないけどね。同じ年頃の子供は騎士ごっこだなんだって遊んでいるのに、僕がそういうのに興味ないから」
「騎士ごっこかぁ。どんなのかしら。想像できないわ。あとでお母様に聞いてみる」
「あんなの野蛮な遊びだよ。人を打ち倒して、何が楽しいのか僕にはぜんぜん分からないね」
肩をすくませて言うレイに、私はくすくすと笑った。
庭に広げたお菓子の籠に、小さな蟻が登ってきたのを見て、私はその蟻を払う。
「ダメよ、これは私のお菓子なんだから。ねぇ、レイはお菓子は好き? お菓子づくりは得意じゃないけど、今日のクッキーは上手に焼けたのよ」
彼があまり食べていないので心配になって言うと、レイはまじまじと籠に入ったクッキーを見た。
「甘いのはあんまり好きじゃないんだけど……これ、君が作ったの?」
「うん。お母様と一緒に焼いたの」
正確に言うと、手伝ったのは型抜きとオーブンに入れただけなのだがそれは内緒である。
「じゃあ、包んでくれたら帰りに母さんと食べるよ。結構遠いからお腹が空くんだ」
「ふふ、分かった」
最初に母に尋ねられたときは「たいした距離じゃなかった」と言っていたが、彼は第一印象よりはずっと気遣い屋らしい。
再度小さな蟻をつついてどかし、私はお菓子の籠のふたを閉めた。このままでは私たちより先に蟻のお菓子になってしまう。
するとレイが「知ってる?」と言い出した。私はわくわくしながら彼に尋ねる。
「何を? レイ」
「蟻は砂糖が好きだと思っているだろう?」
「ええ、もちろん。そうじゃないの?」
「別に砂糖ってだけじゃないんだ。種だって小麦粉だって、虫の……いやこれはやめておこう。なんでも好きなんだよ」
「へええ!」
私は目を輝かせて立ち上がる。種は台所にヒマワリの種があるし、小麦粉だってたくさんある。
「試してみてもいい?」
「もちろん。僕も気になることがあれば、試したり調べたりしてるよ」
「やった! お母様には内緒よ?」
「それは君のほうが上手に隠しきれるかどうかだと思うけど」
「待ってて、ちょっと行ってくる」
そういって私が庭からこっそり台所に戻ると、私の手の届かない場所に小麦粉の箱が置かれていた。むむむ、と首を傾げる。そういえば予備の大きな袋が、食料庫にあったはずだ。
私は屋敷の裏の食料庫に入ると、大きな袋から手のひらにひとすくい、小麦粉を持って庭へと戻った。
私を迎えるレイは、私の姿を見て吹き出した。
「君は証拠隠滅をする気がないみたいだね。黒い髪がまだらに白くなってるけど」
「嘘!」
走ってきたせいで、どうやら粉が風に吹かれて髪の毛についてしまったようだ。
慌てて髪を叩こうと両手を開くと今度は小麦粉がばさっとスカートにこぼれた。なんということでしょう。
ぱんぱんとスカートを叩いたら、手の形に白い跡が残っている。何度叩いても白い跡は完全には消えてくれない。もうダメだ。終わった。深い紺色のスカートのせいで、白い跡が目立ってしまう。最近のお気に入りの服なのに。
私はスカートを掴んでうなだれた。
「ねぇ、レイ。お母様に怒られない良い言い訳を考えてくれない?」
彼は真面目くさって首を横に振った。
「それは僕でもちょっと難しいね」
「どうして」
「すでに君の母さんが、こっちに向かって走ってきているからさ」
なるほど、時すでに遅し。
玄関の扉が開く音が聞こえた。
私は「妖怪粉なめが現れた」という言い訳以外の、何か良い言い訳を探したが、結局見つからなかった。
* * * * * * * * * *
帰りの馬車で、ヴィオレットは息子に尋ねた。
「どうだった、楽しかった?」
息子はそっけなく返事をした。
「少なくとも、僕のまわりの子供たちよりよっぽど理解力は高いと思いますけどね。彼女は無知を知っているから」
「私は楽しかったかと聞いているんだけど、息子さん」
「僕の言い回しで分かりませんか、母さん」
このやろう、と思いつつヴィオレットは肩をすくめた。
最近息子はとみに反抗期である。
というのも、ヴィオレットが無理矢理レイを学園に入れたのが気に入らないのだろう。
貴族の子供は8歳頃に学園へ入学する。家と家とのつながりを作るためにも、それは必須と言えた。
レイは学園へは行きたくないと抗ったが、問答無用でヴィオレットは彼を学園へ入学させた。
レイは夫の友人である学者の弟子になりたがっていたし、学園で気の合う友人もいない。学園を卒業してから学者になるという道もちゃんとあるにはあるのだが、彼にとってはただ遠回りをさせられている気持ちなのだろう。知識は十分にあるのに、理解している授業を聞くのも苦痛なのだという。
母としてはいろいろな可能性を広げたいという気持ちと、同世代の子供たちの中で触れあってほしいという気持ちがある。
夫の友人たちとの機知溢れる討議が楽しいレイとしては、同世代の子供に対して忌避感があるのだ。なぜ勉強をいやがるのか。知識を知らないことを恥だと思わないのか。
そんな気持ちがまだ幼いレイは態度に出るし、その態度で周りの子供たちもレイのことを敬遠しだす。
小さい頃から、あまり周りに同年代の子供がいなかったのもあって、レイの遊び相手はもっぱら父の友人であった。大人は聡明な彼を誉めてくれるし、同レベルで話をしてくれる。
それが楽しいレイにとって、学園は退屈な授業をつまらない顔をして聞く場所であるし、話の合わない同世代に囲まれて、得意でない剣術を学び場合によっては剣で叩きのめされるという、百害あって一理なしの場所なのだ。
今回だって「学園を休んでいいからちょっと母の友人訪問につきあって」というヴィオレットの言葉に頷いたから来たにすぎない。
「……アリーサは」
めずらしくレイは自分から母に話しかけた。彼の顔は窓の外を向いているが。
「学園には入れないのですか。母さん」
「無理ね。誰もが彼女を嫌がるだろうし、傷つけるわ」
「じゃあ彼女の知識は、いったい誰が伸ばすんですか。家庭教師?」
「それも無理でしょうね。彼女の使用人だって、結構な報酬を積んでようやっと集めたのよ。身近で彼女の顔を見て、平気でいられる家庭教師なんて来るはずがないわ。おそらくモニカが基本的な勉強をみることになると思うけど」
「モニカさんは教師の資格を持っているのですか?」
「彼女も16歳で聖女になったから……まあ当然持ってないわね」
レイは眉間に皺を寄せた。
「話にならない。僕は嫌々学園に通っているというのに、本来学ぶべき人が学べないというのは不公平ではないですか」
「世の中は決して公平ではないのよ。文句があるならあなたが学園の勉強を教えてあげれば?」
もちろん、ヴィオレットは本気でそう言ったつもりはなかった。学園に対して嫌気がさしているレイに、「学びたくても学べない人はいる」と伝えたいだけだったし、たまに来るときにレイが学園の様子を伝えてあげればアリーサは喜ぶだろうと思ったのだ。
しかし息子は母の言葉に目を見開いた。
「……母さんから名案が出るとは意外です」
「レイ、母さんはいい加減あなたの頭をぶん殴っても許されると思うわ」
「頭を一度殴るとどれほど脳の神経細胞が減るかご存じですか、母さん」
ヴィオレットは黙って息子の頭を平手で叩いた。「平手だからって良い訳ではない」と息子はぶつぶつ文句を言っている。知ったことかとヴィオレットはそっぽを向いた。
「次にアリーサのところへ行くのはいつですか、母さん」
「んんー、そうね。いつもは三ヶ月後くらいかしら」
「来月にしましょう」
「うんそうねぇ……え?」
ヴィオレットが息子を見ると、彼はお土産にともらったクッキーを広げていた。すこし形の崩れたそれを、彼は一つ摘んだ。
クッキーは思ったよりは甘くなかった。一生懸命に焼いたのだろうと、アリーサの姿を思い浮かべてレイは少し微笑んだ。
知識がないことは決して恥ではない。彼女は学ぶ意欲はあった。それでも理解できないことは責められるものではない。
この国では、領主の方向性にもよるが、農民の子でも希望すれば地方の学校で学ぶことができる。農民から騎士や学者や商人になることだって珍しくないし、多額のお金はかかるが貴族向けの学園にだって通えないこともない。
しかしアリーサにはそれが許されない。
彼女が「この世の物とも思えないおぞましい顔」をしているがゆえに。
レイの目から見ると、アリーサは普通の女の子だ。母の前では「可愛い」と言うのははばかられたが、普通に可愛い子だと思う。
彼女の責ではないことで、可能性が狭められる。それはあまりにも不公平だ、とレイのまだ幼い正義感が騒いだ。
「僕はもう少し、真面目に学園に通います。その代わり、月に一度アリーサのところで彼女に勉強を教えます。いいですね、母さん」
「い、いいですねってあなた……。何でもう決定してるの! 母さんの予定も気にしてくれる!?」
「じゃあ僕一人で行きますけど」
「ああもう! 行くわよ、母さんも行きますからね!」
「じゃあそれで」と息子はあっさり頷いた。ヴィオレットは両手を開いたり閉じたりしながら、殴りたいという気持ちを押し殺した。
しかし、息子の言葉に喜んでいいのか憂いていいのか分からなかった。
言い出すとなかなか聞かない息子なのだ。反対したところで彼は「じゃあ学園にも行かない」と言うだろうことは想像に難くない。
ヴィオレットにとっては、レイが学園に積極的に行くというのなら、喜びこそすれ問題はないのだ。しかし……。
ぼそりとヴィオレットは心配げに小さく呟いた。
「……アリーサ、レイのことをイヤになったりしないかしら」
何しろこの調子の息子である。今回の初対面は印象が良かったようだが、月に一度のペースで会ったら、さすがにうっとおしいと思われるのではないか。
母はそんなことを心配しながらも、息子が黙々とクッキーを食べる姿を遠い目で見るのであった。
* * * * * * * * * *
同日、彼らが帰った後に、モニカもまたアリーサに尋ねていた。
「アリーサ、レイはどうだった?」
居間のソファに座った彼女は顔を輝かせて、興奮した様子だった。
「すごいのよ、レイはとっても物知りなの。色々教えてくれたわ」
「そうなの、良かったわね。楽しかったのね」
「ええ! とっても!」
娘が大きく頷くのを見て、母もまたホッとしていた。少なくとも少年が、娘の姿を見て逃げ出したり「化け物!」というようなことがなかったことに。
「あのねお母様、あの後レイと一緒にたくさんお話をしたの。小さい頃、飼っていた鳥が猫に食べられてしまって悲しかった話をしたら、レイはしょく、しょくもつ……食物連鎖? の話をしてくれてね。世の中には無駄なことはないんだって。それで、レイは植物にも詳しいらしいの。近くにある森にも今度一緒に行こうって話したのよ!」
「あら、そうなの。でも、アリーサ……森に行くの?」
母が不安そうな顔をするのに、アリーサは慌てて首を横に振った。
「敷地内よ、お母様。ちゃんと門があるところから見えるあの森よ。今まで誰にも会ったことがないわ」
アリーサの屋敷は、三階建ての大きなもので、広い庭は高い塀に囲まれている。アリーサはいつもは塀の中だけで遊ぶことが多いのだが、たまに母と一緒に少しだけ離れた小さな森と、小さな泉がある場所に行くことがある。当然そこもアリーサの家の所有地ではあるのだが、塀に囲まれていないと言うことがモニカの不安をそそった。
「行くなら私と一緒に行ってくれる? アリーサ」
「うーんと、うん。そうね、お母様。レイにそう言うわ」
アリーサは素直に頷いて笑う。
多少の不安を覚えながらも、モニカは楽しげな娘の様子に、心が温かくなるのを感じた。
何しろ友達という友達が一切いなかった娘だ。少しでも同世代と遊ぶという体験をさせてあげたい。アリーサの姿がちゃんと見える子供など、めったにいない。もし魔力の強い子供がいたとしても早々に神殿に聖女として登録され、ただの遊び相手としてなんて、こんな田舎には来られないに違いない。
「また遊びにきてくれるかな、レイ」
アリーサが楽しげに言うのに、モニカは「ええ、きっと、いつかまたね」と微笑んだ。
まさか来月すぐに来るとは、予想だにしていなかったが。