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19 平穏の扉



「わあ……」


 扉を開けて、私は喜びの声をあげた。

 そこには以前とまったく変わっていない私の部屋があった。


 ベルナンさんの許可も出て、私は神殿から自分の屋敷に戻ってきた。

 一年しか離れていなかったのに、まるで何年も経ったかのようだ。

 いない間もきちんと掃除がされていたようで、私の部屋は閉じきった部屋のようなにおいはしなかった。

 私は久しぶりの自分の部屋にはしゃいで、ベッドに飛び込んで、枕を抱きしめた。

 柔らかな感触が私を優しく包んでくれる。


「幸せ……」


 神殿から離れ、自分の屋敷に戻ると、とてつもない安堵あんどが私を包む。

 ここには私を傷つけるものは何一つない。前と同じぬるま湯のような状態だ。

 本当にそれでいいのかとベルナンさんに尋ねたが、「ずっと逆境だと心が麻痺するから」という怖い返事がきた。彼は今度は一体何をする気だろう。おそろしい。


「アリーサ、お茶にしましょう」

「ええ、お母様!」


 扉から部屋を覗き込んだ母が、柔らかく微笑んで私をお茶に誘う。

 今まで通りの使用人がお茶とお菓子の用意をして、前と同じようにそそくさと出て行った。

 私は覆面を室内でも被った方がいいのかと思いながら、まあそれはレイが来たときでいいかとあっさり諦めた。

 正直なところ覆面は息苦しい。これから夏になるというのに被り続けるのは辛かったりする。


「お母様、ヴィオレットのおばさまはいつ来るって?」

「来週には。レイも一緒に来るようよ」


 成人の儀式が終わるまではと、ヴィオレットのおばさまも私への訪問を控えていたそうだ。

 私は『成人』はできなかったが、ヴィオレットのおばさまはまだ普通の聖女の力があるそうなので、私をそのままの姿で見ることができる。

 レイはそうではないのに、まだ私の側にいてくれる。それを思うだけで私はとても幸せな気分になる。


「楽しみね。おばさまも一年ぶりだもの」

「そうね。ヴィオレットもあなたに会いたがっていたわ」


 柔らかく母が微笑んで、私の髪を撫でる。

 母のけていた頬はだいぶ膨らんで、目の下のくまもすっかりなくなった。


「ベルナンさんは?」

「その日はこないけれど、近い内にくるそうよ」

「そうなの、それも楽しみ」


 穏やかな日々が戻ってきた。


 宣言通り一週間後にはヴィオレットのおばさまとレイは連れ立って私の家にきた。

 ヴィオレットのおばさまは前と同じように「来たよ、アリーサ!」と言って私を抱きしめてくれたし、レイは前と同じように私と庭でお茶をした。

 お茶をしながら時々、私が彼の顔をじっと見つめると彼は不思議そうに笑って私に聞くのだ。


「なに、アリーサ」

「ううん」


 私はあわてて首を横に振る。

 覆面姿の怪しい人間とのお茶会だ。食べるのだってお茶を飲むのだって覆面の下からこっそりだ。

 彼はこれが楽しいと本当に思ってくれているのかと、少し不安になる。

 しかし彼はとてもとても、嬉しそうに私と話をする。


「そうだ、お礼が遅くなってごめん。今年も歴史書をありがとう、アリーサ」

「ううん、喜んでくれて嬉しい」


 それを買った経緯を思い出すと、少し悲しい。しかし、彼が喜んでくれたのなら悲しい記憶もきっといずれ、幸せな記憶に上書きされるだろう。

 私はそんな確信とともに微笑んだ。

 レイは私の作ったアップルパイを口にして、楽しげに笑う。


「春になって、君の誕生日に贈り物をしたかったんだけど、まだ早いとベルナンさんに止められてね」

「うん?」


 ベルナンさんはそんなことまでしていたのか。私が目を丸くすると、彼は私の手をちらりと見て話を続けた。


「その分あわせて来年にしようかなと。僕も16歳になるし。サイズもまだ確認していないし」

「うん???」


 何のサイズだろうか。靴か、服か。さすがに彼に体のサイズを伝えるのはちょっと恥ずかしい。私は遠慮がちに申し出た。


「今度お母様に測ってもらいましょうか?」

「うーん、お店に行こうかなって。別に僕が測ってもいいけど」

「場所によるわ。体はさすがにいやよ」

「そんな失礼な真似はしないよ。何にしても来年だし」


 レイの言葉に私は頷いた。

 それもそうだ。こんな穏やかな日常で、おいしいご飯で、のんびりしていて……正直来年までに太ってしまいそうな気がしている。


「私、もうちょっと運動するわ」

「君はもっと太ってもいいと思うよ」

「レイ、世の中にはよくない甘やかし方があるの。その代表的なものよ、それは」


 彼は面食らったように目を丸くする。

 本当は私は、彼の隣に胸をはってきちんと立てる姿でいたいのだ。覆面があるからそれは難しいが。

 顔も見えない覆面姿のうえ、体まで太ってしまったら卑屈になってしまいかねない。

 私は絶対に太るまいと決心した。


「ああ……そうだね。うん、確かに、世の中にはよくない甘やかし方がある」


 レイは何度か頷くと、苦笑して私に言った。


「気をつけるよ。幸せすぎると、つい気がゆるむ」

「私もよ」


 私たちは覆面越しに顔を見合わせて、お互いにくすくすと笑いあった。




 * * * * * * * * * *




 それからレイは週に一度の頻度ひんどで家にくるようになった。

 あまり頻繁で、大丈夫なのかと私が訪ねると、「君がいない1年の間に、学園の授業で前倒しできるものは全部したんだ。どうしようもないくらい忙しくないと、辛かったから」と彼は苦笑して言う。

 私達は前と同じように、話したり遊んだり、場合によっては街に行ったり、楽しい日々を過ごしていた。

 覆面姿の私は目立ったが、彼はそんなことを気にすることもなく、私と並んで楽しそうに笑いかけてくるのだ。

 時々彼を見ると、どうしようもなく私の胸が苦しくなったりするのだが、それを彼に告げるのはためらわれた。

 心の中でひたひたと、何かが、私にそれを告げようとしていた。

 私はそれを聞かないようにして、今まで通りの日常を楽しんだのだった。




「あれ、お母様。何をしているの?」


 ある日の正午に、母がある小部屋の洋風納戸を整理しているのが見えた。

 それは普通に中に入れるくらい大きな衣装棚で、ふと見ると冬物の服が中に入っていた。


「あら、アリーサ。ちょっと遅くなった衣替えのようなものよ。といっても別の部屋の納戸が空いたから、そちらに移すだけなのだけど」

「そうなのね。ヴィオレットおばさまが来る前に終わらせないとかしら?」

「ええ。アリーサよかったら手伝ってもらえる? 代わりにあまり使っていないクッションを入れる予定なの。クッションは今日干したばかりだからふかふかよ」

「もちろんいいわよ」


 私は母に言われるままに、出窓に干していたクッションを回収して、つぎつぎと衣装棚の中に持ち込んだ。

 クッションを敷き詰めるような形で、と言われているので、自然と体が衣装棚に隠れるような形になる。


「懐かしいわね。アリーサ。あなたは昔レイと一緒に、そこに隠れていたことがあったわ」


 母はそう笑って言って、たくさんの服を両手に抱えて出て行った。

 そういえばそうだった。

 だいぶ昔のことだが、彼と一緒にここに隠れていたことがあった。

 あの頃、母とヴィオレットのおばさまがよくこの部屋で話していた。居間だと私たちが通る可能性があるから、大事な話はここでしていたのだ。

 私はそれが気になって気になって、レイに相談した。

 「じゃあ、盗み聞きしよう」という彼の誘惑に負けてこの二人で衣装棚に隠れたのだ。

 結局私は中で眠りこけてしまったため話は聞けなかったのだが。

 あの頃とても大きい衣装棚だと思っていたが、今となってはそれほどでもない。

 私が中に入ってもまだ余裕はある。少し手狭だが、ふかふかのクッションが気持ちよくて私は横になった。

 懐かしいな、と思いながら目を閉じたら、あっという間に眠ってしまった。




「アリーサ。アリーサ?」


 ふっと、目を覚ますと、衣装棚をレイが開けていた。

 私は驚いて、あわててクッションで顔を隠した。


「レイ!? レイも来るなんて聞いてないわ」

「ごめん、僕も今日は予定していなかったんだけど、母が荷物持ちとして付いてきてって」

「いいの、いいけど扉を閉めて!」


 いまだに私は自分の顔をレイに見られるのが嫌だ。

 彼は確かに一瞬止まる程度なのだが、それでも彼に私のおぞましい顔を見られたくない。

 その気持ちは日々強くなって、彼といるときは覆面を手放さない。

 彼はもちろん私の覆面をぐようなことはもうないのだが、今日は正直突然のことで、覆面が手元にないのだ。

 レイは開け放っていた衣装棚の扉を片方閉めた。そして私に聞く。


「こっちの扉も閉めたら真っ暗になる?」

「なるわ。お願い。覆面は私の部屋にあるから、悪いけど取ってきてくれる?」


 しかし彼の返事は予想外なものだった。


「じゃあ片方は開けておくよ。君は暗闇が怖いだろう」


 私は驚いてクッションを下ろした。片方の扉の向こう側にいるので、レイの姿は見えない。


「私、そんなこと言ったかしら」

「言ってはいないけど、だいたい分かる。君は寝るときも明かりを消さないってモニカさんから聞いているから」


 あの暗闇に閉じこめられた日から、そして母が私の呪いを払う力を無くしたと聞いてから、暗闇がとても怖くなった。

 暗闇は、あの暗い場所を想像させる。

 母が私を助けてくれないなら、暗闇から抜け出す方法を私は何一つ持っていないからだ。

 しかし、私は扉向こうのレイに言った。


「大丈夫。もう平気よ。だってレイがいれば怖くないもの」


 それは多少の強がりだったが、事実だった。

 ベルナンさんがいて、母がいて、ヴィオレットのおばさまがいて、そしてレイがいる。

 そのうちにたぶん、明かりがなくても眠ることができるようになるだろう。

 「ふうん」と扉の向こうから声がして、一瞬レイの姿が見えた。

 急なことで、私がクッションを構える前に、一気に周りが真っ暗になる。私は慌てた。


「え、レイ!?」


 閉めないといったのに、彼が扉を閉めたのだ。なんで、と言おうとしたらすぐ隣から声がした。


「うん、なに?」

「え!?」


 私は驚いて飛び退くようにのけぞった。もう少し勢いがよかったら、頭を衣装棚の壁にぶつけてしまっていただろう。

 私と一緒に衣装棚の中に入ったレイは、その気配を感じてか「後ろに気をつけて」と声をかけた。

 気をつけるべきものはそっちなのか。私は何と言ったらいいのか分からず、口を開けて閉じた。


「ど、どうして中に入ってきたの?」

「真っ暗だから、君の顔は見えないよ」

「そういう問題だったかしら」


 私は真面目に首をひねった。

 それを解決方法とするなら、私たちは夜中までこの衣装棚から出られないのではないか。


「どう、アリーサ」

「どうって、何が?」


 彼の行動は時々私の想像を大きく超えるので、質問されても意味が分からないことがある。

 レイは私の手をそっと握った。


「真っ暗だけど、怖くはない?」


 私は虚をつかれて、ぽかんと口を開けた。馬鹿みたいな顔をしているのだが、彼に見られないのは幸いだった。

 いやむしろ、彼はよくまあこんな恐ろしい真っ黒な顔の人間と真っ黒な中にいられるものだ。

 レイの手が温かくて、嬉しくて、私は声が震えないように気をつけながら言った。


「怖く……ないわ。レイが一緒だから」

「そっか。それはよかった」


 暗闇の中、レイが笑う気配がする。

 私は胸の痛みを感じながら、下を向いた。


 レイのことが、とても好きだ。

 好きで好きで、これ以上好きになれないんじゃないかってくらい、好きだ。

 「友達」という範疇を、すでに通り過ぎてしまっているのを自覚している。

 ただ――だからこそ、怖い。


 彼もまた私のことを大事に思ってくれているのは知っている。しかし彼は本当に、私のことを大事に思い続けてくれるのだろうか。

 一生顔も見られないような私を、いつか敬遠するのではないか。

 私は、それがとても怖い。

 だから一日でも長く、この平穏な、幸せな日々が続くのを祈っているのだ。


 私が何も言えずにいると、急に何かの音がした。

 ガチャ、という音と、足音……誰かが部屋に入ってきたのだ。

 私は慌てて衣装棚から出ようと、レイの手を離そうとした。すると彼はぎゅっと手を強く握る。


「アリーサ、しー」

「?」


 小さな声で囁かれたレイの言葉に、私は驚いた。

 懐かしい。暗闇の中で昔レイがそういった仕草をした記憶がよみがえった。


「どうして、レイ」


 私も彼に囁き返した。暗闇の中で、肩をすくめるような仕草を彼はしたようだ。


「覚えているだろう、アリーサ。この衣装棚で昔、君と隠れたね」

「ええ、もちろん。でもレイ、もう出ないと」


 衣装棚の扉越しに声が聞こえる。母と、ヴィオレットのおばさまと……ベルナンさんだ。三人で話しているようだ。


「アリーサ、ここで話を盗み聞きしよう」

「何で? レイ、そんなことはいけないわ」


 正直、今更衣装棚から出るのもあれなのだが、ここで盗み聞きをしようと誘いかけるレイの意図が分からず、私はこそこそと聞いた。


「何でって。大人はいつも、ここで悪巧みをするからさ」


 昔レイが私に盗み聞きを誘いかけたのと、同じ言葉が彼から返ってきた。




明日(5/25)は2話同時更新です。

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