17 一番大事な人
「アリーサ」
穏やかな声だ。静かで、凛としてて。
私がずっと聞きたかった声だ。
成人の儀式の後、風呂で温まって部屋に戻った私に、宿舎の管理人から来客が告げられた。
母は私に微笑んで「ベルナンさんとこの後の話をしてくるから」と出て行った。
来客なんて、この一年来るはずもなかった。もう明日にはこの部屋も引き払う。
首を傾げながらも、私は来客をこの部屋へ案内してもらうよう管理人に頼んだ。念のため覆面はしっかりと被って、私は来客を出迎えた。
はじめは、夢かと思った。
幻覚でも見ているのかと目をこすろうとするも、覆面の黒い編み目が邪魔をした。
彼は、前に会ったときよりもさらに背が高くなったように見えた。
赤みがかった綺麗な栗色の毛は、変わらずさらさらで手触りが良さそうだ。
学園の制服は、彼の体にしっくりと似合っている。細身ながらもしっかりと筋肉がついていて、前より男らしさが増したかもしれない。
綺麗な青い瞳をゆるりと細めて、彼は言った。
「会いたかった、アリーサ」
「レイ……!!」
悲鳴のような声が、喉から漏れた。
たくさんのことを言いたかったのに、喉の奥が暑くなって、何も声が出ない。代わりに涙が勝手に溢れてきた。
「泣かないで、アリーサ。謝りに来たんだ。君を傷つけて、ごめん」
「レイ、私、私……」
レイだった。私の前に現れたのは、一年前に離れた大好きな人だった。
私が一人で立ちたいと言って、彼はそれを受け入れて……二度と会わないと言った。
それは私が初めて味わった絶望的な苦しみだった。
何日も泣いて、どうにか元に戻れないか考えて、それでも彼の決意は揺るがないことが聞かずとも分かっていた。それでも諦めきれなかった。
その彼が、そこにいる。私の目の前に、もう一度。
「君から離れることが、君を成長させると……そんなものは建前だ。僕は君が、僕から離れるのがいやだった」
彼の静かな声が、愛おしそうに私を見つめながら告げられる彼の言葉が、まるで夢のようだ。
「僕以外の人間が、君の中に入り込むのがいやだった。僕は9歳の頃からずっと変わらない。わがままで自分勝手で……ずっと君の一番でいたかった。だから君と手ひどく物別れをすれば、君は僕のことを忘れないと……そんな醜いことを考えていたんだ」
「レイ!」
私にとって一番は、ずっと変わらずレイだけだ。神殿に来る前も、来てからも。忘れることなんてできるはずもないのに。
「君が神殿から逃げ出してモニカさんの家に行ったときも、僕は正直喜んだ。いっそ、そのまま君を僕の家に連れて帰ろうかと思ったよ。もういいじゃないか、僕のところにいれば。モニカさんがいなくなっても僕がいる。永遠に君の側にいることができるなら、『成人』できないままでも。呪いがそのままでも。いや、その方がいい。君が僕だけの側にいてくれるなら、僕にとってそれ以上の喜びはない」
私はレイが私の脱走を知っていることに驚いた。
一体いつ、誰に聞いたのだろう。
「まあいろいろ邪魔が入って、君を家へと連れ帰ることは断念した。結局ベルナンさんが君を神殿へと連れて行ったんだけどね」
苦笑しながらレイはそう言った。
邪魔ってなんだろう、とは思ったが驚きのあまり声がでない。
私はただただ、黙ってレイを見つめていた。もう会えないと思った大事な彼の表情を一つも見逃すことのないように。
彼もまた私を見つめていた。緊張した様子で彼は口を開いた。
「この日をずっと待っていた。アリーサ、もう一度、僕と……友達になってくれないか」
少しためらってから、彼は「友達」という言葉を口にした。
私は喜びの余りすぐに頷こうとして、はたと思い当たった。
「……レイ」
「……うん」
彼は判決を待つ被告のような真剣な表情で、私を見ている。
「私、呪いがまだ解けていないの。まだ、おぞましい姿のままなのよ。真っ黒な女の人が、私の中にいるの」
「うん。それはもちろん想定内だ。何の問題もないね」
彼はあっさり頷いた。
何の問題もないって。問題はたくさんある気がする。
そりゃあ彼は私の姿がそのまま見えるからいいだろうけど……。
ふと、私は何かの違和感に気づいた。
しかしそれが何か明確になることはなかったため、私は言葉を続ける。
「結局『成人』できないままで……また屋敷に戻る予定なの」
「じゃあ君の家に行くよ。そろそろ母も僕の自主性に任せてくれるみたいで、頻度は僕次第だ。僕もいい加減子供のままじゃないしね」
彼の言葉に、姿に、何か嫌な予感がした。
ざわざわと、恐ろしい想像が首をもたげる。
そんなことは、まさかそんなことは。神様もそこまで意地悪ではあるまい。
「レイ」
ひきつった声が、私から漏れる。
「レイはだいぶ背が高くなったのね。とても大人っぽくなったわ」
「それは誉められているととっていいの? ねえアリーサ。僕は君の返事が聞きたいんだけど」
「目が……」
「目?」
彼は青い目を丸くした。綺麗な目だ。とても、綺麗で。曇りのないレイの目だ。
そしてその目には、聖なる力の光が――ない。
* * * * * * * * * *
「どうして」
「アリーサ?」
「どうして、私が、何をしたっていうの」
「アリーサ!?」
彼は大人になってしまった。私より早く。まだ16歳になっていないのに。成人の儀式もしていないのに。
ヴィオレットのおばさまの力が、聖女の力がもうレイに宿っていない。彼の目はもう、私を私として見ることができないのだ。
動揺する私にレイは近寄ろうとした。私は数歩下がった。小さな部屋なので、すぐに背中が壁に当たった。
「やめて、レイ。お願い。私はあなたにだけは、化け物と叫ばれたくない」
「アリーサ」
そんなことになったら、もう立ち直れない。
あの決別の日よりも酷い絶望が私を襲うのを分かっていて、どうして受け入れられるというのか。
「アリーサ、落ち着いて。どうしたの」
「落ち着けるはずがないわ。レイ、ごめんなさい。友達には戻れない」
私の言葉に彼は驚いて――少し辛そうな表情になった。
「君がそう思うのも無理はない。僕は君にとって、いい友達のままではいられなかった」
「違うの、レイ。あなたは大好きな友達よ。大好きな――」
好きだった。レイのことが大好きだった。
こんな形で失うなら、どうしてもっと彼の側にいる幸せを、大事にできなかったのだろうか。
神殿になんて来なければ良かった。ずっと、あの屋敷にいればよかった。
涙が溢れて、私は床にうずくまった。
「アリーサ。君が僕のことを大好きと言ってくれるのはとても嬉しい。だけどじゃあ、何で君は泣いているの。どうして僕と友達に戻れないというのか教えてくれないか」
私は嗚咽で返事が出来ずに首を横に振った。
「アリーサ、じゃあちゃんと僕を見て。本気で言っているのなら、受け入れざるを得ないけれど、これじゃ納得できない。君の涙を拭くことすらできない」
「っ!? やめて!!」
彼が覆面越しに私の顔に触れようとしたのを、私は避けた。彼は少し辛そうに視線を伏せた後に――ふと、何かに気づいた顔をして、私に手を伸ばしてきた。
「アリーサ」
「え、やめ、やめて! うそ、レイ、やめて!」
彼の手が私の覆面を掴んだ。そうしてそのまま、それを脱がそうとする。
「お願いだからやめて!」
私は必死で覆面を自分に引き寄せようとした。しかし力の差は歴然としていた。
黒い編み目がどんどんと上に上がっていって、そして。
「――っ!」
私から覆面を引きはがしたレイは息をのんだ。私の顔を、間近で見て。
果てしない絶望が、私を襲った。私は顔を押さえて、床に伏せた。
「見ないで、お願い。見ないで……ごめんなさい」
彼にだけは言われたくない、化け物なんて。
耳をふさいで、私は下を向いて謝り続けた。
「ごめんなさい、許して……。お願いだから」
見習い聖女も、他の人も、私の姿を見ては悲鳴をあげた。
近くに寄るのもおぞましいとばかりに、私の顔を見ると顔をしかめる。
あんな表情でレイに見られたくない。
沈黙が続いた。私が耳をふさいでいるからか、それとも、すでにレイが部屋を逃げ出したからか。
耳から手を離してのろのろと顔をあげると、そこにはレイがまだいた。私の覆面を持ったまま。
返して欲しい、と思ったが声が出なかった。
「……うん」
彼は掠れた声で言って、頷いた。ばさ、と私の頭に覆面が戻ってきた。
レイは私に少し乱暴に覆面をかぶせると、息を吐いた。
びくりと震える私に彼はため息のように言った。
「……ある程度予想していたのに固まってしまうとは。僕もまだまだ修行が足りない」
「レイ……」
「ああ、泣かないで。ごめん、無理矢理覆面を剥ぐなんて、男としてあるまじきことをしたね。悪かった」
「……」
ひぐ、と嗚咽のような声が漏れた。状況が理解できなくて、私はただ覆面越しにレイを見つめていた。
「まあ、僕の方が先に大人になるとは思ったけど。さすがに早かった。君が17歳になって、僕が16歳になったときに、呪いが解けないままだったらそれも起こり得ることだと思っていたよ。まさか今だとは」
「レイ……?」
もしかして、私の勘違いだったのだろうか。レイはまだ私が普通に見えるのだろうか。
しかし彼はあっさりと、私に告げた。
「アリーサ。残念だけど、僕は母の力を失ってしまったみたいだ。君がどのように周囲から見えるのか、身をもって体験した。懐かしいね、あの暗闇で見た女の人の顔だ。決して再会したいと思っていたわけじゃないけど」
「レイ、やっぱり……!」
やはりだ。神様はどれほどに私に意地悪なのだろう。
けれども予想外なことに、彼は悲鳴をあげて逃げ出したりはしなかった。
「それで、アリーサ。返事はいつくれるの? できれば今がいいんだけど」
「返事……?」
「そう、返事」
「へんじ……」
何を言っているのか分からなくて、私はレイの言葉をオウム返しに呟いた。
何の返事がいるのだろう。むしろ一体彼はいつまで、私と会話をしてくれるのだろう。
彼は私の言葉に対し、当然のことのように言った。
「もう一度僕と友達になってほしいと僕は言った。君はそれに返事をするべきだろう?」
「レイ! 冗談でしょう?」
「僕は嘘も冗談も言うことはあるけど、それはさすがに今じゃないと思う」
私は信じられないとばかりにレイを見つめた。
あの暗闇の中のおぞましい女の人の姿を思い出す。
あれを間近で見て、それでも尚友達になろうと言えるのだろうか。
レイの表情は決して無理をしているようでも、嘘をついているようでもない。
前と同じように、真剣な瞳で私を見ている。
「だって、レイ。私の姿を見たでしょう? あれを間近で見て、そんなことが言えるの?」
「言えるのっていうか、僕は今そう言っているんだけど」
「化け物だって、思ったでしょう!?」
「君の顔じゃないのは見て分かる。ねえアリーサ、自分自身を傷つけるために、言葉を発しちゃいけない。君は僕に化け物だって言われたくないからそう言うんだろう。そうじゃないって僕に言われたくて」
そうだ。その通りだ。
私はレイにだけは、化け物と言われるのが怖い。どうしてこんなに怖いのか分からないくらい怖い。
「君が望むなら何度でも言うよ。世界中が君にそう言っても、僕は言わない。一瞬固まるのくらいは今後もありうるけど、それもできるだけ善処するよ」
「ふ、覆面越しでしかもう、話せないのよ……」
「覆面を無しでいいと言えない僕を許して欲しい。君の側にいたいから、それはぜひ被っていてほしい」
「側にいたいって、だって……。お、おぞましいでしょう……?」
「君がいやというなら触れないけれど、そうじゃないならそれを証明するために抱きしめてもいい? 一年分くらい、君が足りない」
堪えていた涙が、もう一度溢れた。
嘘だ、信じられないと、私は泣きながら言った。
彼は肩をすくめて、許可を得ることなく私を抱きしめた。
久しぶりの温もりだった。母とは違い柔らかくないけれど、前と比べてずっと男らしくなったレイの腕が、私の背に回った。
私は頬をレイの胸につけて、彼にぎゅっと抱きついた。彼の抱きしめる力が強くなる。
服越しに触れあった熱が温かくて、嬉しくて、いつまでも私は泣きつづけた。




