13 巣立つ雛鳥の周りは
アリーサの家から戻ってきたレイは、すぐに自室にこもってしまった。
急な日程変更だったのでヴィオレットはついていけなかったが、夜になって外出先から戻るとすぐに彼女はレイの部屋に行った。
扉越しに息子に声をかける。
「戻ったわよ、レイ。どうだった? アリーサは?」
部屋の中から物が倒れるような激しい音がして、驚いたヴィオレットは扉を開けた。
「どうしたの、レイ! 何か……」
扉を開いてヴィオレットはぎょっとした。
部屋の中がめちゃくちゃになっていた。本棚はいくつも倒れ、まるで局地的な地震でもあったかのように物が散乱していた。
読書好きな息子の部屋は、壁一面に本棚があった。見たところ無事な本棚は一つしかない。
その一つの本棚の前で、レイは佇んでいた。
声をかけるのもためらって、ヴィオレットはその背を見つめていた。
「……」
「……母さん」
息子の声は、彼の感情を現すように震えていた。
「……悪いんだけど、僕は今、誰とも話したくない。僕を一人にしてほしい」
「レイ……」
一体何があったのだろうか。
レイと共にモニカ家に付いていかなかったことを、ヴィオレットは後悔した。
きっとアリーサのことだろう。喧嘩でもしたのだろうか。それにしては、こんなに荒れたレイを見るのは初めてだ。
アリーサに何があったのか、呪いがまた現れたのか。
しかしそれを聞くことは憚られた。こんな状態の息子に聞けるはずもない。
「出て行ってくれ。母さん。お願いだから……」
「……分かったわ」
ヴィオレットはためらいながらも、頷いて部屋の扉を閉じた。
中からまた何かが壊れる音がする。
ヴィオレットは使用人に、レイがもし怪我をしているようだったら手当をするように伝えて、すぐに馬車を用意した。
行き先はモニカの家だ。こんな夜中に向かうのはあの日以来だが、当時と同じような緊急事態に違いない。
「一体何があったの。モニカ。アリーサ……」
モニカの屋敷にたどり着いたのはやはり朝方だった。
馬車の音を聞きつけてかモニカが屋敷から出てきた。彼女の顔色もひどく悪い。
「ヴィオレット……」
「モニカ、どうしたの。レイがひどい状態よ。アリーサは?」
「……部屋でずっと泣いているわ」
「喧嘩したの? それにしては激しすぎない? 何が原因で?」
怪訝そうに尋ねるヴィオレットに、モニカはぽろぽろと涙を流した。よく見ると目の下にひどいクマがあった。
これは何か、予想できないような何かがあったのだろう。ヴィオレットは心の準備をしながらも、モニカに尋ねた。
「話して。何があったの」
二人は小部屋に場所を移し、そこでヴィオレットはモニカの長い話を聞いた。
ヴィオレットは、途中でベルナンに対する怒りを覚えたし、アリーサやレイに対する哀れみを感じた。
それでも、ベルナンの言うことが決して間違っていないことは認めざるを得なかった。
浄化に関してヴィオレットにできることは何もない。
また、『成人』に関してはそもそもあまり明確になっていないのだ。
基本的に16歳になると大人とみなされるとか、職につけるとか、結婚できるとかそういった認識が主なもので、まさか成人と精神の関係に密接な関わりがあるとは知られていなかった。
なにしろ、呪われたまま成人する、しかも聖女の親の力を身にまとったままのせいで浄化ができない、などというのは例がない。
アリーサが初めてなのだ。
16歳になれば『成人』すると皆思っていた。それが、そうではないという。
ヴィオレットは、アリーサが好きだった。
いつ行っても嬉しそうに彼女は「ヴィオレットのおばさま」と喜んで迎えてくれる。
人を傷つけるようなことも言わないし、人が争うのも嫌う。とても優しい、無垢な女の子だった。
レイもアリーサと仲が良く、二人のじゃれあいはとても愛らしいものだった。
16歳になってアリーサの呪いが解けたら、アリーサを娘と呼ぶ日がくるのかもしれない。
ヴィオレットにとってそれはとても自然と浮かんだ想像で、何の問題もないはずだった。
だが、それはあくまでも「呪いが解けたら」なのだ。
ヴィオレットは、アリーサの成人までに強い浄化の力を持った者が現れなかったら、彼女はモニカの力を失って、どんな結果になるのかは不安に思っていた。
だがまさか、彼女が『成人』しないかもしれないなんて思いもよらなかった。
厳しい話だった。
聖女だって貴族の娘だって、16歳になってまだ親の力に守られたままという女の子がたくさんいる。
アリーサも呪いさえなければそれでよかった。
モニカに守られて、穏やかなまま、屋敷で暮らし、職についたり、結婚をして子供を産んだり……その過程のどこかで、自立すればそれでよかったはずなのだ。
いっそ自立しなくたって、普通に生きられた。呪いさえ、なければ。
けれど現実ではアリーサは呪われている。
子供のままでいることは許されなかった。一生屋敷で過ごすならきっと、それでもいいのだろうけれど。
こんなにも急に彼女の環境を変化させようというのも、きっかけと言われる成人の儀式までもう一年もないからだろう。
その日を目安にする必要はないが、成人したと彼女自身が思えるようなきっかけがどこかで必要だ。
目下のところ、成人の儀式くらいしかそれがない。
16歳を過ぎてしまえば、明確な彼女のきっかけは行方不明になる。
ベルナンはそれを憂いたのだろう。
それはあくまでも、ベルナンなりの善意に違いない。それがどれほど酷なことであったとしても。
「だからなのね……。レイはそれで、アリーサとの関係を絶つことにしたのね」
ヴィオレットは唇を噛みしめた。
そこまでしなくても、とは思った。母もおらずレイも、となってはそれこそアリーサはひとりぼっちだ。
支える者がいなくなれば、すなわち大人になるというわけではないだろうに。
モニカはぼんやりと遠くを見ながら言った。
「ベルナンさんは、アリーサの周りを一変させたいみたいなの。子供時代が、アリーサの足を引っ張っているんですって。泣いたら無条件で慰めてもらえるのは子供だけでいいって」
「だからってレイまで切り捨てなくたって。大人だって友達がいるわ。友達同士で慰めあうことだってあるじゃない。私とあなたみたいに」
ヴィオレットの不満げな言葉に、モニカはぼんやり頷いた。
「ええ……。でもね、確かにそうなの。レイとアリーサの関係は、あの暗闇の時とずっと同じだったわ。レイが手を引いて、アリーサはそれについていく。私たちはずっと、彼に甘えすぎていたの。学校の勉強も、運動も、色んな事をほとんど彼に教わっていた。それが当たり前だと、アリーサは家庭教師を雇えないから仕方がないと、ずっと甘えていたのよ」
「レイだって喜んでやっていたわ! あの子は、アリーサがいたからちゃんと学園で他人と向き合うことができたの。レイは、アリーサのために変わったのよ!」
「でも、アリーサは変われないの。変わらなかった。……私がそれを望んでいたから」
ぽつり、とモニカは言った。
「無邪気で可愛い私のアリーサ。ずっとそのままでいてほしかった。大人になんてならずに、私のもとで、ずっと」
「モニカ……」
「アリーサは変わろう、変わりたいと望んだ。でもきっと私がいたら、いくらでも娘の試練を肩代わりしてしまおうとする。苦しむアリーサを見ていられないわ。レイもそうよ。アリーサが切り捨てたんじゃないわ。レイが、彼自身が側にいることはアリーサのためにならないと判断したのよ」
「……」
ヴィオレットは息子の姿を思い返した。真っ暗な部屋の中で、荒れ果てた部屋に佇む彼の姿を。
きっと彼は今も苦しんでいる。でもそれをヴィオレットがかわってやることはできない。彼の心は彼のものだ。アリーサの心がそうであるように。
二人の母親は重いため息をついた。
「……辛いわね」
「ええ、辛いわ。本当に、辛い」
モニカは今日も悪夢を見るだろう。
娘が見知らぬ村人に棒で殴られ、火炙りになるような恐ろしい夢だ。
駆けつけようとしても沼にはまっているかのようにモニカは動けなかった。
悲鳴をあげて夜中に彼女は飛び起きる。そっと娘の部屋に行き、眠る娘の姿を見てやっと安堵してベッドに戻る。しかしまた数時間で飛び起きるのだ。
いずれ娘の姿を見て安心することもできなくなる。娘がこの屋敷を出るのはもうすぐのことなのだから。
引き裂かれるような胸の痛みを感じながら、きっと同じ思いをしているだろう少年に、モニカは心を馳せた。
* * * * * * * * * *
いくつもの本棚を倒し、棚に飾ってある小物を落とし、花瓶を割り、レイは肩で息を吐いた。
どれほど暴れても少しも楽にならない。
レイは胸元をきつく掴んだ。
胸が押しつぶされそうだ。息ができない。苦しくて苦しくて、床に膝をついた。
一つ残った本棚には、五冊の本が飾られている。
それは古い歴史の本で、彼の大事な女の子がお小遣いをためて買ってくれたものだ。
今年は六冊目の歴史書が彼女から送られるはずだった。
それを見るたびに、彼はまたも、失ってしまったものを思い出して、ぎりぎりと彼を苛む胸の痛みに耐えるしかないのだ。
いっそ、それを見ることがなくなれば、彼の気持ちは軽くなるのだろうかとも思った。
しかし、レイは目をきつく閉じて首を横に振った。彼の考えを捨て去るように。
そんなことをしても全く無駄だ。
なぜなら今この瞬間でさえ、彼の脳裏から彼女の姿が離れてくれないのだから。
「本当に……嫌いになれればよかった」
苦しい。苦しくて、たまらない。
アリーサが彼から離れてしまう。一人で暮らし、新たな関係を他人と築いていく。
それを聞いたときに、レイは気づいてしまったのだ。
アリーサの世界は、決してレイだけのものではなかったと。
長閑な風景を見ながら、レイがアリーサの屋敷に向かうとき、そこにはいつだって彼女とその母だけだった。
モニカ家に使用人はいたが、アリーサの姿を恐れて寄りつきもしない。
アリーサにとっても、世界には母とヴィオレット、そしてレイだけしかいなかった。
それが崩れる。
ベルナンがそうであるように、神殿には聖女の他にも少数ではあるが聖人と呼ばれる男や見習いや、その他様々な人がいる。
アリーサの姿を恐れる者もいるだろう。
しかし、アリーサの姿をそのまま見ることができるものもいるだろう。
そいつはきっと、レイと同じように普通にアリーサに接するだろう。レイは、アリーサの特別な存在ではなくなってしまうのだ。
彼女の心に、レイ以外の者が入り込む。そんなもの考えるだけで嫌だった。
それでなくても、環境を変えるという名目で、レイはしばらくアリーサに近寄れないというのに。
アリーサにとって自分が一番でなくなるかもしれないことを、何もせずに耐えろということだ。なんという拷問か。許せるはずもない。
アリーサの言葉と行動を否定しようとして、そしてレイは理解してしまった。
変わらないでほしいと願っているのは、呪っているのは、自分も同じだった。
アリーサには変わらないで欲しかった。
そのままずっと、レイだけを見て、レイに頼って、ずっと自分の傍にいてほしかった。
知識であろうが運動であろうが常識であろうが。彼女の手を引いて導くように歩きたかった。
これが呪いだというのなら、いっそ呪いでいい。
「どうして僕はこんなにも、愚かで見苦しいんだ」
アリーサに決別を告げたのは、彼女の決心を受け入れるという気持ちはあった。
しかし、それ以外の感情もあった。
彼女の心に、自分の存在を残したい。
もし彼が素直に彼女を半年待つと告げたなら、彼女はきっと安心して新たな世界へと飛び込むだろう。
レイのことを忘れて。いや、忘れなかったとしても、いつでも戻れる家族のような存在として。
こんな形で決別すれば、彼女にとってレイは特別な存在のままだ。
どれほど仲のよい人ができても、彼のことを忘れることはできないだろう。
倒れ込むように床に頭をつけて、レイは自分自身の醜さを呪った。
巣立つ彼女を素直に見送ってあげられなかった。嫉妬とか、独占欲とか、どろどろとしたすべてのものが、彼を縛り苦しめた。
今すぐに戻って、半年間待つとアリーサに告げれば、きっと彼女は喜ぶだろう。彼と彼女の関係が変わらないことを喜ぶだろう。
しかし、変わりたいと望んだのは彼女なのだ。彼自身ももう、元の関係には戻れない。
自分ははっきりと望んでしまった。彼女のことを。
ずっと子供でいられたらよかったのに。そうすれば彼女を苦しめることなんて、きっとなかった。
少年はこの日、自分が子供でいられなくなったことを、軋む胸の痛みと共に受け入れざるを得なかった。




