紅の先触れ
年頃の少年少女が一つの部屋で寝泊まりして、なんの過ちもないはずがない――そんなものは見当違いな妄想に過ぎなかったのだろう。
二ヶ月だ。僕が登録者居住区画の百十一号室で、マリアと過ごして六十日以上の時間が過ぎ去っている。
僕とマリアは、元の世界では幼馴染で。なんの身寄りもないこの世界の僕にとっては、最も親しい友人である。そんなマリアは贔屓目に見なくても可憐で、僕自身彼女になんの劣情も抱いていないと言えば嘘になるだろう。
同じ部屋で過ごす上で、彼女がシャワーなり入浴なりを済ませ、その湯上がり姿を目撃する羽目になるのは日常茶飯事だ。
入浴時間を取り決めている以上、うっかり裸のマリアと鉢合わせることなんてないけど、仄かに赤らんだ顔と湯上がり直後故の無防備さ、濡れた髪などに心臓の鼓動が強まることは多々ある。
一人になれる時間がないせいで、男の子の欲望を吐き出す隙もなく……例え厳しい訓練の日々に慣れたと言っても、現状が辛くないわけがなかった。
僕の与り知らぬ所で勝手に異質特性を研究され、それが終わったとは言っても、彼女が僕を監視する任務はまだ解かれていないのだ。僕が魔族ではないという証明なんて、どうやったら立てられるのかも判然としない以上、この都市あるいは国の上層部の決定を待つしかない。マリアは友人とはいえ異性だ、一人きりの時間への恋しさは募るばかり……もどかしい限りだ。
しかし悪いことばかりでもなかった。確かに彼女の教導は厳しいし、一人になれないから男の子的な欲望は蓄積される一方だけど、役得と言えるものはある。それが――肉体錬成の時間だ。
「フッ……フッ、フッ――」
「ペースが落ちなくなったわね。ちょっと重くしてもいい?」
「どう、ぞ……っ」
何も肉体を苛め抜くことに快楽を覚えるようになったわけでも、目に見えて成果が返って来ることに遣り甲斐を感じるようになったわけでもない。相変わらず鍛錬の類いは堪え難い苦痛だ。
しかし――これがあるから堪えられる。
黙々と腕立て伏せをしていると、二百回を越えた辺りで僕の背中に乗っているマリアが訊ねてきた。
今までの僕は余裕がなかったが、僕の異質特性【天稟増幅】によって、僕の訓練効率とそれによる成果は二乗化している。
たった二ヶ月の訓練で、長く鍛えた兵士に劣らない肉体性能を手にすることができた。成長期なのか身長も二センチ伸びて、まだまだ伸びるのか成長痛が続いているが……体についた多量の筋肉が、体の成長を阻害しない措置をマリアに施してもらっている上に、ある程度の痛みは緩和してもらっているからあまり気にならない。
変声期故のガラガラ声も三ヶ月から一年続くらしいが、まあそれはいい。ともあれ、今の僕は二ヶ月前の平均的な十四歳とは比較にならないほど体力があり、そして筋力もある。
故に――マリアの臀部の感触を、裸の背中に感じる愉しみを見いだせたのだ……!
ズボンの生地越しとはいえ、それは価千金の飴だった。鞭ばかりくれるこのクソみたいな現実で、愉しみにできるのがそれだけなのである。
当たり前だが、友人に対してそんな下劣な欲望を抱くのが間違っているのは分かっている。後、臀部の感触を愉しんだことで蓄積される劣情に、頭がおかしくなりそうになるのも分かっている。だが仕方ないのだ。他に持てる愉しみが、他に一つしか無いのだから。
下腹部と脳によって発生する、口にするのも憚られるオトコノコの激情は、全て訓練で消費するエネルギーとしているので暴発はない。
というか、罷り間違って理性を手放しマリアを襲おうものなら、例え寝込みを襲ったとしても一瞬で返り討ちにされる未来しかなかった。ついでにこれまでの友情と信頼も全て破却されるだろう。マリアに見放されたら比喩抜きで死の危険は跳ね上がる上に、効率的な錬成を受けられなくなるのだ。万が一にも馬鹿な真似をするわけにはいかない。
なので朝に起き、体を鍛え、飯を食い、ダンジョンに行き、帰ってきて訓練し、シャワーを浴びて飯を食い、寝る――ざっくりだがそんな今の生活ルーチンの中で、マリアの臀部の感触を愉しむのは赦されて然るべき行ないではあるまいか。
理論武装は完璧だ。一分の穴もない。
無論、上半身裸で背中にマリアを乗せている時、そんな下卑た欲情を悟らせるような言動は一切していない。気づかれれば友情は破綻する……その火遊びめいたスリルが僕を魅了していた。
僕の卑俗さを知ってか知らずか、マリアは汗だらけの僕の背中から一旦降りると、タオルで汗を拭ってくれてからまた背中に乗ってきた。
「それじゃあ、五Kg重くなるから」
「っ……!」
ズンと体に掛かる負荷が増す。マリアが重くなったのだ。第六位階魔術【加重】によるものである。
だが僕の限界ギリギリのラインを見極めるマリアの目は確かだ。五Kgの増量があっても後五十回は腕立て伏せをできる。その限界を迎えるまで、重くなったことでより克明に感じられるようになったマリアの感触を愉しむのだ。
そうして下半身に向かいそうな血流を、全身を支える熱量に置換してなんとか性欲を発散しながら、僕は黙々と筋肉トレーニングに精を出す。
するとアビーが現れた。人工精霊のアビーもそうだが、マリアがいるとデバイスのマーリンも無口になるので、こうして現れる時は必ずなんらかの要件がある時に限っている。僕は震え始めた腕を伸ばし切り、アビーの方へ顔を向けると、枯れた声を震えさせながら訊ねた。
「なん、だ……用事、でも……?」
『お愉しみのところ失礼します。登録者ディビットの部屋から通信が入っておりますが、如何致しましょう』
「……?」
それでふと、僕は時間を忘れていたのを思い出す。マリアがスッと僕の背中から降りたから、額に滲んだ汗を手の甲で拭い、立ち上がりながらアビーに時間を訊ねた。
「……今、何時、だぃ?」
『回答いたします。午前十一時五十分です』
「………」
ああ、と僕は嘆息した。十二時からダンジョンに行くとディビットに伝えていたのだ。失念していた。約束自体を忘れていたのではなく、時間の経過を。
バツが悪くなり、頭を掻きながらアビーに言った。
「要件、ば、分がっでる、もう少じ、待っでぐれど、伝えでぐれ」
『了解』
無駄口を叩かずアビーは明滅し、そのまま消えていく。僕は体の疲労を自身の回復魔法で癒やしつつマリアを見た。
今回も一緒に来てくれないか。そう頼もうとして、頼まれる前にマリアは微笑みかけてくれる。
「一緒に行ってあげる。それでいい?」
「……よろじぐ」
マリアは強い。彼女がいてくれるとそれだけで安心感が違った。あまり宛てにしすぎるのも悪いけど、安全に経験を積める内は厚意に甘えておく。
僕は万が一にも死ぬわけにはいかない。だって僕が死んでしまうと――誰がダンクワースを殺すんだ?
見ず知らずの他人に期待する気はない。この手で殺す。絶対に殺す。憎しみの火は時の移ろいと共に弱まり消耗するもの故に、今は腹の奥底に蓋をして燻らせてはいるが。僕は片時も、その目的を忘れはしなかった。
夢に見る。あの男を斬り殺す光景を。あの男の目の前で、傍らにいた少年の首を刎ね、泣き叫ぶダンクワースの首をこの手で絞め上げる昏い歓喜を味わいたい。頑張れば夢が叶うというなら、幾らでも努力を積み上げよう。
マリアに体から疲労を抜いてもらうと、すっかり着慣れてしまった甲冑を身に纏い始める。今から剣を振るのが、楽しみで仕方がなかった。
† † † † † † † †
日輪が中天に差し掛かり、発掘闘技都市には常の喧騒が戻っていた。
ここエディンバーフ領グラスゴーフは、福音王国随一の工業都市でもある。緻密に敷かれた鉄道網が、さながら人体に張り巡らされた血管の如く在り、至るところに乗降のための鉄道駅があるのだ。
誰が呼んだかグラスゴーフとは鍛冶と鉄道の都である。目まぐるしく列車が行き交って、大量の物資と人員が忙しなく乗降を繰り返す様は、王都ロンディニウムの活気と比しても勝るとも劣らない。鉄道が陸路を繋ぎ、要衝の点と点を繋ぎ合わせる役割を持つ故に、グラスゴーフは福音王国の心臓とすら形容できるかもしれなかった。
この都市に来たからには職に困ることはなく、食に飢えることもない。彼の地は工業の都であるのだと人は言い、故にこそ鍛冶仕事を目当てに小人族、巨人族が多数集ってますますの繁栄を築き上げているのだ。
その中心部に位置する中央駅へ、多数の人員を輸送する或る機関車が停車した。
煙突から自然になんら悪影響を与えぬ魔力煙が噴出される。あらゆる物のエネルギーとなる万能エネルギー資源こそが魔力であり、それがこの魔導文明を支える根幹となっているのだ。
スライドして開かれた機関車の扉から、蟻の巣から這い出た蟻のように無数の人間が進み出てくる。大人数の人間が生む足音に負けない、大音量のアナウンスの案内がある故に、その騒々しさには癇癪持ちも閉口するだろう。
駅から溢れるようにして出てくる人の流れに紛れ、腰元まで伸ばした艶やかな赤髪の少年は、駅から出ると立ち止まりグラスゴーフの空を見上げた。手提げ鞄を持ったまま両手を広げて凝った体を伸ばし、リラックスをする。
「んー……絶好の観光日和じゃないか……」
雲ひとつない晴天に、少年は玲瓏な美貌を綻ばせる。それはさながら絵画に描かれる天使のようで、邪気のない微笑は万人を魅了するだろう。
シルクのようにきめ細かく、シミ一つない白磁の肌。紅の髪を三つ編みに結わえ、ドレスシャツの上に纏ったダークスーツを隙なく着こなしていた。
季節は移ろおうとしている。晩夏を迎え、もうすぐ秋が訪れるだろう。過ごしやすい季節で、気温も程良い。少年は歩を進めて目的の場所に向かう。
人とすれ違う度に、老若男女の違いなく市民は少年の方を振り向いた。その美貌に目を引かれたというのもある、しかし市民らは一様に怪訝な顔をしていた。その表情を言語にするなら、今のはもしかして、というもので。しかし似ているだけかと首を捻るのみで通り過ぎていく。
少年は懐かしむようにグラスゴーフの街並みを見渡し、噛みしめるように歩いていた。それこそ本当にただの観光客のように。事実、少年にとっては観光なのだ。それ以外の意図などない。自身の旅行先がマスコミにリークされ、市井に噂として流れていることなど気にも留めていなかった。
麗しい顔は邪気なく輝き、工業の都を見渡してあっちにふらふら、こっちにふらふらと歩き回っている。誰に声を掛けるでもなく、能天気にすら見える風情である。
少年の目に映るのは大量の魔石を湯水のように燃焼させ、莫大なエネルギーを生む都市機関だ。整然と立ち並ぶ煙突は片時も止むことなく青白い魔力煙を吐き出し、王国中に敷設された人工霊脈を伝って膨大な魔力を供給・循環させている。その光景は幻想的で、高所から望む工場の光は夜になっても絶えず、さぞかし美麗なイルミネーションとなって夜の都を映えさせるだろう。ホテルの予約を取っていてよかった、なんて呑気に思う程度には、少年の気は緩んでいた。
「ん?」
不意に少年は、雑踏の中に一人の女を見咎める。
髪の長い少年のそれよりも更に長い、膝下まで伸びた白い髪。透き通る肌をした女だ。青みを帯びた白銀の髪は、凍りついた湖を連想させる。
なんとなく気に掛かった少年は、何気なくその後ろ姿を追った。女は人混みに紛れ、かと思えば人気のない裏道を通り、路地裏を抜けていく。
「………?」
ふ、と銀髪の女は背後を振り向いた。酷薄な、青々とした瞳である。貴人の趣を感じさせる整った顔だ。物音一つ無く物陰に隠れた少年は微笑した。
(なんだ。やっぱり睨んだ通り、綺麗で素敵な女性だった)
女は首を捻り、前を向くとまた歩き出す。その後を追い、少年は舌なめずりをした。赤い舌が、ぺろりと唇を舐める。手に提げていた鞄に意識を向けながら追跡した。
だが女が曲がり角に向かい、少年がそこを辿って追い縋ると……そこには誰もいなくなっているではないか。
「む」
眉を顰め、少年は左右を見渡す。やはり誰もいない。尾行に気づかれていたらしい。やれやれと前髪を掻き上げ、額に手を当てた少年は目を閉じた。
ヴン、と大気が振動する。薄紅の波動が少年を中心に発され、それが周囲の物質を透過して広がった。そして間を空けて、ポツリと呟く。
「……ドゥーチェ、どうかな」
『見失った』
端的な応答は、少年の細い指に通された指輪から発された。そうか、と残念そうに少年は肩を落とす。
しかしすぐに気を持ち直して、彼はいつの間にか辿り着いていた高台の緑地公園を突き抜けていく。するとこの発掘闘技都市の全貌を見渡せる、切り立った場に出ることができた。
「――美女には逃げられたが、これはこれで良いものだね」
『貴女の言い分はボクには分からない。論理的ではない』
「本能のまま生きているからだよ、ドゥーチェ」
少年は翡翠の双眸を細め、愉快そうに相好を崩す。
紅の少年はつぶさに街並みを観察することにした。グラスゴーフは四重の圏構造を持っている。『都心』『インナーシティ』『第一郊外』『第二郊外』だ。
領都の都心。工業地帯、兵舎、要人居住区の存在するインナーシティを囲う白亜の城壁、第三幕壁【メデューサ】が高々と屹立しているのが此処から見ることができる。
この第三幕壁【メデューサ】は高さ八十m、全周約五十Km、厚さ三十mはあり、二百の門と三百の塔を備え、その外に一般市民の居住区と軍の駐屯地がある第一郊外があった。その外縁を囲うのが第二幕壁【エウリュアレー】でその更に外が第二郊外だ。最も大きく広大なのが、第一幕壁【ステンノー】である。第二、第一幕壁は共に第三のそれより遥かに広大で、この発掘闘技都市グラスゴーフが如何に大規模極まる都市なのかが窺えるだろう。
「――人の手で築けるものではないな。やはりこの都市に並ぶものを作り上げたくば、巨人族と小人族の職人の手を借りねば不可能だろう」
『それは以前来た時に分かっていたことでは?』
「前はじっくり見て回る時間はなかったんだ。軍務で来ていたからな」
散策はここまでだ。ホテルに行ってチェックインしなければならない。
少年は元来た道を引き返し、雑踏の市民らを躱しながらホテル『ロイヤルガーデン』に向かう。上品な赤絨毯の敷かれたフロントを進み、受付に身分証と現金を――
「あ」
そこでふと、少年は間抜けな声を出した。
懐のポケットを探り、ズボンを探り――愕然と呟いた。
「……財布、落とした」
『……』
魔力波共鳴式魔導管制杖、管制人格名ドゥーチェは呆れたように明滅する。呆然と立ち尽くす少年を、受付の女性は気の毒そうに見遣って。しかしどうしてやることもできない。
「………」
「………」
少年と受付の女性は数瞬、目を合わせる。美貌の少年は机に肘を置いて、内緒話をするように小声で囁きかけた。
「私はアレクシス・ヴィッテンバッハというのだが、チェックインさせてくれないだろうか?」
「ご本人であるとご確認できるのでしたら、当方も受け付けられるのですが……」
「……無理かな」
「申し訳ございません。データベースに魔力波長を登録していらっしゃるのでしたら手間は省けますが、如何致しましょうか」
「……そちらのホテルのデータベースに登録はしていないんだ」
「でしたら……申し訳ございませんが……」
がっくしと少年は肩を落とした。意気消沈としたままホテルを出て少年――アレクシスは独語する。
「……帰りの便にも乗れないんだけど」
『無駄な戯れをやめれば問題は解決する。多少の手間は発生するだろうが』
「その手間が嫌だ。私は今、身軽な一般帝国民なんだからな」
『……』
仕方ない、とアレクシスは妥協する。
帰りの便に乗るため、そして旅行中の軍資金を稼ぐため、現地でお金儲けに精を出すとしよう。
「ああ、嫌だ嫌だ……なんだって休暇中に出た旅行先でまで、拳を握る羽目になるのかな」
『自分の不始末だ』
それを言われたら弱い。アレクシスは苦笑し――闘技場【アルベドの褥】へとその足を向けた。




