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取調室は妙に暗く、埃っぽかった。
さすが平成に入ってから一度も手を入れていない建物というだけのことはある。
カタカタと回る換気扇の音がどうにも昭和臭くて、何度来ても虹浦はドラマの世界に闖入した錯覚にとらわれるのだった。ここ数日はちょうど古い刑事ドラマの再放送をついつい観てしまったため、今日は変な感慨まで付いてきた。
もっとも、平成生まれの若き刑事が本当の意味で昭和のノスタルジーに浸る資質など、まったく備わってはいない。ドラマにつられた、ただのミーハー心理にすぎないことは、当人は気づくはずもない。
入り口で思わず足を止めてしまっていたため、すでに所定の位置でパソコンを開いている記録係にあからさまに一瞥される。そこでようやっと虹浦は気を取り直して、着席した。
窓を背にしている容疑者の顔を真正面からしっかりと捉えると、どことなく違和感を覚え、内心首を傾げた。
「こんにちは、篠田さん。新しく取り調べ担当になりました、虹浦です。よろしくお願いします」
言いながら、手に持っていた缶コーヒーをコトリと置き、容疑者である篠田のほうに押しやった。
「よければどうぞ」
容疑者に反応はない。
取り調べの刑事から缶コーヒーを差し出されるとは思わなかったのか、それとも新しくやってきた刑事があまりにも若かったからなのか、とにかくじっと虹浦の顔を見つめた。
不躾とは感じない。しかしはっきりと何色かを判別できない彩があって、だから虹浦は自分から外してなるものかと、眉間に力を入れた。
ふいに、気づいた。
篠田を見たときの違和感がわかったのだ。
資料にあった篠田の写真は丁寧に髪を撫でつけてあったのに対し、今の篠田は白髪交じりの髪を下している。
前者はいかにも社会的に身分があって、威厳に満ちた中年だが、目の前のその人は児童公園で遊ぶ子供を眺めているような柔らかい雰囲気だった。髪型ひとつで印象が変わるのは性別も年齢も関係ないことは知っていたが、なんとなく新発見したような心持ちになった。
「……虹?」
容疑者の第一声は簡潔極まりないものだった。
「虹浦です。私は回りくどいのは得意じゃないので単刀直入に訊きます」
刑事は資料ファイルを開き、取り調べが開始した。
「篠田さん。あなたは坂本晃次さんを殺害したことはあっさり認めたのに、なぜ殺害動機――理由についてはダンマリなんですか。黙秘も結構ですが、これでは裁判であなたの不利になります」
篠田は笑った。
「笑いごとじゃない。もしかするとその理由ひとつで、刑が軽くなるかもしれないんですよ」
「軽くはならないさ。刑事さんも読んだでしょう、その資料。情状酌量の余地はないんだよ、ぼくには」
篠田は非常に落ち着いていた。
虹浦は資料を数ページめくった。
内容はあらかた頭に叩き込んであるので、確認の意味も含めて、改めて調書の一言一句をなぞった。
「そうですね…。包丁一本で、ここまで遺体を徹底的に切り刻み、部屋中を血まみれにしてしまってますからね。たとえ実情はあなたが被害者だったとしても、正当防衛が認められるのは難しいでしょうし、裁判員の同情もガイシャに向きますね」
ことさら事務的に述べ、視線をあげる。篠田がどういう反応をするのか、わずかな目の動きすら見逃してやらないと、虹浦は瞬きせずその顔を凝視した。
「……虹…」
容疑者がまたも第一声と同じ言葉を繰り返したので、虹浦は意味を量りかねて眉をひそめた。
虹の文字が名字に入っているのは確かに珍しい。虹浦自身も――あることはを知っていても――実際ほかの「虹」が付く名字を持つ人間に出会ったことがない。
それがだからなんだというのだ。世の中にはもっと珍しい名字だってあるのに、なんだって篠田はこうまで虹に反応するのだろうか。
と、そこまで考え至り、はたと気づく。
この猟奇的殺人を犯したとはまったく見えない風采の中年男性は、以前、大学で教鞭を取っていた准教授であった。専門は……
ならばそちらの方向を話のきっかけにしてつついてみよう。もしかするとこれまで、先輩刑事の誰もがたどり着けなかった犯行動機に到達できるかもしれない。そうすれば、キャリアーの自分を敬遠しがちな所轄の刑事たちも、少しは心を開いてくれるはずだ。キャリアーも叩き上げも、本来どちらも警察官なのだから、わかりあえないなんてことはないのだ。