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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

毒薬の使い道

作者: ヤナイ

九月


「愛しています」

 手紙で校舎裏に呼び出され、放課後に女子から告白された。暖かな日差しが遊歩道の桜の葉を輝かす。彼女は一言僕に愛してると告げると、そのまま俯いて黙ってしまった。何色にも染めていない黒髪がわずかに肩にかかり、軽く内側に丸みを帯びている。着崩していない紺のブレザーに控えめな長さのプリーツスカート、学校指定のエンジ色のリボンをしている。きちんとした格好で、僕はすぐに彼女が真面目なんだと思った。

 僕はその時どう思ったのか、今でもよく覚えていない。ただ、こういう面と向かって告白という演劇じみた方法は、とても胸に響いた。

「僕でよければ」と言って手を差し伸べると、彼女は顔を上げて僕と僕の手を交互に見つめる。

 そして微笑みながら僕の手を握った。手に何か硬い物の感触がした。「プレゼント」彼女の声を聞き手をほどくと、小さな瓶が目に入った。ちょうど手の平にすっぽり収まる小さくて丸い瓶。留め具でしっかりと栓をされたその瓶は緑色の液体で満たされていた。

「毒薬です」

 と彼女は言う。僕は黙って次の言葉を待つ。

「私があなたの御機嫌を損なうようなことがあれば──」

 彼女はその先は言わないで、幸福そうな表情で僕の瞳を真正面から捕らえ続けた。

 桜の葉と同じようにふいに僕の人生に萌え出た力強い緑色を見つめていると、彼女は僕に会釈をして、去って行ってしまった。




 次の日の昼休み、僕のクラスに彼女がやってきた。その手には弁当箱と水筒。

「お昼、一緒に食べよう?」

 隣の空いている席を指差すと、彼女嬉しそうにその大きな瞳を細めて椅子に腰掛けて箱を開ける。僕も三時限目が終わった後に購買で買っておいたメロンパンを袋から出す。

「パン?」

「そう」

「あまり健康によくないよ?」

 少し、苛ついた。

「ねえ、Tさん?」便宜上、彼女をTと呼ぶ。

「何、Nくん?」そして僕のことはNと。

 鞄からタオルに包まれた緑の小瓶を取り出し、Tが食べていた弁当の白米の部分に一滴垂らした。

「お弁当、美味しい?」

「え……!?」

「お弁当、美味しい?」

「……う、うん」

「そう」

 僕はメロンパンを一口齧る。甘味が口に広がる中、さらに紙パックのイチゴ牛乳を流し込む。甘味を十分に堪能しながら、少しも目を逸らさずにTを見つめる。

 やがて、Tは弁当を食べるのを再開した。沈黙が気まずいのか、Tは僕に話し掛けてくる。僕は全て無視する。何を話していたかなんてのは覚えていない。ただ彼女の濡れた瞳を覚えている。目の端から今にも溢れそうな可愛い涙。

 弁当を食べ終わると、Tは大量の汗を額に浮かべて、教室を飛び出した。飛び出したと言っても、その歩みは震えていてすごく慎重だった。




「トイレにでも行ってたの?」

 放課後、一緒に帰ることになり、商店街を歩きながらTに昼のことを聞く。Tは保健室で六時限目が終わるまで寝ていたようで、足取りがまだふらふらと覚束ない。

「……うん」

 注意していないと聞き逃してしまいそうなか細い声。

「どうしたの?」

「少し気持ち悪くて」

「それで?」

「ええと……」

「トイレに行ってどうしたのさ?」

「戻した……の……」

「ゲロ吐いたのかい!?」

 思いっきり驚いた振りをしてやった。彼女は周りを素早く見回し、そして無言で僕の目を見て抗議してくる。だが僕はやめてやらない。

「女の子でもやっぱりゲロくらい吐くよなぁ、人間だし。でも驚いたな、Tさんみたいな可愛い女の子がゲロ吐くところなんて想像もできないよ。何だか驚いちゃうなぁ、どっきりしちゃうなぁ」

「……ごめんなさい」

 俯いたまま静かに謝るT。

「Tさんゲロするの誰かに見られた? わけないか、個室だもんね。でも音は聞かれたんじゃない? ゲロゲロ~ってのとビチャビチャ~ってのが女子トイレ中に響き渡ったことだろうね」

「もうやめて」

「うん?」

「……もうやめて……もう」

 彼女は泣いていた。今度は涙が目の淵からこぼれている。Tの涙は、はらはらと可憐に頬を濡らしていき、僕は感動した。傾きかけた西日が彼女の顔をしっかりと照らしていて、きらきらと輝く涙はどんな宝石よりも事実、美しかった。

「Tさん、まだ僕のこと愛してるの?」

「……はい」

「じゃあ何も言わずに目を瞑って上向いて口開けて」

 素直に言うとおりにするT。

「もうちょい大きく」

 ぱっかり開かれた口の中、その舌の上にきちんと一滴垂らしてやる。

「もういいよ、ありがと」

 彼女はもう何も言わずに僕の家の前まで付いて来た。彼女はさよならと言った瞬間に激しく嘔吐した。民家のブロック塀に片手を付き、細くて白い喉を蠢動させて。

 だがもう吐くものがあまりないのか、少量の胃液が滴っただけだった。げえげえ言いながら、苦しそうに喘ぐT。整った眉毛が醜く寄せられ、眉間に皺が刻まれる。酸い匂いが風にのって僕の鼻腔にまで届く。

「困るよTさん、人ん家の前で……」

「……ごめんなさい」

 咳き込みながら、罪のないTは謝罪する。僕と目を合わせようとしない。

「ちゃんと目を見て謝ってよ」

「ごめんなさい」

「声小さくない?」

「……ごめんなさいっ」

 僕はそれを聞くと、扉を開けて家に上がった。そして、リビングにあるボックスティッシュ一箱を持って外に出る。

「あ、ちゃんと残ってたね、偉い偉い」

 玄関から彼女の足元にティッシュを箱ごと放り投げてやる。

「全部拭き取っといてね」

 そう言い残して僕は扉を閉めた。俯いたことで曝け出された彼女のうなじは、ほんのり汗ばんでいた。脚がかすかに痙攣していて、傍から見たTは非常に官能的だった。僕はこの時、自分に恋人ができたことを心から嬉しく思った。芸術品のような彼女の美しさに夢を見ていた。


十月


 それから毎日、懲りずにTは僕のクラスに弁当箱をぶら下げてやって来る。その笑顔が、食事が終わるころには毒ですっかり汗まみれの青い顔になっている。何度毒を飲まされても次の日には笑顔になっている彼女は馬鹿なのだろうかとも思うが、きっと僕のことを心から許してくれているのだ。僕も彼女を支配し、独占することでその愛に応える。

 放課後、帰宅中に公園やCDショップに寄ったりした。そこでも彼女は嘔吐した。その度に口の周りを不潔な汁で汚し、にちゃにちゃ音を立てながら「ごめんなさい」と謝るのだった。

 駅前でパフェを食べてから電車に乗った時は、車内で毒を飲んでもらった。甘い匂いのゲロを車内にぶちまけた彼女を置いて、僕は途中で下車した。それでも彼女は相変わらず僕を許し続けた。

 教室で一滴、放課後に一滴、Tはほぼ毎日毒を飲んでいた。やがて、昼食の時に毒を一滴垂らしても効果がなくなってきた。今度は二滴にしてやり、それにも慣れてくると、次は倍の四滴。放課後だって同じようにやった。ぽたぽたぽたぽた───。

 そうやって垂らした毒薬入りの弁当を、いつも幸せそうに食べている。

「何かいいことでもあったの?」

 いつもそんな顔をしているのに、わざとらしく聞く。

「愛する人と一緒にいられることが嬉しくて」

 本当に心の底から嬉しそうに笑う。無邪気な子犬。僕の恋人。

 彼女はあまり汗をかいていないが、それでも放課後に問いただすと、トイレで嘔吐している事実を告白した。同級生に心配されているそうだが、持病だから仕方が無い、もう慣れたと言ってごまかしているらしい。

 放課後、途中で立ち寄った公園で、薬の中身を全て彼女に飲み干させたのだが、どうもないようだ。

「あの、お薬の予備を……」そう言って、同じ緑の瓶を渡してくれる。毒に耐性がついてしまった彼女にとって、もうそれはあまり役に立たないのではないかと思った。だが僕が彼女を所有し、彼女も僕に首輪をつけられるには緑色の毒がどうしても必要だった。僕も彼女もそれ以外に愛を表現する方法を知らなかった。

 僕は用済みになった空き瓶を彼女に手渡す。その瞬間、手を掴み、引き寄せ、キスをした。驚くことに、彼女の舌が伸びてきて、舌先同士が触れた刹那、僕は怯えてしまい彼女から身を引いて唇を離す。

 顔を赤くしてうな垂れるT。小ぶりな鼻がうさぎのようにひくひくと動き、桃色の唇もそれに合わせて細かく動いた。時々覗く白い前歯がとても涼やかで、火照った自分の体が知らず知らず冷やされていくのを感じた。

 僕は一言だけ別れを告げて踵を返した。だが彼女に背を向けたその瞬間に強烈に血管が収縮するのを感じ、息苦しさでその場に倒れそうになる。何とか公園内のイチョウの木に手をついて踏みとどまったが、今度は胃がものすごい勢いで回転する。そして彼女の面前、僕は派手な水音を立てて嘔吐した。彼女の唇から受け取った微量の毒は、凄まじい量の濁流を吐いても容赦なくその暴威を振るい続け、僕は気を失いそうになる。彼女の声が遠くから聞こえる。

 過去、商店街でTを感動的に演出した西日が公園の土に僕の影を落とす。Tの影が伸びてきて、嘔吐を続ける僕の背に、彼女の手がそっと触れる。Tは吐瀉物が革靴を汚すのもお構いなしで僕の背中をさすり、泣きながら謝っていた。だが僕は彼女に僕のへどが触れてしまい美しい彼女を汚してしまうことが堪らなく嫌で、Tから逃げた。気持ち悪くて、頭の裏側に無数の『死』という文字が貼りつき、それらが毛虫のようにがちゃがちゃ蠢いた。

 無我夢中で彼女から逃げ、公園から道路へ飛び出した僕を乗用車が撥ねた。僕は意識が混濁していて、はっきりと思考できないでアスファルトの上に横たわっていた。スカートを翻してTが僕のところまで来て、馬鹿みたいに「Nくん、愛しています」と連呼しているのを遠くで聞きながら、僕は完全に意識を失った。


十一月


 幸い、事故での打撲や骨折の方に目が向き、医者に毒のことは露見しなかった。僕とTの関係が揺らぐことはなかったのだ。

 僕は、窓から病院の庭の枯れた木々たちを眺めながら、頭の中では新緑のように鮮やかな緑色の液体について考えていた。愛とは許しだ。自らを独占しようとする乱暴な僕を許してくれるT。相手の全てを闇雲に信じることは怠惰だ。だが、相手の全てを許すことには清らかで強い真実の愛がある。

 枯れた木々たちを眺めるのに飽きると、中身の毒薬をどう使うか考えながら、小瓶をぼっと睨んだ。

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