俺、今、男子結婚式二次会中
あの時……。
例のアニメのクライマックスのシーンを真似て向かった、夕暮れの聖蹟桜ヶ丘の街を見下すロマッティックな丘で、——しかし、俺が、稲田先生として武蔵さんに伝えた言葉は、
『奥さんと仲直りするように』
劇中のプロポーズとは真逆の言葉であった。
とはいえ、実はそれこそが武蔵さんが稲田先生に言って欲しかった言葉である。
武蔵さんは、その時別居中の奥さんへの未練タラタラなのであった。
ただ、次の不用意な一言が、二人の関係を修復不可能なものにまで壊してしまうと、と考えると怖くて何もできなくなってしまっていただけなのだった、
だから、稲田先生から本当に言ってもらいたかったのは、——実際に、本当にに言った一言。仲直りするように、後押しする言葉。
勇気を貰いたかっただけなのだった。
ああ、……そんなことはずっと前からわかっていた。
俺も、稲田先生も。
その方が、穏当に、みな幸せな日常を継続できる。
ここは、事を荒立たせる場面じゃない。
それじゃ幸せな未来などない。
ここで、武蔵さんを奥さんから奪い取っても、一生後悔のし通しになってしまう。
悲しいけど、今はまだ、稲田先生——稲田初美のターンではない。
そんなことはわかりきっていたのだったが……。
——それでも修羅の道を行こう。
略奪してでも、今度こそ、武蔵さんのパートナーとなろう。
それが稲田先生の決断であったはずだ。
けど……。
稲田先生の再び燃えがった武蔵さんへの恋は、あの日の夕方であっけなく終わる。
先生の言葉に勇気づけられた武蔵さんは、その夜、別居中の奥さんに連絡して、自分の複雑な思いを、隠すことなく、そのままに全て伝えたそうだ。
まずは今でも好きなこと。一緒にいたいこと。君がいなくてさびしいこと。
でも、君のやり方に今まで頭に来ることも多々であったこと。
これからも頭に来て、言い合いになるかもしれないこと。
——しかし、君無しではいられないこと。
一緒にいたいこと。
二度と、離れたくないこと……。
それに対する奥さんの回答は、怒っているとも、うれしいともどっちであもあるような、不思議な口調で、
『ばか……』
泣きながら、寂しいのは自分だけだと思ったのかとか、罪の意識に苛まれているのは自分だけだと思ったのかとか、逆ギレ気味に武蔵さんを非難し始めたり、意地をはって連絡を取らなかった自分自身を罵倒し始めたりの、やたらと感情の起伏の激しい一方的な独白を続けた後、
『ごめんなさい……私も……離れたくない……もう』
いろいろあったが、叩かれ鍛えられ、前よりも強く結ばれた夫婦の誕生であった。
その後、武蔵さん夫妻は、誤解や喧嘩、他の夫婦の危機——人並み以上にいろいろありながらも、結局は仲直りしながらうまくやっているそうだが……。
ほんと夫婦って大変そう。考
えれば、結婚って、他人が家族になってしまうっていうことなんだよねこれ。それって、多かれ少なかれ、いろいろとめんどくさそうなのだが、それでもみんなそんなことをしたいと思うのはなぜなのかな? と俺は、目の前のレストランに集う人々、ある結婚式二次会場に集まった人々を眺めながら思う。
「向ヶ丘くんも、そのうちこういうのやることになると思うから、しっかり見ておいたら……」
「あ、はい」
と、いろいろと、考え事をしていた俺に、声をかけてくれたのは武蔵さんだった。
俺が稲田先生と入れ替わって聖蹟桜ヶ丘で別れて以来の再会なので、もう四年ぶり、五年ぶり?
ともかく、かなり時間がたっているのに、武蔵さんは俺のことを覚えていてくれたようだ。
といっても、あのとき、俺は稲田先生と入れ替わっていたわけだから、俺を覚えているというのは、中身が喜多見美亜の俺を覚えていたという事だが、
「それにしても、やっぱりあのころからしたらずいぶんと大人なったね……」
それは、中身がい俺に戻って落ち着いたってことのほめ言葉ととっておこう。
「僕らにとってはあっと言う間だったけど、若い君たちからすれば、濃密な時間だったんだろうね」
ええ、それはもう。
今はこうやって自分の体に戻っているけれど、そもそもが疾風怒濤などと呼ばれる青春時代を、何人もの人生を経験するという、さらに濃密な時間を過ごすことになったわけなのだが、。
「あのときはいろいろ迷惑かけたね」
「いえ……」
武蔵さんとの事件——俺が稲田先生に入れ替わっていたほんの短い間の出来事も、その中でも特に濃密な時間だったのであったな……と、万感の思いを抱きながら、曖昧に首を横に振る俺なのであった。まあ、武蔵さんは、俺がその当事者であったなんて、武蔵さんに知る由も無しだし、もちろん話す気もないが、
「いえいえ……それよりも一杯どうですか」
その時は大変でも、済んでしまえば全て良い思い出。
なんか、こうやって久々に武蔵さんに会って……。
——俺もそういう年齢になって、こうやって酒を酌み交わせるなんていいな。
なんて、思えば、
「おっと。そっちもコップ空だったね。ビールで良いかい?」
「はい」
「それじゃ……ごめん、泡ばっかりになってしまって」
「構いませんよ……それよりも——乾杯」
「と……乾杯」
俺と武蔵さんは杯を重ねる。
なんか、これはこれで、幸せな瞬間だなって……。
……あ。
みんな、回想から状況説明も無しで未来に飛んでしまっていて混乱してないかな?
——と、突然不安になったので説明するけれど。
今、時は、俺の高校時代から少し未来。
ある人の結婚式の二次会で、ある人の二次会なので当然のごとくその場にいた武蔵さんに、主賓が披露宴から移動してくるまでの間にいろいろとあの後の話を聞き終わったところなのであった。そして、もう酒も飲める年になった俺は、武蔵さんと男同士、言葉はいらない杯で会話を始めようとしたのだった。
その時、一緒に呼ばれている、武蔵さんの件に関わった他の連中、当時の審問会の面々は男二人の会話には入ってこずに、隣のテーブルでそれぞれが自分のやりたいことをやっていた。
こんな幸せな場にいられて、嬉しそうににこにこと会場を見渡している片瀬セリナ。
生田緑と和泉玉琴は、最近の二人の大学生活を報告しあうのに忙しくてあまり周りに気をつかう余裕がない。
酒が弱いのに、すぐ飲み過ぎて挙動が怪しくなる下北沢花奈は、そろそろ目つきあやしいから要注意。
残りの斉藤フラメンコの二人、代々木と赤坂のお姉さまたちは、結婚適齢期と呼ばれる年齢に入っているのもあり周りの男性グループに声をかけられるが、コミュニケーション弱者の本質は隠せるわけもなく、あまりにぎこちなく対応して声をかけた男性たちを、拒絶されたと思わせて残念がらせている。
とかとか……。
まあ、歳をちょっとちょっととったぐらいでは変わらないいつもの面々の、いつもの様子であったが、
「そろそろ、来るみたいよ」
と、突然、後ろから俺に耳打ちするのは喜多見美亜。
俺は、慌てて、振りかえり、会場の入り口を注目。
すると、——今日の主役の入場だ。
二次会の司会をしている友人代表が会場を煽って、拍手の嵐の中入ってくるのは……。
「皆さん! お二人が式場からやって来ました」
もちろん稲田先生……とその旦那さん。
今日、結婚式と披露宴を終えた幸せそうなカップルの登場であった。
——稲田先生。
今日で苗字が変わって小鳥遊とかいう、現実よりアニメの中のほうが人口多いんじゃないかという珍しい姓になった先生だけど……。
やっぱり稲田先生は稲田先生だよな。
高校時代の恩師が小鳥遊先生というのも名前的に美味しい感じがするが、稲田先生は稲田先生で、俺は一生、先生のことはその名前とともに思い出すだろう。
でも、
「初見さん綺麗だね……」
もう稲田さんとは呼ばなくなった武蔵さんに、
「後悔してないですか」
俺はちょっと意地悪な質問をする。
「?」
「あの時、稲田先生は武蔵さんに告白されてたら……結婚してましたよ」
「それは……」
なんでそれを知っているのだろうかと言った顔の武蔵さん。
運命の岐路、成績桜ヶ丘の街を見下ろす丘で、彼と相対したのは稲田初見であって、向ヶ丘勇ではない。武蔵さん的には、そう思っているだろう。
「……ああ、あの時……あの頃ってことですよ、もしかして『あの時』って言うような、特別の瞬間とかあったんですか? 稲田先生と……」
いや、それは、とか言いながら、明らかに焦って、黙りこんでしまう武蔵さん。その目は、明らかに、それは聞かないでくれと言うビームを大出力で放出中。
「それよりも、どう思います? 先生の旦那さん」
なので、武蔵さんにちょっとした助け舟を出す。話を元にもどす。俺が聞きたかった、その感想を教えて貰えないかと問う。
「そりゃあ……お似合いだよ、初美が選んだ人だから」
そう言った時、一瞬だけ、とても複雑な顔つきになった武蔵さんは、次の瞬間には満面の笑みと共に心から祝福する表情で言うのだった。
「僕なんかじゃ、およびもつかないさ」
*
というわけで、本章、俺が稲田初美——稲田先生入れ替わった事件のあれやこれやを締めくくるにあたり、稲田先生が結婚に到るまでの顛末をちょっと補足。
稲田先生は、武蔵さんを諦めた後、正直、しばらくの間かなり落ち込んでいたが、捨てる神があれば救う神あり。
一ヶ月くらいあと、幽霊部員ならぬ幽霊顧問とはいえ、一応指導している文芸部で他校との交流会があり、そこで知り合った同い年の別の高校の先生と随分と気があうなと思って、その後何回か会ってみると、あれやという間に結婚を誓い合う中に。
本当に結婚するまでは、三十路過ぎで失敗できないと両者が思えば流石に決心まで時間を要したし、両家への挨拶とか、式場の予約とかで時間がかかってしまった。けれど、好き合っているだけでなく、大人として、相手をしっかり認めている通しの結婚。それは、危なげなくゴールインまで着実に進んでいったのだった。
そして、稲田先生と旦那さんの二人は、あと、もちろん武蔵さんと奥さんの二人も、この後つつまやしかながら、夫婦で力を合わせて幸せに過ごして行ったのだけれど……それは別の話。
俺の様々な女子たちとの落ち着かないバタバタした物語は、まだまだ続く。
あの日、マンションまで車で送るとの武蔵さんの言葉を断って、丘に残った俺は、茂みに隠れて事を伺っていた喜多見美亜の体に入った稲田先生と物陰で夕闇に紛れてキスをすると見事入れ替わる。
そのあと、泣きじゃくる先生が心配だったけど、とにかく一人にして欲しいというのを断れなかったので、その場に先生を残して久々に喜多見家に戻る俺に、
「ただいま……」
「おかえり、お姉ちゃん!」
「ちょい、美唯」
いつもよりちょっとだけ勢いよく姉に飛びつく、あいつの妹に、いつもより疲れていてちょっとだけ体がヘロヘロになっていた俺はそのままバランスを崩してたおれてしまい……。
——チュ!
俺は、そして、今度は、女子中学生になってしまったのだった。




