俺、今、女子宣言中
「……今日はどうだったでしょうか。少し、自然が物足りないとかなかってですか」
聖蹟桜ヶ丘について、いわゆる聖地巡礼を行った俺と武蔵さんだった。
駅前の商店街を抜け。アニメにあった坂を登り、図書館に階段で下り、神社に参拝し、劇中のアンティークショップのモデルとなった喫茶店でお茶して、ロータリーには店が無いのを確認して、桜ヶ丘公園内をブラブラとする。
この後は、例のアニメで主人公がプロポーズされたゆうひが丘に行こうとしているのだが、その前に俺は、今日一日が武蔵さんの目的にかなうものだったのかを聞く。
里山探索をしようと思ってきた武蔵さんを、半分以上はかなり整備された公園や街中を引きずり回した俺であった。今日の武蔵さんのもともとの目的の里山探索からはちょっとライトな方向にずれたかなと思いつつ、——まあ、もともと、自然の中でストレスフルな最近の日常から逃れたい。そんな、漠然としたイメージで東京の反対側からこっちに車でやってきていた武蔵さんだ。
「いえ、こういう街にちかい自然をブラブラしたかったんです……もちろん最初の小沢城跡みたいな里山っぽいところもよかったのですが……」
特に問題ないらしい。
でも、それなら、武蔵さんが住んでる松戸とかの方も、市街地から少し走れば自然とかあるのでは? わざわざ多摩の方まで来るのって結構手間なのだったのでは——と思うのだが、
「……今住んてる街も、その周りの自然も好きなんですけど。今日は山に行ってみたい気がして」
ということのようである。
もちろん、武蔵さんは、稲田先生が住んてるこっち方面に来てみたかったというのもあるだろう。会えるとは思っていなかったかもしれないが、そのマンションの前をわざわざ通ったくらいである。
奥さんと別居中で、それを相談できる人が稲田先生しかいないような状態のうちに、相談だけでなく稲田先生の存在そのものが武蔵さんの支えになりかけているように思える。
そのせいで、武蔵さんが、かなりストーカーっぽい行動になってるとはいえ、稲田先生(入れ替わった俺)に実害でているわけではないし、この頼られているのを利用して、先生は武蔵さんをゲットしようと企んでいるのだから、まあ状況はwin-winといえる。
たまたま取れた年休で向かうのは稲田先生の住む多摩方面。正直、まだ武蔵さんの心は決まっていない。別居中の奥さんへも未練たらたらなのだと思うが、少なくとも稲田先生へ気持ちが大きく傾いているのは間違いない。
今日は、カモがネギ背負ってやってきたような、このチャンスを、めいいっぱい利用して、稲田先生と武蔵さんをくっつけて、俺はアラサーの体から抜け出すのだ!
と思っていたのだが……。
ちょっと今の、気持ちは複雑であった。
「……山がないんですよね、あっちのほう……」
「……」
なので、武蔵さんの話も上の空で、つい沈黙してしまうのだが、
「あ……。あんまり面白くないですねこんな」
「いえ、そんなこと……ちょっと考えことしてて」
慌てて話を合わせて、自分の揺れ動く心を悟られないようにする。
「そうですか……。でも住んでみないと実感しないかもしれないですが、東京のあっち側って——真っ平らの、関東平野の真っ只中なんですよ」
「はい……。確かに実感はわかないのですが」
「そうですよね。でも、もしいつか、あのへんに住んでみたらたまに山に行ってみたくなるかもしれませんよ」
まあ、確かに、この頃の俺は、多摩川と丘陵に挟まれた自分が生まれた街の風景を見慣れ、千葉や埼玉の関東平野部に行く用事もないし、武蔵さんの言う「真っ平ら」の実感を良くわかっていなかった。
でも実は俺はこの後、将来就職してから、一度、千葉の松戸と柏の間ぐらいに住んだことがあるんだけど、そしたら、この時の武蔵さんの気持ちがわかるようになったのだった。
——だって山がないんだよねあのへん。
もちろん、千葉県のそのへん——東葛と呼ばれる埼玉と茨城にぐっと差し込むようにとんがっている地域——も住宅地から外れれば、自然はいっぱいある。
昔からの森が残っていたり、自然を残した大きな公園ができていたり、民家の後ろがちょっとした木立になっていたり。そのへん——東葛地域——はずっと東京のベットタウンとして住宅開発が続き発展し場所なのであるが、その大規模な開発にも関わらず自然と住環境がうまくバランスした地域である。
住みやすい地域だと思う。松戸や柏などのデパートや繁華街をもつ都市もあり、東京にも地下鉄乗り継ぎで1本で行ける。自然と通勤などの住環境が取れた、サラリーマンが住む場所として、東京近辺での一つの解となっているのだと思う。いまだに、どんどん住宅地が開発されて人もいっぱい住んでいるのもわかるなって……。
ただ、——そんな場所であるが、住んでいた時に、どうしても最後まで慣れなかったことがある。
それは、あたりが……まっ平らことだ。
そこは、関東平野のまっただ中であった。
日本最大の平野その真ん中に、その地区はあるのだった。生まれてからずっと多摩丘陵を見たり、その中を歩いていた俺にしてみれば、どうにも落ち着かない景色なのだった。
もちろん平野といっても、東京の海際の下町あたりの埋め立て地みたいに、全く起伏が無いわけでなく、ちょっとした丘は結構あるし、平野だって、見通しが良い場所なんかで見れば、なだらかに起伏があるわけである。
ただ、山だなと思えるような場所は地平線まで見渡しても見えてこない。
この関東平野、そもそもの成り立ちが、日本の平野に多い、川が削った土地に土砂がたまってできた、いわゆる沖積平野ではなく、海の中の大陸棚の端がせり上がって平野になったという日本では珍しい構造をした平野なのであった。
つまり日本の中では例外的にだだっ広い平野なのであり……。
——それが、なんか落ち着かないのであった。
もちろん、そんなのは単なる好みの問題だとは思う。
山があった方が景観上良いと思う人もいるだろうけど、そんなの気にしない人もいっぱいいるだろう。いや、下手な起伏なんかあると、日々の通勤や買い物が大変になるだけなので、なるべく平らなところに住みたいって人も多いかなって思う。
ただ、
「……平らなところにいると、やっぱり時々山を見てみたくなるんですよね」
武蔵さんも俺と同類の人だったようだ。出身地は静岡県の山際の地方だったようで、景色に山がないとなんか落ち着かないたちのようだ。
だから、
「今日は……、とても楽しかった。——いや、堪能しました」
平日に休みを取って、ふと思い立ってやってきた多摩の丘陵地帯は、とても好ましい場所だったようである。
「この辺、土地勘なかったから。……初美さんに案内してもらわないと、こんな楽しめなかったと思います」
そして、稲田先生も同じように好ましさ上昇中のようであった。
ならば——。稲田先生の武蔵さん略奪愛計画の進行上、この一日は大きな成果があった日と言っても良いのだが、
「では、そんな楽しい一日を締めくくる……最後の場所に行きますか?」
その最後の〆がどうなるかが問題なのである。
俺たちは公園の中を歩き、今日最後の目的地へと移動するのであった。
*
そして——、今いるのは聖蹟桜ヶ丘の待ちを見下ろす丘。ゆうひの丘であった。
そう、例のアニメで最後に主人公がプロポーズされるあの丘であった。
アニメの物語を知っている武蔵さんも、ここがどういう場所なのか十分にわかっているだろう。奥さんと別居中の武蔵さんと、かつて、彼女にはならなかったが、相互に引かれあった女性が、そんなロマンティックな場所にさそい、一緒に夕日を見ようというのだった。
これは、明らかに、待っている。稲田先生は、アニメと同じ言葉をかけられるのを待っている。それに、さすがに武蔵さんは気づいているだろう。
そして、武蔵さんは、その言葉を言おうとしているに違いないのだった。
でもなかなか言えない。
まだ、かなり心が揺れ動いている、迷っている。
そんな状態なのが明らかな、——かなりの挙動不審の武蔵さんであったであった。
何か、話そうとしては言葉を飲み込み。稲田先生に近づこうと、一歩踏み出しては、目があって、あわてて下がる。
——残りの自分の生涯は稲田先生と一緒にいたい。
その一言が言えなかった。
喧嘩して出て行った今の奥さんとは、もうやり直す気力がでない。このまま円満に離婚したら、稲田先生とその後の生涯を過ごしたい。
いまから人生をやり直したい。
本当は、学生時代、運命の人と出会っていたのに、ちょっとした怠惰が二人を引き離した。
就職で。たまたま住むところが離れたけど。連絡先はわかってたし、なんだかんだでプチ同窓会みたいな同級の連中の集まりもあったし……。いつでも、——いつか相互に気持ちをわかりあえる。そんな日が来ると思いながら、受け身で待ちかまえて板だけの二人は、仕事の忙しさにかまけるうちに、気づけば連絡先も知らない、思い出すこともまれいなる。
しかし、こうやってまたチャンスがめぐってきたのだった。本当に好き会った同士が結ばれるチャンスが——!
だから、
「初美さん……」
ロマンチックな夕闇の街を背景に、意を決したような表情で武蔵さんが言う。
「僕は……」
武蔵さんが、この後何を言おうとしているのか明らかだった。稲田先生の勝利の時が目前に迫っていたのだった。一時的に泥棒猫にさらわれていた、生涯のパートナーとなるべき人を、先生はここで奪い返せたはずなのだった。
けど……。
「……武蔵さん、そろそろ良い時間になってきたので、帰りましょうか」
俺は、このロマンティックな雰囲気をぶちこわすような言葉を放つと、
「え……。あ、はい」
続けて、きょとんとした顔の武蔵さんに、たぶんちょっと悲しげな顔で言うのであった。
「やっぱり、武蔵さんは、もう一度、奥さんと心底話し合うべきだと思います……」
そう、背中に、泣きそうになりながら、後悔して、迷いながらも、強い意志で、その言葉に同意する稲田先生の視線を感じながら、俺は言ったのであった。




