俺、今、女子盗み聞き中
「どうしたの美亜? 今日やたらと暗いね」
最後の国語の授業が終わって、ホームルーム前の待ち時間、稲田先生として教壇に立っていた俺は、今日は明治時代の文学を巡る社会状況を知るとか言って当時の歴史の本とかエッセイとかを適当に図書館から持ってきて生徒に読ませて感想書かせるという手抜き授業を終え、——大量に持ってき本を片付けながら、喜多見美亜の席に和泉珠琴がやってきて二人が話し始めるのを見る。
稲田先生の親友、桜さんからの結婚(予定)報告のあった翌日に、喜多見美亜は終日暗い顔であった。それを心配して、クラスのトップカースト仲間として和泉珠琴が話を聞かなきゃと思ったのだろうが……。
——もちろん、喜多見美亜が暗くなってるわけでなく、入れ替わって、今その中に入っている稲田先生が絶望のどん底にいるだけなのであるが、和泉珠琴にそれがわかるわけもなく……。
「どうしたのかな美亜? らしくないよね。というかこの一週間くらいおかしい、というかたまにちょっと変になるよね美亜って。まるで人格変わったみたいに」
「……」
おっと、和泉珠琴、意外と鋭いな。もしかして、このまま体入れ替わりの事実に気づくかもしれぬ?
そんな、風に思わせる、キョロ系特有のさすがの観察力だが、
「まあ、でもそういうのってあるよね?」
「……?」
気を配るのと、気が効くのと……、ましてや気がつくのには大きな差があるのだ。
「ほら、私も人の話聞いたり、話たりしてるうち、それしてたのって——自分だっけ? とか思うこともあって……自分の人格ってなんだろうかなって思うこともあるし……」
「——!」
そうだろうな。この女、気がつけば自分がちょっと前まで言ってたことはすっかり忘れて、全く違う主張の相手の言葉をさも自分が言ってたような雰囲気を出してることあるよな。
なんだっけ。この間、女子数人でダイエットに良い朝食の話してた時、最初に和泉珠琴は朝食は抜くべきだって言ってたんだけど、まわりがほとんどしっかりした朝食を取るべきだってなったら、あっさり宗旨替えしたどころか、いつのまにか毎日しっかり朝からご飯三倍おかわりしてるくらいの主張になってたな。
推しの男性アイドルの話になった時も、自分の推しがその場ではあまり人気ないのに気づいたら、またいつのまにか推しメンが変わってたしな。ほんと、好きな相手までもがまわりの雰囲気で変わる女。
自分の中身が、状況によってころころかわり、それに本人もまったく気づくこともない。
——それが和泉珠琴だ。
つまり、この女は、自由自在に自分の心の中を状況に応じてぬりかえていくとすれば……。
和泉珠琴って、実質、もう体と心の入れ替わり現象体験済みと言っても良いのではないだろうか。
ずっとこんな調子で生きてきたのならば、入れ替わりの大先輩とでも言っても良いのでは?
——とかとか。
底なしに中身がなくて、そこが底知れぬ怪物——和泉珠琴による、底なしに中身の無さそうな悩み相談が始まりそうで始まらない様子を眺めながら、教材の片付けを終えた稲田初美先生=俺は教室から出る。
最後、振り返りチラ見したら、
「ああ、そういえば、今日はなんかアンニュイな気分かもしれない。そんな女子高生もカッコ良いかも……」
暗い方が今日の流行とでも思ったのか、悩みも、そもそも悩むような脳構造も持ち合わせていないキョロ充の、アンニュイというよりは、アンシンキングって感じの、眉だけはしかめているが、なんか何も考えてないアホ面晒していたのに少し呆れ、思わず立ち止まる。
すると、
「先生……今日の授業は副読本多いから持つの手伝いますか?」
「えっ……」
突然、席を立って駆け寄ってきた喜多見美亜は、小声で、
「……何が起きてるのか詳しく教えてよ」
俺は、あいつに向かって、軽く首肯しながら、教室のみんなに聞こえるように、
「……それじゃ、向ヶ丘くんの、ご好意に甘えますか……」
「あ、私も手伝います!」
と、俺と喜多見美亜の様子を見た生田緑も立ち上がるが、
「……あ、じゃあ、わたしも……」
「さすがに三人では多すぎるので、珠琴は大丈夫よ」
和泉珠琴も着いて来ようとしたが、それは生田緑がぴしゃりと断る。
一人だけ、裏の体入れ替わり事情を知らない、和泉珠希に着いてこられると、何も話せなくなるからね。
で、俺ら三人は、廊下を歩き出し、職員室まで教材を運ぶ途中、昨日の夜の出来事を話すのだった。
*
「なんで、さっさと話しておいてくれないのよ」
「確かに、ちょっと、暗すぎると思ってたのだけれど……。今日、そんな落ち込んでいる人の前で、不用意な発言していないか気になるわ」
というわけで、話すやいなやの糾弾を受けている俺であった。
「でも、ちょっとプライベートすぎる話題な気はして……」
「それはそうだけど……」
先生の友達の結婚情報。それもできちゃった婚の話なんで、本来は教師と生徒の関係しかないこいつらに話して良いことか? とか躊躇してるうちに、あっという間に一日が終わってしまったのであるが、
「美亜……というか稲田先生、いくら何でも落ち込み過ぎだと思ってたのよね。話しておいて貰えれば、少しはケアもできたかもしれないけど……とう扱って良いやら迷ってしまってたわ」
「もちろん、あたしらも、聞かなかったってのもあるけど」
確かに、本来なら昼に対策会議を開いておいた方が良かったのかもな。せめてスマホにメッセージ送って状況の説明くらいはしておいても良かったかもしれない。
でも、今日はぎっしり授業詰まってたし、昼に生徒指導にかこつけて呼ぶっていうのも先週やったしな。
何回同じ生徒を呼んでるんだと、みんなに不自然に思われるかもしれない。連続して生徒指導されてる向ヶ丘勇に何か問題が在るのかとか思われちゃうかもしれない。
あるいは稲田先生と何か怪しい関係たとか?
——いや、さすがにそれはないか。
結婚を焦ってる稲田先生とはいえ、孤高のボッチである俺——向ヶ丘勇——をどうにかしようと思ってるなんてことは流石に誰も思わないだろうけど……。
「ともかく、先生が落ち込んだままだと、この後ちゃんとした判断できなくなるかもしれないから、なんとかしなきゃ」
「そうね。このままだと武蔵さんの略奪愛まっしぐらで止まらないかもしれないわね」
「……それは」
ああ、この二人は、やはり、まだ、先生のことを止めようとしているのだった。
武蔵さんと奥さんと関係が悪くなっているのを良いことに、その間に入り込もうとしている稲田先生。俺も、向ヶ丘勇としての理性では、そんなことは止めたほうが良いことがわかっているのだが、どうにも今入っている稲田初美の体が止まらない——そんな感じなのだ。
「まあ、いいわ。あんたの意見は後で聞くとして、今は、この事態にどう対応したら良いか感上げないと……となると会議ね」
「それじゃ、放課後は例の喫茶店かしら? それとも山の上の神社?」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
「ん、何? 多摩川の河原の方が良い?」
「そうじゃなくて、俺、行かなきゃいけないんだ」
「行く? どこへ?」
「どこへと言われれば、新橋だけど……」
「東京の? なんでそんなとこへ?」
「サラリーマンの聖地ね」
「オヤジばっかりの場所って良く聞くけど……何しに行くの?」
「飲み会」
「ああ、そういや、いまあんたはアラサーだからね。そういう付き合いもあるのかも知れないけど、今日は流石に断って先生の問題に集中するってできないの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて——って何がかしら?」
「先生の問題のために行くんだよ」
「飲み会に?」
俺は、強く首を縦に振りながら、
「ああ、桜さんが勤めてる新橋で、今日彼女と会うことになったんだよ」
と言うのであった。




