俺、今、女子帰宅中
「それじゃ、お先に失礼します。お疲れ様です……」
夕方、というかもう夜の職員室。
残って仕事をしている教師の方々はまだたくさんいるけれど、俺は帰りの挨拶をしながら席を立つ。
本日の小テスト採点の他、簡単な庶務の作業を終えた俺=稲田初美は……。
『ああ、きりが良いから帰っちゃおかな』感を満々に出しながら、すっと席を立つのだった。
そんな『ちゃおかな』感なんて誰も気づいていないのかもしれないけど……。
でも、そんな素ぶりの身振りでもしないと、まだまだ仕事の真っ最中の同僚の先生たちを差し置いてと、——なんか、罪悪感があって帰ることができない。
というか、一度立ち上がったものの、気のせいかもしれないが、背中に痛くなるほどの視線を感じて……、このままもう一回座ろうかな? って気持ちになってしまって、自分の席の前で固まってしまう。
——絶対、|稲田先生《こいつ』もう帰るのかって思われてるよな。
スポーツ部の活動の指導してきた先生なんて、まだ職員室に戻ってきたばっかりだよ。文芸部の幽霊部員……でなく幽霊顧問である俺——が入れ替わった——稲田先生みたいに、放課後すぐにデスクワーク始められるわけじゃない。
スポーツ部や吹奏楽部あたりの日が暮れるまで生徒の部活にしっかり付き合った先生たちは、テストや書類の山を前にして、イライラとした目で、——もう帰ろうとしている俺のことを睨めている……気がする。
と、そんな視線に射すくめられれば、俺は、もう、帰りの挨拶までしたのに、そのあとの一歩が踏み出せない。
ああ、もう……。
——助けれくれ。
と、心の中でため息交じりの悲鳴をあげる俺。
先生稼業数日でもうギブアップ気味の俺であった。
ほんと、先生という職業はブラックだとか良く言われるけど、——先生と体が入れ替わってみると、やっぱりそう思うな。部活指導がほとんどない稲田先生でも、授業準備や、テスト採点、日誌のコメント、校内見回りや、清掃監督、委員会出席……。
基本、時間が開けば必ず何か仕事が詰め込まれる。なんでもちゃんとやろうとすると、いつまでたっても何も終わらない。——帰れないような感じだ。
そして、そのうえ、稲田先生に入れ替わった中身の俺はただの高校生……決して、超高校生級のなんとかではないので、そもそも先生のすべき大変な業務なんてほとんどこなすことができない。
実際、これ以上職員室にいてもすることない。
やることないのに、ただ座っていないといけない……ってのもつらい。
今日やったのは、先生の作った答えを見てテストの採点をしたり、庶務の申請とかしたりするくらい……。ああ、あと、学級日誌のコメントも適当にしておいてと言われたが、それも終わっていて……。
って、そういや、ちょうど今日は片瀬セリナが日直だったみたいで、
『だい好きな夏も終わり
いつのまにか秋になりつつあります
時間がたつのは本当に早いですね
夜もずいぶん長くなってきてますので
うまい果物食べながらのんびりと放課後は過ごします
ぶどうとか』
と、通信欄に唐突な秋のセンチメンタルな心情の吐露なのか、食い気の報告なのかどっちとも言えないような微妙な文章を書いてきたけど……。
——こりゃ縦読みだね。
行の頭の文字を並べると、
『だいじようぶ』 → 『大丈夫?」
と、なぜか俺の体入れ借り現象を知る、突然転校してきた美人女子高生は、慣れない先生業務をする男子高校生を心配して、日誌にそんな文章を紛れ込ませたくれたようだ。
それに、俺が返したのは、
『誰もが秋になると感傷的になりますね
めげないで頑張りましょう
ポリティカルコレクトネスは忘れずに』
ほとんど意味不明の日本語だが、もちろん縦読みで、
『ダメぽ!』
ああ、本気で、ちょっとこれはもうダメかもしれない。
って、思ってる。
大人の仕事、大人の私生活がこんな大変だとは……、想像してなかったとまでは言わないが、実感できてなかった。
受験を控えた高校生も大変だと思ってたけど、やっぱり大人の責任というのは重い。
重すぎて潰れる。
心が……。
ほんと、さっさと、稲田先生の結婚相手見つけて元に戻りたい。
自分の体に戻るのはあいかわらず難しいだろうけど……。
せめて高校生《あいつ』に!
でもな……。
先生が29年間でできなかったことを、俺がすぐにできるわけがない!
…………やっぱダメぽ。
と俺は、帰りかけで席をたたっところに、余計なことを色々考えて、呆然と自分の机の前で立ちすくんでいる。
このままじゃ、——席をたちかけたまま、中腰で動けなくなっている、間抜けな人として夜中まで職員室にいなきゃならなくなりそうであった。
が、
「……稲田先生お疲れ様。明日朝は職員会議あるので遅れないようにな」
「は? はい?」
振り返ると、相変わらずの強面ながらも優しげな表情の尻手先生が、俺——稲田先生にタイミングよく声をかけてくれた。
すると、
「お疲れ様」
「お疲れ!」
「っかれ!」
……
一気に職員室中に広まった帰りの挨拶に押し出されるように、俺は学校からでることができたのだった。
*
そして、学校から出て、しばらく歩いて駅前を過ぎ、先生のマンション近く、
「尻手先生、実は良いひとなのかな……」
タイミングよく言ってくれた、強面数学講師——尻手先生の言葉を思い出しながら俺はコンビニに入る。
尻手先生って、生徒の立場から見たら冷酷非情の怖い数学教師だし、正直みためも反社会的組織の人かって感じで、俺が稲田先生と入れ替わって、仕事で怒られないか一番心配していた相手でもあるが……。
「稲田先生、チャラい連中じゃなくてああいう人へ婚活するというのもあると思うがな」
俺は、無意識に弁当を掴みながら、そんなことを小声で呟くのだった。
ああ、尻手先生そのものはもう五十近くで妻子もいる。稲田先生は不倫相手でなく結婚相手を探しているのだから、その対象にはならないけど、——ああいった感じの人の方が先生には合うってことはないだろうか?
怖いけど、妥協せず筋を通しているだけで、本当は優しい……かもしれない。
——みたいな人?
アイディアとしてはありだよな。
「あ、温めは結構です……」
俺は先生のマンションに帰ると、電子レンジで弁当が温まる間に考える。
先生の結婚相手には、——怖がられたり、避けられたりしてるけど本当は……のような感じの人ってありではないだろうか?
先生の性格からして、バリバリ肉食みたいな男たちとくっつくのはなしだろ。
あとあんまり草食な男に逆にグイグイ行くのもないだろ。
すると、世の男は大きくこの二つに分別されるので、その両方とも先生には結婚の芽がないということになる。つまり……結婚できないのか、先生。
——だめじゃん!
……じゃなくて、ならその二つでは収まらないような隙間を狙って行く必要があるってことだろ。
一見女子から避けられそうなひとだけど、実は……みたいな。
怖いとかに限らず、何か結婚相手として問題があるように見えるが、本当は理想的な相手。
「まあ……そんな人が簡単に見つかるならみんな苦労はしないんだけどね……みんなそんなこととっくに考えているだろうし……」
というわけで、俺は、電子レンジの温めが終了したチンという音で我に返ると、テレビをつけて食卓につき、そんな簡単には行かない、アラサー女子の現実を噛み締めながら、一人わびしくコンビニ弁当の夕食を始めるのであった。




