9 酔わない秘訣
クリノクリアの港から出航して約三時間が経とうとしてた。
カインローズは二時間にも及ぶの説教の中盤から、どうにも具合が悪くて仕方がないといったふうに呻いている。
「うぅ…なんだか頭がグワングワンしやがる……」
説教から開放されて一時間後には船のデッキで海面を見つめるカインローズの姿があった。
「旦那、そりゃ船酔いってもんですよ」
アトロは笑いながらもカインローズの背中を擦っている。
「なんですか船くらいで…ちょっと弛んでいるのではないですか?カインさん」
「ぐぁ…ちったぁ…心配しやがれよ……」
「昨日勢いに任せて馬鹿みたいにお酒を飲むからですよ」
カインローズのその今にも死にそうな青白い顔をリーンフェルトの方に向かって、力無い目で訴えている。
しかし出航時のドタバタも全てカインローズの身から出た錆である。
ここは大人しく反省してもらおうと、リーンフェルトはそう思っていた。
二時間ほど説教した後だが。
「うぁ…ちょっと失敬……」
突然先ほどまでの緩慢な動きとは打って変わって、戦闘時のような素早さで船の縁に移動すると勢いよく海面に嘔吐した。
「はぁ……みっともないですね。あれは」
「ですね……」
額に手をやり首を振りながらしみじみと述べるリーンフェルトに、アトロも静かに頷き肩を落とした。
少し復活したのか遠巻きにカインローズの叫び声が聞こえた。
「うおぉぉ!!俺の極上の酒が…クソッ!もったいねぇ……」
そんなに勿体ないと思うのならば、吐かなければ良いのにと思うリーンフェルトであった。
ちなみにリーンフェルトはそのあたり貴族の嗜みとして、人に弱みを握られないように躾けられている。
リーンフェルト自身は元々酒には強い方ではない。
ただ酒の酔いにはどういう訳だか光魔法が効くというのは有名な話で、光魔導師とは呑み比べした酒豪が財産を賭けて全て失ってしまったという昔話が残っているくらいだ。
故に魔法の才能豊かなリーンフェルトは光魔法も使えるので、酔い潰れるは事ない。
本当に酔い潰れるとしたら、それは本人が光魔法を使わなかった時に他ならないのである。
「そういえばリンさんは船に酔ったりとかそういうのはないんですか?」
アトロはリーンフェルトに向かってそう投げかける。
アトロ自身は生粋の御者であり悪路悪天候の走破なども行うベテランであり、乗り物の揺れという物に耐性がある。
ここにはいないがクライブも経験を積んだ御者である為か、乗り物の揺れというものに強い。
今は貨物室で荷物の番をしている。
運んでいる物は今をときめくオリクト…それも確実に一財成しえるだろう量だ。
万が一の盗難に備えてクライブとアトロが航海の間は交代しながら番をする事になっている。
デッキよりも貨物室の方が揺れは酷いのだろうが、仕方のないことである。
そんな揺れ耐性を有するアトロ達ではあるが、船に乗っても普段通りに動く事の出来るリーンフェルトを見ていると、そう質問をしたくなるのも納得のいく話である。
それについてリーンフェルトは、少し声のトーンを落としアトロにだけ聞こえるように話し始める。
「私自身はそれほど船には強くないですよ。ただ足を床に着けていれば波の影響を受けてしまうのは仕方のないことですよね?」
「ええ、それはそうです」
「それならば床に足を着けないというのはどうでしょう」
アトロはそういうリーンフェルトの足元に目をやると、ブーツと床板の間に隙間が出来ており風魔法で浮いているようである。
「リンさんそれは……風魔法ですか!?浮いてますよ!」
「ええ、なので揺れの影響を受けずにこうしています」
「でもですねリンさん。それが出来る魔術師はなかなかいませんよ。それに…サエスまでまだ三日もありますが、それまで浮いているつもりですか?」
そんな質問にリーンフェルトは一つ咳払いをすると頷いてみせた。
「カインさんに船酔いの私を見られたくありませんので」
「それはまた……意地ですね」
そう言って苦笑するアトロにリーンフェルトはそのまま続ける。
「それに私達はアル・マナクの……セプテントリオンの紋章を背負ってますので、あまり対外的に無様な姿は見せられません」
「それは私ら下っ端にはないものですが…ええ、言いたい事はわかりますよ。それに比べて旦那は自由ですねぇ……」
さらに苦笑を深めるアトロは、リーンフェルトの生真面目な部分を少しくらいカインローズも見習わないものかと、そんな事を思っていた。
未だリーンフェルトとアトロから距離を取って海面に嘔吐くカインローズを見て、二人は盛大に溜息をついた。
さて昼前に出港した定期便だが、カインローズ以外は至って順調でありその航海に遅れはないようである。
夜に向かうにつれて波は徐々に穏やかになって、空に月が高く昇る頃には揺れも小さくなっていて殆ど感じられなくなっていた。
船の上は火のオリクトが松明代わりに灯りとして配備されている。本物の松明であればその扱いは細心の注意が必要であっただろうが、オリクトである為その心配はない。
火の明るさのみを発現させるように術式が組まれているのだろう。
当然船でオリクトが使われているのはその部分だけはない。
風のオリクトが動力として組み込まれているこの船は、生み出した風をダクトに通しそれを帆に吹きつけるようになっている。
帆は絶えず風を受ける事が出来るので、船は推進力を得て前へ進む事が出来る。
先の仕組みで凪を気にしなくても良くなった為、漕ぎ手が不要となりこの船には乗船すらしていない。
ざっくりと見て普通の船と比べると、その船員の数は明らかに少なく半分くらいといった所だろうか。
当然その人員にかかる食料であったり、水であったりを積載せずに済む。またその開いたスペースに客を乗せる事が出来れば更に儲けを期待できるようになっている。
また水のオリクトが船底にあり潮流による影響を軽減しているので、波に流されずに目的地へ向けて進む事が可能なようだ。
この船で言えば時間にしてサエスまで今まで約一ヶ月ほどかかっていた航路が、オリクトを組み込んだ事によりわずか三日で踏破可能となっている。
世界の全ての水はカルトス大陸にあるヘリオドールから生まれ、溢れ流れていると言われている。
故に海には海流というものが存在しているが、海流はカルトス大陸に向かうほど激しく流れが早いのだ。
この激しい流れに逆らって航行するために、船には多くの漕ぎ手が必要だった。
だが然し、どんなに多くの漕ぎ手を揃えようと漕ぐ人数は決まっているし、その推進力は察する事が出来るだろう。
結果今まで約一ヶ月掛かっていた。
余談だがケフェイドに帰るためには、その倍の二ヶ月をかけねば帰る事が出来なかった。
これは西大陸カルトスに向かって流れる海流と中央大陸セリノアからの風がやや向かい風に吹く為、四角い帆を畳まざるを得ないからである。
帆からの推進力を失い、さらに海流に逆らって漕ぎ手を使って運航したので倍掛かったと言われている。
これがそれまでの世界の常識だったのだ。
常識を塗り替える事が出来る力とは、どれほどの意味や価値があるのだろう。
三日でカルトス大陸のサエス王国にある港町クロックスまで行くことが出来る事、それはつまりケフェイドからオリクトが世界に発信されるまでの距離とスピードであることに他ならない。
これからもオリクトは世界に必要とされて、ケフェイド大陸から世界を駆け巡るのだろう。
そんな未来がリーンフェルトには見えていた。
実際に今まで定期便に乗った事がなかったリーンフェルトだったが、航行日数や船の造りなどの知識は港を有する領主の娘として教育を受けてきたからだ。
公爵家にいた頃、当時の家庭教師が地理と歴史の授業のあたりでそんな事を講義していたのを覚えていたのだ。
ともあれ昼夜を問わずにスピードを落とさず、また風や波に左右されずに海を進む事が出来るというのは夢のような話である。
しかし、舵だけは魔法ではどうにもならないらしく数名の船員が交代制で担当しているようだが。
さて半日以上船酔いでぐったりしていたカインローズだが、揺れが弱くなったこともありだいぶ調子を取り戻しているようだ。
あたりは波の音と満点の星、それに綺麗な月である。
ロマンチックな雰囲気の中、カインローズがリーンフェルトに話しかける。
「さて晩飯は何を食おうか」
「はぁ……」
別にカインローズに思うところはないのだが、しかし雰囲気が台無しである。
ロマンチックな船の夜は一気に食欲の方へ振り切れる。
リーンフェルトはまた溜息を吐く。
何を食おうかなどとカインローズは言っているが、本人が聞いていなかっただけで乗船のした後に今晩のメニューは既に説明されている。
「おい、リンあんまり溜息ばかり吐いていると幸せが逃げるって、国のお師匠様が言っていたぜ?」
「誰のせいでこんなに溜息が多いのかわかってますか?」
「さぁな。とりあえず船の飯とやらにも期待しようぜ」
ジト目で睨み返すリーンフェルトを華麗にスルーしたカインローズは、食堂に向けて歩き始める。
定期便の食堂は元々船員の食堂として作られた場所である。
船の船尾側にそれはあった。
食堂の扉を開けたカインローズは目を疑う。
「なんじゃこりゃ……」
目の前には宙に浅く浮いたテーブルが四隅をロープで固定されて流れていかないようになっている。
それと同様に椅子もまた宙に浮いており、脚をロープで固定されいる。
その光景を見たリーンフェルトではあるが、思考は読み取れるので黙っている。
「宙に浮いて飯を食えってのか?」
「おそらく船の揺れを気にしないで食事をして欲しいという思いからこんな事になったのでしょうね」
したり顔でさらっとリーンフェルトはそう言うと、ロープを手繰り椅子を引き寄せる。
何事もなかったかのように椅子に座ると、椅子ごとフヨフヨとテーブルの高さまで浮き上がる。
「カインさんも早く座ってください」
「おい!いやリン……随分あっさりとこれを受け入れたじゃねぇか。知ってたのか?」
「いえ知りませんでしたが?」
「なんで椅子もテーブルも浮いてるんだよ……ああ落ちつかねぇ」
カインローズも椅子に座りフヨフヨと浮きながらテーブルの高さまで来ると、リーンフェルトの向かいに現れた。
料理の方は配膳済みだ。
専用の皿にはテーブルから動かないように小さなフックがあり、それに引っ掛けて固定されており取り外しも自由なようだ。
本日のシェフのオススメしかメニューはないのだが、それでも三日あれば港に着く事がわかっているので保存食のようなものではなく
ちゃんとした料理が並んでいる。
海で獲れたのだろう白身魚を使ったグラタンの他に瑞々しい野菜のサラダ、それにライムジュースがカップ一杯ついている。
主食は小麦粉を使った白いパンであり、こちらも備え付けのバスケットに二人分用意されている。
食堂にはパン焼き用の釜が備え付けられているが、ここにもまた火のオリクトが使用されており火を出さずに熱をもって、蒸し焼くようにしてパンは焼かれているのだろう。
今朝食べたパンとはまた風味や食感すら異なるパンであるがとても美味しい。
固定されたバスケットから二つ目を手に取り、お皿に乗せるとリーンフェルトは徐に話し始める。
「そういえばカインさんに言っていませんでしたが、私は今日船の揺れから逃れるために宙に浮いていたのですよ」
「はっ?」
「いえ…ですから風の魔力を使って、この椅子のように浮いていたのです。だから船酔いとかしなかったというかですね……」
「ずりぃ……」
「はい?」
「いやズルイだろうよそりゃ!なんで教えてくれなかったんだよリン!」
「いえずっと海面を見つめていたので」
リーンフェルトの言葉に苦虫を噛み潰したような表情のカインローズはボソリと一言呟く。
「明日は俺も浮いていよう」と。