83 ドーナツの穴にこそ魔性は宿る
長蛇の列にもめげず無事にドーナツを買う事が出来た二人は大聖堂へ向かって歩き出す。
店が大通りに面しているという事もあって、ここからでも大通りの一番奥に建っている大聖堂は良く見える。
「なんとか買えましたね」
ドーナツが入った箱を抱えて、にこやかな表情のリーンフェルトにカインローズもまたドーナツ入りの箱を両手に持ったまま返事をする。
「ああ、これで連中も喜ぶだろうよ」
あの店員の言うように凡そ三十分程度で店先にたどり着き、ドーナツを注文。
後はあっという間に箱詰めされたドーナツが、お会計と同時に別の店員から手渡される。
流れ作業と呼ぶに相応しい客を待たせる事のないスピーディーな、それでいて全く失礼とは感じない丁寧な気持ちの良い接客に自然と笑顔になる。
「普段はこれよりももっと忙しいんだろ……正直信じられねぇよ。あの接客だって崩さないんだろ?」
「恐らくそうなのでしょうね。皆さんとても慣れた手つきで作業されていましたし、きっとプロとしての意識も高いのだと思います」
「まぁよ、混んでいないと言われる今日でも四、五十は並んでいただろ? あれ。あんだけ人がいたんだ。それが毎日だろ? 嫌でも慣れるだろうぜ」
ドーナツ屋に並ぶ人だかりが容易に想像出来てしまったリーンフェルトは、苦笑すると彼との話を続ける。
「あはは……それはそうですよね。一日で百、二百の話ではないみたいですしね」
「俺はああいう仕事は絶対に御免だがな」
ぼやくようにそう言ったカインローズに彼女は、困った表情になる。
「その前にカインさんがドーナツを作っている姿が想像できないのですが……」
「ちげぇねぇな」
そんな事を話しながら二人は大聖堂まで戻ってくる。
土産のドーナツを持って、その足でアウグストの部屋を訪れる。
コンコン。
ノックをするといつもの様にアウグストから返事が返ってくる。
「入りたまえ。鍵は開いてるよ」
ドアノブに手を掛けて捻れば不用心な事だがあっさりと扉が開いた。
「アウグストさん、ちょっと不用心なのでは?」
開口一番にリーンフェルトはそう指摘するが、アウグストの回答は全く別の視点から返される。
「ははは、いやいや逆に鍵を掛けていた方が有らぬ疑いを掛けられかねないからね。施錠せずにいるのだよ。ところで先程から良い匂いがするのだが……」
「あ、はい。実はちょっと市街に出ておりまして、皆さんにお土産でドーナツを買ってきました」
「ほう……ドーナツでしたか」
目を細めて二人の持つ箱に視線を向けた彼は資料の山から立ち上がり二人の元に歩み寄る。
「なんでも皇都でも有名なお店らしくて、良かったらと思いまして」
「さすがリン君だね。ケイに買い物に行かせたら鶏胸肉とチーズしか買ってこないのだよ」
「それはなぜですか?」
リーンフェルトは反射的に聞き返すのだが、それについてアウグストは答えを持っていなかったようである。
「それは私が聞きたいくらいだよ。カインは何か知ってるかね?」
「ああ、それって多分だが筋肉に良いとされている食べ物だからだな」
「なるほど……彼は私に筋肉をつけてどうしようというのでしょうね。私のように頭脳労働する者にとっては甘い物の方が、俄然体に沁みると言うのに」
「魔力の回復にも役立ちますし、確かに資料整理などをしている時は、甘い物が無性に食べたくなってしまう事がありますよね」
「そうか? 俺は鶏肉とチーズがあれば、酒が飲みたくなるが」
冗談なのか本心なのかカインローズの言葉に沈黙が走るも、直ぐに気を取り戻したアウグストが話の流れを切り替えた。
「おっと話が逸れたね。では早速頂くとしよう」
ドーナツを一口食べたアウグストの目が、子供のようにキラキラしているのが分かる。
「これは……止まりませんね」
あっという間にドーナツを一つぺろりと平らげてしまったアウグストは指を内ポケットから出したハンカチで拭いながら、さらりと思いついた事を口にする。
「このドーナツのお店買い取りましょう。アル・マナクの本部に是非店を構えてもらえるように、グランヘレネ側に交渉しましょう」
「駄目ですよアウグストさん、皇都に住んでいる皆さんから顰蹙を買ってしまいますよ!」
ツッコミを入れたはずのリーンフェルトにはお構いなしとアウグストはドーナツの感想を述べる。
「しかしこれは堪らないね。特に蜂蜜と生地の甘さが絶妙で何個でも行けてしまいそうだ」
夢見心地で呟くアウグストを見ていたカインローズは彼女の方に一瞬顔を向けると、カインローズらしからぬヒソヒソとした声で彼女に話しかける。
「なっ……リン言ったろ? これで身を滅ぼす奴が一人だけではなかったという話を」
「ええ……ドーナツ一つでこんなに大きな話になるのですね……」
「――まあ、なっちまうんだから仕方が無いよな」
そう二人が会話する中、アウグストは依然として自分の世界から帰ってこない。
「そうだグランヘレネ側にまずは、滞在期間中は食後のデザートにはこれを付けるように要求しよう。私の作業が捗るだろうからね」
どうやらよほどお気に召したらしいアウグストからそんな言葉が聞こえてくる。
「アウグスト、そのドーナツは魔性のドーナツでな。虜になると中々逃がしちゃくれねぇぞ?」
「ならば虜でも良いですよ私は。きっと皆喜んでくれるでしょうし」
鼻歌交じりにもう一つドーナツを摘み上げるとそれを口へと運ぶ。
「ああ、店の件が駄目ならこちらに何人か修行させに来させましょう」
「本気みたいですね……」
「ああ、完全にスイッチが入っちまったようだ」
カインローズは苦笑しながら頭へと手をやる。
リーンフェルトもまた自身の一言から話が大きくなり、少々戸惑いの表情を見せる。
そこにちょうどよくアンリとケイが部屋へと入ってくる。
「これは……」
「甘い匂いがするね! 何か買ってきたのかい? リン」
ケイの質問に彼女は、ドーナツが入った箱を手渡しするべく手に持ちながら質問に答える。
「ええ、ドーナツですよ。皆さんの分もありますからどうぞ」
箱を差し出された両名は受け取り彼女に一言礼を返すと一口頬張る。
「それではご相伴に与ろう」
「気が利くねリン。流石女の子だよね」
ケイの言葉を受けてアウグストはチラリと彼の方を見ると窘めるように話し始める。
「お前は鶏肉とチーズしか買ってこないだろうに……確かに私が脳の栄養になりそうなものを買って来てくれとは言ったが、私は甘い物が欲しかったのだよ」
「それなら甘い物って言ってくれないとさ。それに脳に栄養を与えるなら鶏肉とチーズは必須だよね。ねっ? カイン」
「勿論、俺達の筋肉には必要な栄養だが……」
呆れたように溜息を一つ着いたアウグストはピシャリと切り返す。
「私は頭脳労働派なのですよ。脳味噌にまで筋肉を付けようとは思いませんよ」
「なんだか馬鹿にされている様な気がするけど。まぁいいや」
一人に三個づつ当たるように買ってきたドーナツであったが、あっという間になくなってしまった。
空になってしまった箱を見ながらアウグストが唸る。
「もう後一つ、いや二つ……」
「あれは違った方にスイッチが入ってしまったな」
呆れたという表情を見せるのはアンリとリーンフェルトだ。
一方筋肉コンビはケイがカインローズを連れ出し、部屋を出ようとしている。
その後ろ姿にアンリが声を掛ける。
「二人とも、どこに行くのだね?」
彼がそう呼びかけるもケイは適当にしか返事をしない。
「食べた後は体を動かさないとね。勿論行くでしょ? カイン」
「お前ら四六時中一緒にいて飽きないのかね?」
アンリの質問にケイは笑って見せる。
「なにせカインは面白いからね」
「いやお前に付き合って振り回される俺の身にもなってみろよ」
そうぼやくも、まんざらでもなさそうなカインローズにジト目を向けるリーンフェルト。
アンリは完全に無視さる形となり、眉間の皺を深くさせる。
「またまた~戦ってる時カインすっごくいい笑顔だけど?」
「そりゃな。全力で戦える相手なんざ、そうそういないからな」
「ほら、やっぱり楽しいんじゃないか」
「ま、否定は出来ないわな」
二人はそんな話をしながら、遂にアウグストの部屋から出て行ってしまう。
「時々あの二人が怪しく見えてしまうのは、私の考えすぎかね」
二人の背を見送りながらアンリがボソッと言葉を漏らす。
そんなやり取りを横目で見ながらアウグストは、オリクトを使用したポットから紅茶を注いでアンリとリーンフェルトに差し出す。
「ありがとうございます」
手渡された白磁のカップとソーサーを受け取り、貴族らしい上品な仕草で紅茶を一口含む。
「今日の紅茶はケフェイドから持って来た茶葉を使用している。ヴィオールの茶葉は少々口に酸味と雑味があるからね」
「やはり国々によって茶葉の味は違いますよね」
この話についていけるのは恐らくこの場に残った三人だけだろう。
午後の茶会は夕食時まで続いた。