82 甘美な蜜の味は堕落を伴うのか
昼食を終えて二人は店から出てくる。
会計に立っていた厳つい顔をした初老の男は、リーンフェルトよりもカインローズに向かってウインクをして良い笑顔と共にサムズアップしていた。
それを見ながらどういう事なのだろうかとリーンフェルトは考えていた。
これは彼女に女性としての魅力がなかったからだろうか。
それとも初老の男性の好みだったカインローズが誘われていたのだとかと一瞬考えたのだがどうやら違うらしい。
遅れて店から出てきたカインローズはぼやくように彼女に話し始める。
「ったくおやっさんは変わらねぇわ……」
「ああ……お知り合いだったのですね。私はてっきり……」
「いやいや、そうじゃねぇおやっさんは冒険者だった頃の大先輩だよ」
危うく先の妄想をそのまま質問する所だったリーンフェルトは、素知らぬ顔で話を切り出した。
「美味しかったですねカインさん」
「そいつはよかった。実はあの店昔っからあそこにあって、冒険者時代には良く世話になった店なんだ」
「あんな高そうなお店に出入りしていたのですか?」
カインローズのイメージだとやはり大衆酒場で大騒ぎしているような印象を受けるのだがどうやら違ったらしい。
意外そうな表情を浮かべる彼女にカインローズは後頭部をガシガシっと掻くと明後日の方を向いてこう言った。
「稼ぎはそれなりにあったんでな。それと粗野な客がいない事でもあそこは有名でよ。元々あそこのオーナーシェフが冒険者上がりだってのもあるんだが、おやっさんには世話になった奴が腐るほどいやがる。そんな訳でグランヘレネの上級冒険者ご用達って場所なんだわ」
「なるほど、知っていてあの店に入ったのですか」
カインローズはジト目の彼女に向き直り、オッサンらしからぬ爽やかな笑顔を作って言い放った。
「ドキドキしただろ?」
しかしどう頑張った所でカインローズであり、リーンフェルトである事に変わりはない。
彼女のドキドキは全く別の所にある。
「それはなんというか心臓に悪い感じでしたが……」
「まぁそう言うなって。美味かっただろ?」
「はい。それは勿論」
料理については問題なかったと彼女もまた笑みを浮かべて返事をする。
「なら良かったよ。おやっさんの腕も落ちてないみたいだったしな」
そういって懐かしむカインローズの鼻腔を甘い匂いがくすぐる。
「あぁドーナツ屋の匂いだな。こりゃ」
「確かに甘い匂いが微かにするみたいですが」
リーンフェルトの鼻では本当に微かな甘い匂いしか感じないのだが、彼の鼻は普通のシュルクとは違い感度が桁違いだ。
「なあリン、食いに行ってみるかドーナツ」
「いいですね。みんなの分もお土産に買っていきましょう」
「そうするか。こっちから匂いがするな……表通りの方か」
特に躊躇う様子もなくカインローズは香りを辿ってゆっくりと進んでゆく。
その背を追いかけるようにリーンフェルトもまたのんびりと歩き出した。
大通りに面した店先や民家には、住民が手入れしているのだろう花々が色取り取りに咲き誇っている。
「この国は本当に花に囲まれていて、美しいですね」
「んん、そうか? 俺には見せたくない物に蓋をしている様にしか見えねぇがな」
周りを気にする様子もなくそんな事を口にする。
「またそういう言い方をする。いけませんよカインさん」
そんな彼を注意しながら、頭の片隅で恐らくアンリが居たならば即刻口から泥が溢れ返っている事だろうと考える。
一方、泥で口を塞がれないカインローズは言葉を続ける。
「確かに観光で来る分にはそれで終わりだからな。それでいいかもしれない。そもそもグランヘレネに観光しに来る奴なんてのは、相当な変わり者だろうがな」
「それをカインさんが言いますか……」
自分も武者修行と称してこの地へ来ていたではないかと、半ば呆れた声が出てしまう。
しかし、彼の言動はその呆れを吹き飛ばす威力を持っていた。
「そこはなアシュタリアから割と安価で来れるんだよここ。密輸船だけど」
「密輸船でってカインさんそれは犯罪ですよ」
今回の訪問もそうだが、他国に入る為にはそれなりの手続きがいる。
大概は玄関口である港街にそういう施設があるものだ。
勿論リーンフェルトの実家があるクリノクロアにも入国審査を行っている場所が存在する。
例外的なのは飛竜などで空から目的の国へ入る場合だ。
本来の手続きをするのであれば、入国審査へ期間と入国方法などを明記した上で提出するのが一般的である。
ことアル・マナクの護衛任務関連は本部の事務方が一手に担っている為、自身での手続きがない。
「まぁよ。そこは仕方が無かったんだよ。丁度手持ちが足りなくてな」
リーンフェルトは辺りを気にしないで奔放な発言をするカインローズを思わず引っ叩きたくなるのをぐっと堪えて、ひそひそと彼に質問をする。
「なぜちゃんとお金を貯めてから、行動しないのですか」
「当時の俺にも色々事情ってもんがあったんだよ、おっここだな」
立ち止まったカインローズが指さす方に顔を向けた彼女は看板へと視線を向ける。
「ミエル・ベニェ……ですか」
「名前の由来は良く分からんが、美味そうな匂いがするドーナツ屋だって事は事実だぜ」
見れば長蛇の列が店の路地裏の方まで伸びており、店員が最後尾はこちらと看板まで掲げている。
「凄いですねこのお店……美味しいのでしょうねきっと」
「ああ、味は保証するぜ。特にルクマデスは中毒になる」
何かを思い出したように、カインローズが声を漏らす。
「そんなに美味しいのですか?」
質問に黙って一つ頷いたカインローズは徐に話し始める。
「その昔冒険者だった奴が引退してな。ちゃんと金も貯めていて引退したのに、数か月後にはまた冒険者に復帰してたよ。なんでもここのドーナツを破産寸前まで食ったらしい」
思わず引いてしまったリーンフェルトは、普段は出さないような声をあげて驚く。
「うわ……そんなことが……。本当は何か危ない物が入っていたりとかではないのですよね?」
「そりゃなぁ。食ってみりゃわかるんだが……また食いたくなるって表現が適切でな。中毒ってのはまぁ悪い表現だとは思うぜ。だがよ……ドーナツ破産はなにもそいつだけじゃないってところがこの話の本当に怖い所でな」
えらく真顔でそう話す彼の話は誇張ではなく、また嘘でもないようである。
ゴクリと生唾を呑んだリーンフェルト、彼に念を押すように聞き返す。
「つまりそんなに美味しいと?」
「ああ、身を滅ぼすくらい美味いってこった」
なんやかんや言ってもリーンフェルトも女の子である。
やはり甘い物はそれなりに好きであるし、美味しい物を食べれば幸せを感じるタイプである。
それはそうと何でも食べそうなカインローズが身を滅ぼさなかったのか気になったので、流れに乗って質問をしてみる。
「カインさんは良く無事でしたね」
「俺は甘い物よりも酒の方が良かったんでな」
尤もらしいというか、妙に腑に落ちてた回答だった為にリーンフェルトは満足げに大きく頷いた。
「なんだか納得してしまいました」
「だろ?」
「本当にカインさんらしい理由ですよね。それは」
「そんなに褒めるな。何も出ないぞ?」
「別に褒めてません。ですがそんなに美味しいのならやはり食べてみたいですね。公務でもない限りグランヘレネには来れないでしょうから」
「おう。んじゃ早速並ぶか……最後尾は……あぁここか」
看板持ちの店員の元へ移動する二人。
「なあ、ここが最後尾か?」
「左様でございます。お客様!」
「だとさ。並ぶか」
元気のいい店員へ確認を終えると、二人は列に並ぶ事となった。
「これ後どれくらいで買えるのでしょうね?」
店先すら見えない列の前方を見ながらぼやくリーンフェルトに反応したのは、最後尾の看板を持っていた店員だった。
「そうですね。大体三十分もあればご案内できるかと思いますよ」
極めて明るい声で回答する彼とは対照的にリーンフェルトは少々トーンが落ちた声を出す。
「三十分ですか……結構待つのですね」
ここで三十分も待つのかどうかを確認しようと、カインローズの方を向こうとした彼女に、店員は間髪入れずに話しかける。
「いえいえ、お客様三十分くらいなら正直運の良い方とお見受けしますよ。普段は二時間が当たり前ですから」
「にっ……二時間もですか?」
いくら美味しいからと言ってもドーナツに二時間は掛かり過ぎではないだろうかと思うのが、表情に出ていたのだろう店員はそれを察して言葉を紡ぐ。
「ええ二時間は当たり前です。というのもまず戦争で軍部の方々がおりません。後はお昼過ぎという事で教会関係の方は昼の礼拝が終ったかどうかと言ったところでしょうか。そのあたりを踏まえて三十分と勝手ながら私の経験則からお答えしました」
確かに普段が二時間なのだから三十分など破格に早い事が分かり、改めてこの店の凄さを実感する。
「本当に人気のあるドーナツなのですね」
「グランヘレネはヘレネ様のおかげで蜂蜜が特産になるほど豊富にあります。お客様は蜂蜜というと何を想像されますか?」
突然にこやかな表情をした店員がそう彼女に質問を投げかける。
「蜂蜜といえば、普通に蜂の蜜の事かと……」
「ふむふむ、お客様はこちらの出身ではございませんね」
どうしてこの質問だけでそう断言できるのだろうか。
気になった彼女は店員に聞き返す。
「どうしてわかったのですか?」
「蜂蜜と一口に言いましても実は豊富に種類がございます。例えばそうですね、一種類の花から取った蜜を厳選して集めるだけでも花の数だけ全く違った蜂蜜が採れるのですよ。レンゲやアカシアと言った物が口当たりも良く美味しいですが、この二つを取ってみても甘味やとろみ加減や色と言ったものまで違いますよ」
そう話す店員にカインローズは補足を入れるべく話に参加してくる。
「蜂蜜に拘ってるのがヘレネに住む者の特徴って訳じゃないが、みんな詳しいぜ。どんだけ蜂に拘りがあるかって言うとだな……この国の国旗なんだが逆十字に蜂と王冠を意匠に使ってるくらいだ。まあ詳しくはアンリの分野かもしれねぇが蜂と女神様には密接な関係があるんだそうだ」
そう補足したカインローズに店員は営業スマイルを浮かべたまま話しかける。
「そちらの方はこちらの事情に詳しい様子ですね」
「ああ、昔ここらで冒険者やってたことがあってな。まっ聞きかじりって奴だ」
「またまた……ご謙遜を。しかし冒険者をされていたと」
「ああ良く、郊外のアンデッド共を討伐に行ったもんさ」
「お一人でですか?」
「ああ、一人の事が多かったかな」
「なるほど、とても中々腕の立つ冒険者だったんですねって……すっかり話し込んでしまいました」
気が付けば二人の後ろにもそこそこの列が出来始めている。
「では私は仕事に戻りますよ。旅の方お会いできて良かった。当店のドーナツを旅の土産にお持ち帰りください」
そういうと看板を持った店員は二人の後ろに続く列の最後を目指して行ってしまった。
「なんだか人懐っこい人でしたね」
「そうだな。ここらじゃ珍しいタイプだよ、外の連中と知って話しかけてくるなんざな。これでサエスからの旅人だったら命の危険すらあるってのにな」
「そもそもサエスからはこちらに来ないと思いますけど……」
「何事にも例外ってのはいるんだが?」
「……あの子達は本当に大丈夫でしょうか……?」
「そりゃ俺でも分からんが……まっ、大丈夫だろうよ。辺りを見る限り兵士が慌ただしくしている様子はないからな」
カインローズの言葉に一つ頷いて、シャルロットの事を考える。
出来れば危ない事に首を突っ込まずにいて欲しいと願うリーンフェルトであった。