76 男の名
一連の顛末を黙って見ている事にしたカインローズは、空中に呆然としているリーンフェルトの隣に移動する。
「行っちまったな」
そう声を掛けたカインローズに彼女は、消え入りそうな声で答えた。
「はい……」
そんな彼女に上官として、質問しなければならない事に少々心苦しさを感じながら問いかける。
「なぜ戦いを仕掛けた。俺達の任務はサエスでの筈だが?」
「すみません……つい感情的になってしまいました」
状況は見ていたので情状酌量の余地はある。
因縁の相手を前に感情的になる。
探していた妹が目の前にいる。
どちらを取ったにしろ感情的になる事は理解できる。
――想像の範囲内。
カインローズは想定される範囲での出来事で合った為に、気が抜けていた。
そんな事情からまだ上層にしか報告してない情報をぼやいてしまう。
「まあジェイドの奴がこんな所に居た事に俺は驚いているがね」
ジェイドとは誰の事か?
徐々にショックから立ち直ろうとする思考が、突然突っ込まれた情報を処理できずリーンフェルトはオウム返しに聞き返してしまう。
「ジェイド?」
口走った情報をリーンフェルトに伝えていなかった事を思い出したカインローズは、一瞬焦った表情を浮かべたが直ぐに恍けた様に持ち直し会話を続ける。
「ああ、言ってなかったか? あの髪の長い男の名前だよ。ジェイド・アイスフォーゲル、それが奴の名前だ」
「ジェイド・アイスフォーゲル……」
「のう、なぜ主殿はそれを知らされていなんだか?」
リーンフェルトよりも早くシャハルが疑問を呈す。
そこに若干の不信感が感じられる。
ぬいぐるみの様な爬虫類にねめつけられたカインローズは、居た堪れなくなりながらも弁明を開始する。
「ん? ああ、報告はしたんだぜ。ただ書類になる前にこっちに出向いて来ちまってな」
そう苦笑してリーンフェルトの目を見つめ返す。
そこに嘘偽りがないと説得する為だ。
尤も、本部への書類提出が成されたのはサエスから帰って暫しの休暇があった頃の話である。
それが遅れたのは、カインローズ的に色々と配慮をして報告しようとして悩んだ挙句文字に起こすのに時間がかかった為だ。
彼の書類作成能力は皆無に等しい。
ほぼ時系列を羅列で書き、ちょっと伏せておきたい事情の物を隠蔽しつつ作成されている。
ちなみに隠蔽対象はエストリアルの高級料理店の寝入ってから顛末である。
しかしカインローズが例え隠蔽しようとも、リナとリーンフェルトの報告書でその部分が補完されておりアル・マナク内には筒抜けとなっている。
その点について彼は知る由もない。
「知ってるなら直接教えてくれても良かったのではないですか? カインさん」
「そうさな。教えてやっても良かったが、名前を知った所でお前の今回の対応は変わらなかっただろうよ」
精々ジェイドの呼び方が貴様から名前に変わる程度だろう。
図星を指されたリーンフェルトはもやもやする気持ちをカインローズにぶつける。
「確かに……そうかもしれませんが、しかし!」
「しかしもへったくれもねぇよリン。話してみてからだって遅くはなかったはずだ。去り際の嬢ちゃんの顔見たか?」
珍しくピシャリと言い返した彼の言葉に、リーンフェルトはシュンとなる。
「はい……」
「あの目は肉親に向けるような目じゃねぇぞ。戦場で、目の前で親を殺された餓鬼のような目だ。それだけ嬢ちゃんにとって今のお前とジェイドでは距離が違うんだろうよ」
悔しそうに顔を歪めるリーンフェルトは、年齢よりもかなり幼い子供の様に言葉を続けようとするがその先が出てこない。
「でもっ……でも!」
珍しく感情が表に出て来ている彼女に、カインローズは困ったような表情をして左手で髪の毛をガシガシ掻くとその手をそのまま伸ばす。
「ああ、まぁなんだ少し頭を冷やせ。いいな!」
リーンフェルトの髪をぐちゃぐちゃと撫でるとカインローズは先行して飛び始める。
「主殿。あやつが言った事など気にせずに妹殿を追うべきではないかね?」
シャハルはカインローズの命令を無視して追う事を提案するが、リーンフェルトは左右に首を振った。
「いえ……大丈夫です……今のあの子と何か話せる自信がありません……」
「ふむ、まあそれは主殿が決める事じゃな。差し出がましい事をしたわい。それと一つ吾輩から主殿に忠告がある。先程吸収した魔法の事じゃ」
「吸収した魔法……ですか?」
「そうじゃ。正直、今の主殿の体には先程の魔法は負担が掛かり過ぎてる故、出来るだけ早く放出する事を勧めるぞ」
「大丈夫です。これをサエスで吐き出せば戦争もケリが付きますよ……」
体内を駆け巡る魔力が嵐の日の波の様に荒々しく渦巻き、今にも爆発しそうになるのを抑えつけてリーンフェルトはカインローズの後を追う。
何とかカインローズの隣まで飛んできたリーンフェルトであったが、魔力過多の体が悲鳴を上げる。
必死に歯を食いしばって耐える。
脂汗が全身から噴き出て、髪や衣服が肌にベタリと張り付く不快感が魔力過多で気分が悪い所に拍車を掛ける。
「リン、お前顔色が悪いぞ。無理していないか?」
「いえ……大丈夫です。先程取り込んだ魔力が体内で馴染めず暴走しているだけです」
「おい、爬虫類。リンの体は今どうなってるんだ?」
「吾輩も先程忠告したわ。常人とは違う魔力じゃ、さっさと吐き出してしまえとな」
「だったら早く出しちまえよ。その方が楽なはずだぜ。なんで吐き出さないんだ?」
リーンフェルトは体内に取り込んだ魔法をなぜ吐き出さないのか。
疑問に思うカインローズの耳に彼女から物騒な回答が告げられる。
「この魔力の放出をサエスで行おうと思うのですが……それさえ出来れば戦争を終わらせる事が出来るはずです……」
どうしてこう彼女は真面目なのだろうか。
もっと気を抜いて生きても良いだろうに。
それに命令を根本的に勘違いしている辺り、頭が固いにも程がある。
カインローズは一度大きく息を吸い、深く吐き出す。
空っぽの肺を満たすように空気が目いっぱい充填されると、その勢いのままに一気に彼女を捲し立てる。
「良く聞けリン。いやリーンフェルト七席。我々の目的はあくまで参戦だが、積極的介入ではない。この意味が分かるか? 戦争なんぞに手を出すなという命令だ。形だけの出陣なんだぞ! それを戦場でぶちまけてみろ、きっととんでもない事になるぞ」
「ではどこでこれを吐き出せば良いのですか!」
悲鳴じみた声で叫ぶ彼女を向かってカインローズは真下を指差しながら言い放つ。
「今ここでやれ。ちょうど海の上だ問題ないだろ」
「主殿! さあ海にめがけて魔力を放つのじゃ!」
「うっ……グッ…うわぁぁぁぁぁ!」
左手を海面に向けて突き出すとそこからジェイドの放った魔法が吐き出され始める。
その噴き出る魔力が膨大である為かリーンフェルトを中心に大気が揺れ動き、眼下に広がる海面は魔法の直撃を受けて大きく抉られている。
そこに海水が戻ろうとして無数の渦を形成するに至っている。
あんな所に落ちれば命の危険さえあるのだが、リーンフェルトの体はフラフラとしており体制が整わない。
「チッ、この爬虫類め! ちゃんと制御方法を教えたんだろうな? リン、気を確かに持て! 今気を失えばその魔力は制御を失う!」
そう叫んだのも束の間。
膨大な魔力の放出にリーンフェルトの体が激しく揺さぶられ、その衝撃で海面に向かって吹き飛ばされる。
「きゃあああああああ!」
悲鳴を上げて落下する彼女はもはや自力では飛べない程、自身の魔力制御を失っているようだ。
左手から放出するという制御すら失った彼女は、全身からその魔力を放出している状態であり触れればダメージを負う事になりそうだ。
さらに自身が生み出した渦めがけて落ちてゆく弟子の姿に、彼は腹を括る。
「ったく! ああもう、しゃあねぇな!」
カインローズは彼女を支えるべく背後からその体を支える。
しかし彼女の全身から放たれる魔力が少なからずカインローズの体力と魔力を削り取ってゆく。
「……爬虫類っ、なんとかならねぇのかよこれは!」
「あと少しじゃよ! それと吾輩を爬虫類などと呼ぶな半獣人め!」
「ぐおっ……なん……て魔力だっ……こっちの魔法まで……ゴリゴリ削りやがって!」
全身に風魔法を纏うカインローズではあるが、吹き出す魔力とぶつかり合い徐々に風魔法の結界が剥がれてゆく。
剥がれた先から補うように魔法を展開するが、まったく追いつかない。
「ぐっ……ぐぉぉぉぉ!」
獣が上げる咆哮の様に声を張り上げて風魔法を展開したカインローズは、抱きかかえたリーンフェルトと共になんとか空中へと上がる。
未だに抱えているリーンフェルトの体からは先ほどの勢いは無いにせよ、ジェイドの魔力を放出し続けている。
吸収したのは風と土の魔力だったはずだ。
吐き出される二つの魔力、特に風の魔力はカインローズ自身の魔力とかち合い上手く制御出来ない。
土の魔力は小さいながらも鋭利な硝子片の様な物が、風に煽られて舞い上がっている。
リーンフェルトは既に意識を失っている為、コントロールされていない魔法がカインローズの腕や身に着けている服を切り裂いてゆく。
「おい、リン! しっかりしろ!」
声を掛けるも反応がない事で選択肢は絞られてくる。
「爬虫類この魔力を何とかしろ!」
「ふむ、緊急事態ゆえな。主殿少々体を借りるぞ」
そう言って目を輝かせたシャハルの体が徐々に霧散してゆく。
カインローズに抱きかかえられたリーンフェルトの体が一瞬ビクリと跳ねると、赤く光る目を見開いて意識を取り戻す。
と言ってもこれはシャハルの方が乗っ取っているような状態だ。
「ふむ……主殿は気絶。外傷はほとんどないな。後は……」
徐に伸ばした左手を再び海面に向けると魔法を放つ。
先程とは比べ物にならない衝撃に全身浅い傷を作り血の滲むカインローズはなんとか空中でその勢いを殺し切る事に成功する。
「おい、爬虫類! ぶっ放す前に一言言えよ!」
文句を言うカインローズに、赤い目が光るリーンフェルトの口を動かす。
「うむ。済まぬ済まぬ、緊急じゃったのでな」
確かに姿はリーンフェルトなのだが、シャハルの渋い声なので違和感は半端ではない。
「ったく俺じゃなかったら、渦巻く海にドボンだぜ?」
「その時は吾輩が主殿を助ける予定じゃったわい」
「ほう……では俺は黙って見ているべきだったか?」
「いや、そんな事はないのじゃ。あくまでこれは緊急の手段に過ぎぬのでな。さてそろそろ限界の様じゃ主殿の体を返す。この後はどうするのじゃ?」
一寸の間があってからカインローズはその問いに答える。
「ああ、一端グランヘレネ側に戻るつもりだ」
「ふむ……それがよかろう。ではな」
そう言うとシャハルの気配が完全にリーンフェルトから失われ、ぐったりとした彼女の重みだけがカインローズの腕に残った。
「全く……」
そうぼやくと元来た方角へ向かってカインローズは飛行を開始したのだった。