65 振り下ろされた剣
アンリの食事の手配をお願いした兵士が、取手のある箱状の物を持ってリーンフェルトの元に帰ってきた。
中は二段に仕切られており、一段ずつトレイが入っていて配給の食事がこじんまりと配置されている。
先に戦争が発動された事を受けて、戦時配給へと食事がシフトされていたようだ。
焼き固められた拳大のライ麦パンと少々のドライフルーツとカップに一杯のワインが二人分手渡される。
先のアルガス王家との戦争でもそうだったが、戦時中の食事で贅沢が出来るのは極々一部だろう。
二人分持ってきてくれたのは、その兵士の気遣いによるものだ。
「ヘレネ様のお恵みに感謝を」
そう言い残して兵士は去っていく。
さて取手付きの箱を手渡されたリーンフェルトは再び白亜の建物に入る。
赤の間は先程よりも魔力のざわめきが大きい気がする。
それに一抹の不安を感じた彼女は足早にそこを通り過ぎ奥へと至る道を下って行く。
あの胸騒ぎはなんだったのだろう。
リーンフェルトはそれも含めてアンリに確認するべく、歩を進める。
「アンリさん、食事をお持ちしました」
そう言って手に持った箱を目線の高さまで持ち上げて見せる。
「意外と早かったですね」
「ええ、先の教皇様の宣言後は戦時配給へと切り替わったようです」
「ああ、そういう事ですか。それは残念だね。グランヘレネ産の蜂蜜がたっぷり使われたケーキなど楽しみにしていたのですが」
「蜂蜜を使ったケーキですか?」
「ええ、蜂蜜が豊富に取れるこの地だから出来る贅沢と言いますか、この土地でなければきっと生まれなかったお菓子でしょうね」
確かに甘味は贅沢品ではある。
魔力を扱う者にとって甘味は手早く取れる回復薬のような物だ。
「私も数度しか食べた事がないのですが、蜂蜜をクッキー生地に練り込みましてね。薄く伸ばして焼き、サワークリームを挟み込みながら積上げて行くのです。これだけで既に酸味と甘味の絶妙なコントラストなのですが、そこにココアグレースをふんだんに塗り付けて、砕いたナッツを振り掛けるのです」
やたら詳しく説明するアンリに若干気圧されつつも、リーンフェルトはそのケーキに興味を持った。
「アンリさんも甘い物が好きだったのですね。私も出来たらそれを食べてみたいです」
「それはもう、魔法使いの端くれなれば甘味はいくらあっても足りませんよ。もし時間が出来たならば私が作って差し上げますよ。あれは実家の母の得意料理でしたからね」
そんな話をしつつ持ってきた食事をアンリへと渡すと、あからさまにがっかりしたようで声のトーンが一段と低くなった。
「ああ、やはり戦時配給などどこも大して変わりませんね」
癖のあるライ麦パンに少々しかめっ面をしたアンリが二口程度で頬張り、ワインでそれを胃に流し込んだ後口直しとばかりにドライフルーツを味わうように咀嚼してる。
量が少ない事もあるが、どうやらアンリはライ麦パンはあまり好きではないようだ。
そんな彼の表情を視界に収めつつリーンフェルトもまたライ麦パンを千切って一口大にすると口に含んだ。
やはり慣れない独特の風味に眉を顰めるが、これしか食べる物もないので我慢して口を動かし呑み込む。
「それはそうですよ。長期保存に耐えうる食材でなければいけませんし、戦争がどの程度続くのかは計算されているのでしょうけど、実際は長引く事が多いですし」
「まあそうだね。我々のような戦力がなければ、恐らく長引くだろう。今回のサエス侵攻に関して言えばまず間違いなくサエスは滅ぶだろうね」
サエスが滅ぶという言葉にやはり胸が痛む。
つい先日までその土地に居たのだ。
知り合って友誼を結んだ者もいる。
彼等の無事を祈る以外には何もできないのだ。
「そうですね……あの水害の後に地震と武力ですから……余程の事がない限り覆す事は不可能でしょう」
「手元にある情報だけで判断するならばそうなるだろう。そうだリン君、カインの報告にあったが妹が見つかったそうだね」
その言葉に一瞬目を伏せるが、直ぐに顔を上げたリーンフェルトはアンリの問いに答える。
「はい、恐らく今もサエスにいると思われます」
「彼女が心配ではないのかね?」
――勿論心配に決まっている。
だが戦争など自分一人ではどうしようもないレベルの話である。
願わくば無事でいて欲しい。
一人の姉として切に願う思いは、少々声色に漏れてしまっている。
「それは……とても心配ですが私には任務がありますし……」
「ならばグランヘレネ側にアル・マナクからの観戦武官としてサエスに行けるように手配しよう。もしも捕虜等になっていれば交渉の余地もあるだろう」
次席権限だろう。
任務とあればそれを遂行するのが兵隊の役目だ。
しかしこれはアンリの厚意による物であり、命令ではない事に戸惑いを覚える。
「完全に私情が入ってしまっていますが、よろしいのでしょうか?」
そう口にしたリーンフェルトにアンリは笑って返事をする。
「別に問題ないでしょう。こちらはセプテントリオンとしてその戦力と地位を証明出来ますし。そもそも我らの組織は自衛の戦力こそ保持してますが戦争屋ではありません。本来戦争などとは無関係……に行きたいのですがそれは難しいのが実情でしょうか。こんなことでシュルクの数を減らし進化を遅らせる事こそが愚かな事なのです」
「確かに争い事は絶えませんね。でもアンリさん。もし戦争がないのであればセプテントリオンの存続意義がなくなるような気がするのですが」
「別になくなってしまっても良いと私は思ってますよ。ある意味アウグストの身の安全が確保されていて研究の妨げにならない事が一番の理想でしょう。ただそれだけオリクトという物がヘリオドールに依存した世界に対して挑戦的な物であるかを考慮すれば、自ずと国と渡り合える程の戦力が必要になってしまった。そういう事です」
確かにオリクトの影響はシュルクの生活圏を、文化レベルを一つ押し上げた事だろう。
それはリーンフェルト自身も感じる事の出来る進化に他ならない。
「オリクトがあればヘリオドールの恩恵外の土地でも生きていけますし、便利な物が急速に普及し始めたりしていますし良い事のはずなのですが……」
「既得権益のある王家などには、やはり我慢できる物ではありませんでしたね。王族の存在意義がなくなる様なものですからね」
王族たちは神々から与えられた恩恵の守護者。
ヘリオドールの管理継承こそが王族の正統性であったはずだが、いつしか形骸化していたのだ。
管理を怠り、自分達の良いように恩恵を使用するのであれば一部の者達しか繁栄しない。
それでもヘリオドールしかないのであれば、その力を使える王家がどれほど利己的に走ったとしても認めるしかない。
しかしオリクトの出現はその前提を覆す物である。
「私は王家派から捕虜となってアル・マナク側につく事になりましたが、もしもを考えると怖いですね」
あの時カインローズが助けてくれなければ、今も王家派として生きていたに違いない。
「ははは、でもリン君は反王家だと皆が思っていたと思いますけれども」
思い当たるのはマルチェロとのお見合いの事であり、リーンフェルトにとって思い出したくもない黒歴史である。
「あれは完全に若気の至りです。もう勘弁してください」
「あの話をカインが持って来た時に大いに笑わせて頂きましたとも」
「アンリさんも意外と意地悪なのですね」
頬を膨らませて怒るリーンフェルトに、アンリはやはり笑ってしまうのだった。
暫く雑談をしながら食事し終えたアンリは再び魔法陣のメンテナンスに入り、リーンフェルトが補佐をする。
二人掛かりであれば掛かる時間は短縮される。
程なくしてメンテナンスが終われば、リーンフェルトが教皇への報告を行うべく走る事になった。
「申し訳ありませんが、教皇様に報告する前にカインにこれを与えてもう一度、大陸の端まで様子を見に行くように言ってください」
そう言って手渡れた物は飴玉の入った包みである。
「別に子供の駄賃ではありませんよ。魔力の補給用です」
「分かっています。それではカインさんにはそうお願いしておきます」
そう言い残して駆け出したリーンフェルトは、まず建物から出るとカインローズを探すべく辺りを見渡す。
大の字で大地に寝転がっているカインローズを発見すると小走り気味に近寄る。
「カインさん! アンリさんからこれを」
「んあ? 飴玉かよ」
「はい。それともう一度大陸の端まで見て来て欲しいそうです」
「だよな……アンリがただで飴なんてくれる訳ねぇんだよ……クソ怠いがもう一丁行ってみるか!」
そう言って受け取った飴玉を口の中に放り込み、ガリッっと音がしたかと思うとカインローズの周りに風が生まれる。
それが徐々に荒々しくなってくると彼はふわりと浮きあがる。
「んじゃ行ってくるわ」
「はい。行ってらっしゃい」
挨拶もそこそこに今度こそ空高く舞い上がったカインローズは、再び西の端を目指して飛び去って行った。
後に残るは教皇への報告だけである。
その足で大聖堂へと向かい、バタバタと動き回っている将校を捕まえると教皇への取り次ぎを依頼する。
暫くしてその将校の案内の下、教皇の執務室へと通される。
中に通されたリーンフェルトは片膝を着いて、教皇へ報告をする。
「失礼致します。教皇様、大地の剣のメンテナンスが終了致しました」
「そうか終わったか! しかし後一撃しか打てぬのか……本当に残念じゃが仕方がない。信徒の移動を開始させよ」
執務室に控えていた兵士が命令と共に慌ただしく動き出す。
年齢に似合わないバイタリティーは野心の為か、信仰の賜物か。
教皇の目にギラギラとした物をリーンフェルトは感じた。
三度目ともなると白亜の建物への移動は大変スムーズだった。
建物の前で既に三千人を超える信徒達が祈りながら待機していたのだから、初動の様に生贄を掻き集める事すら必要ない。
ぞろぞろと続くシュルク達がすっかり白亜に呑み込まれるのに、それほどの時間は要さなかった。
「準備が完了致しました」
兵士が教皇にその報告を終えれば後は発動を命令するだけである。
「大いなるヘレネの民達よ。我らが神の御業をしかと焼き付けよ! 憎きリーヴェを切り裂き我らに更なる加護と栄光を!」
そうして合図が送られると伝令役となっているリーンフェルトは建物へと入る。
シュルクが整然と並びヘレネへの祈りの言葉を口遊んでいる。
「我らの偉大なる母よ、その御心に抱かれた我らに祝福を。御心のままに……神敵を滅ぼし母なる慈愛とご威光を大地に満たしましょう」
建物の中で三千にも及ぶシュルク達がそれを発するのだから、余程敬虔な信徒なのだろう。
リーンフェルトはそれを余所にアンリの下へと走る。
「アンリさん、号令が掛かりました。お願いします」
アンリは静かに頷くと儀式用の杖を魔法陣に突き立て自身の魔力を流し込んでゆく。
魔法陣が真紅に色を変えれば、微かに聞こえていたヘレネへの祈りの言葉が途絶える。
真紅の魔法陣をアンリが突き立てた杖で二度叩くと、甲高い音とまばゆい白を伴って明滅を始める。
儀式を見ていたリーンフェルトも遂に目を開けてはいられず目を瞑ってしまう。
甲高い音が止まり激しい光も感じられなくなったので、目を開けてみると片膝を着き髪を乱し汗まみれになっているアンリが見えた。
「アンリさん!」
「見ていなさい。これが古代魔法による魔法の発動です」
そうして何かを唱えたアンリはもう一度杖を突き立てると魔法陣が黄金に輝く。
刹那、強烈な縦揺れと共に大地の剣が発動したようだ。
これでサエスは壊滅的なダメージを追う事になるだろう。
覚悟はしていたが、やはり気は重く暗い気持ちが鎌首をもたげる。
チリチリと感じる心の痛みに耐えるようにリーンフェルトはそっと目を閉じ、刈り取られた魂とこれから消えゆく魂の為に暫し祈った。