29 使者
「ふごぉぉぉぉ……ぐごぉぉぉぉ……」
その頃カインローズは部屋で大きないびきをかいていた。
昨日の食事時も唯一浴衣を着ず普段着だった男は、着替えもせず当然温泉にも入らず部屋中に酒の匂いを充満させ布団からはみ出して寝ていた。
そんなだらしない姿を見下ろす人影は呆れ声を漏らす。
「はぁ…全くこのオッサンは……」
そう呟いた人影からは女性の声がした。
耳の良いカインローズは半分気配を感じ取るも二日酔いのダルさから、思考が放棄しかけており女の侵入者に警戒すらしていない。
その侵入者は別に殺気立ってはいないので殺される事はないと思うのだが、はてどうしたものか。女性を連れ込んだ記憶がない。
狸寝入りをしつつ、連れ込むタイミングなどなかったと自分に言い聞かせ、思い出せる範囲で昨日の記憶を手繰る。
確か昨日は宿の食堂でヤケ酒を煽り、飲み食いしていたはずだ。しかしここは宿の中の部屋である。
と言う事はリーンフェルト達が運んでくれたか、旅館の人が運んでくれたのかどちらかだろう。
それはそれとして、この状況を連中に見られたら一体何を言われるものか。
正直そちらの方が気になるカインローズである。
起きがけの、まだ眠気が残る脳味噌をフル回転させようとするが、酒が残っているせいか頭痛が邪魔して上手く纏まらない。
そんな中、二日酔いでガンガンする頭に非情にも女性の怒号が響く。
「私の存在に気がついてますわよね?いい加減起きやがりませ!!」
ゲシッ!!
そう叫んだ女性の踵がカインローズの脇腹に綺麗に決まる。
ちなみにこの女性が履いているのはピンヒールである。鋭角を持った踵が脇腹に刺さると、カインローズはおかしな悲鳴を上げて跳ね起きた。
「ふぐぁ!?」
「早く起きてくださいませ?」
女性の声は聞き覚えがある気はするのだが、誰だったかは思い出せない。
それとは別にヒールが脇腹に刺さった事を今は猛抗議するべきだろう。
文句の一つも言ってやらねばと、カインローズは鬼の形相で怒鳴り散らす。
「ったく…なんて起こし方しやがんだ!!」
カインローズは蹴られた脇腹をさすりながら視線を上げる事で、やっと女性を視界に入れることが出来た。
見覚えのある顔と視線が合えばその女性はこちらを向いて微笑むのだが、カインローズはさっと目を逸らすとがっかりした声で呟く。
「リナか…そりゃあいつらの起こし方じゃないわな……」
カインローズにリナと呼ばれた女性は端正な顔立ちに眼鏡を掛け、肩口まで伸びる三つ編みのおさげを左右に作りつつ、頭にホワイトプリム。
エプロンドレス服に身を包み、黒のタイツの先に何故か赤いピンヒールという出で立ちでそこに立っていた。
リナはカインローズに挨拶とばかりに一礼して、エプロンドレスの両端を摘まんでみせる。
俗にいうメイドの姿をしたリナ・パイロクスは、その容姿と相まって実に似合っている。
似合っているのだがしかし、カインローズはリナであるという一点において非常に残念な気持ちになる。
所謂、メイド服に興味がないわけではない。
ただただ面倒な奴が来たなと溜息を吐く。
「ああ、そういうめんどくさいのは良いんだ。どうせなんちゃってメイドだしな。要件はなんだ要件は?大体なんで赤いピンヒールなんて履いてやがる!それ、絶対メイドじゃないだろ!!」
カインローズのツッコミにリナはきょとんとした表情のまま、首を傾げてみせる。
「このヒールはお仕置き用でございましょうね。嬉しかったですか?」
「違う!そうじゃない!つまりあれか?蹴飛ばす用にわざわざ持ってきたのかよ!?」
「その通りでございます。酒臭いオッサンを白魚のような指を持つ私が触ったら加齢臭が付いてしまいますし」
「加齢臭が出る程歳取っちゃねぇよ!!」
しかしリナは鼻で笑うと、口元に右手を添えて蔑むような目でカインローズを見据える。
「そういう物は自分では気がつかない物ですわ。それよりずっと私の気配に気がついておりましたよね?」
「誰かまでは判別はつかなかったが、殺気はなかったからな」
「隣でいつ眼が覚めても良いように二時間ほど添い寝しながら見つめていましたのに、目も開けなかったから蹴とばしたのですよ」
「気持ち悪いな!ったく二時間も何してんだよ……」
カインローズは心底嫌そう顔をして、一つ大きな溜息を吐くと真面目な声でリナに話し掛けた。
「それで?わざわざ六席殿が来るとは余程の事か?」
仕事モードにスイッチしたカインローズは落ち着いた風の声色でリナに話しかける。
「四席が任務に失敗した挙句、ふざけた報告書を送って来るからでございますよ」
「そうか?」
「そうですとも。任務に失敗した。疲れたから温泉に入って帰るわ。こちらの報告書の方がどうかしておりますわよ。ぶっちゃけ頭の中を疑います」
どうやらカインローズが送った報告書について本部から文句が出たようだ。
「あれおかしいな…アトロにちゃんと清書して貰ったはずだが?」
「はい。アトロさんの字でそう書いてありましてよ。ちゃんと清書されておりましたからアトロさんは任務を全うしておりますよ」
「ああ…そうつもりじゃなかったんだがなぁ……」
「詳細を報告しておいてくれ、で良かったのではありませんか?」
「あんときゃ言葉を間違える程、気が動転してたんだからしゃあないだろう」
頭を掻いて、笑って誤魔化そうとするがリナは騙される訳もなく、苦しい言い訳をするカインローズにリナは容赦ないツッコミを入れる。
「動転してる奴が、疲れたから温泉に入って帰るわとか、絶対に言いやがりませんよね?」
「まあ、そうだろうな。さてそろそろ冗談はこれくらいにして本題に入ろう。何かあったか?」
「大ありですわね。サエスのお取引先がカンカンですのよ。分かってらっしゃるかしら?」
「そりゃそうだろうな。かれこれ二回分納品が遅れりゃなぁ……」
「と言うわけで四席。責任者らしく謝ってきて下さい!!」
ビシッとカインローズを指差したリナであったが、カインローズは指差される事を嫌い、持ち前の素早さを活かして躱してしまう。
「躱すんじゃありませんわよアホ四席!」
「いやいや俺みたいな奴が行っても駄目だろう。リナ、お前行ってくりゃ良いじゃねぇか!」
「は?馬鹿ですの?責任だなんだとこじつけた理由で私が汚されたらどうなさるおつもりですか!」
突然下ネタを織り交ぜて非難してくるリナに、カインローズは一切の動揺を見せず淡々と切り返す。
「いや……お前なら全員薙ぎ払って帰って来れるだろうが」
腐ってもアル・マナク六席。
つまりリーンフェルトよりも実力が上であり、魔法よりも体術を得意とする戦闘スタイルの持ち主である事をカインローズは知っている。
だからこそリナの体について、カインローズは全く心配していない。
むしろ襲えば返り討ちの上、生きていたくないと思える程の趣味の悪い目にあわされるのだろうなと想像して苦笑する。
「四席、そう言う問題ではないのです。絶対に私の貞操の方が大事ですから。あとこんな可憐な少女に難題を押し付けるオッサンは死ねば良いと思います。この人でなし!」
「おいおい死ねばいいとか、そこまで酷い事を言うのなら、本当に謝るのはお前に行かせるぞ。なにせ俺は人でなしだからな。責任なんぞ部下に押し付けて俺達は近日中に帰還だぜ」
「おーい。人の話を聞いてやがりましたか?私の貞操の危機ですのよ?」
「お前の話など聞かん!だいたい誰もお前をそんな目で見ていないぞ自意識過剰女め!」
「きぃぃぃ!!言わせておけば、このヘッポコダメオッサンめ!絶対いつか毒を盛ってやるでございますわ!」
「はっはっは、俺が毒くらいで倒せるものかよ。さて小腹も空いて来たし飯でも食ってるか」
カインローズはそう言うと素早く廊下に飛び出て駆け出した。
「あっ!逃げるな!このっバカインローズ!!」
リナは後を追うように部屋から飛び出す。
廊下を走るカインローズとリナだったが、その追いかけっこは一瞬で終わりを迎える。
「お前ら廊下を走るんじゃねぇ!!」
凄まじい怒号で硬直するカインローズとリナは、宿の番頭に首根っこを捕えられる。
「ぐっ!」
「ひゃう!」
「おう。お前らうちの宿で走り回るたぁ良い度胸してるな」
番頭は番頭らしからぬ尋常ではない殺気を放っており、本能が危険だと訴えてくる。
「そのなんだ…すみませんでした」
「ごめんなさいですわ……」
咄嗟に謝罪して事なきを得ようとするが、番頭の怒りは収まらない。
「なぁお前ら。客だからと言って謝れば許されると思っちゃいねぇか?」
カインローズとリナは揃って首をぶんぶんと左右に振るが、番頭は聞く耳を持たない。
首根っこを掴まれ、引きずれて来た先は浴場である。
番頭は掃除中と書かれた立て看板を入り口に立てると、二人に向き直った。
「よし、お前ら風呂掃除で勘弁してやる。一時間で仕上げてきな。もし汚れが見つかったら…今度こそ覚悟しとけ?」
手渡されたデッキブラシを握らされた二人は男女別々の風呂を掃除すべく中へ入っていった。
――男湯。
男風呂を任されたカインローズは、腕まくりをすると浴場の端まで寄ると一気にデッキブラシを持って駆けだした。
一時間と言う制約がある。
ちんたらと掃除していたら終わる訳がない。
風魔法で己のスピードを上げたカインローズは縦横無尽に駆け巡り浴場清掃に精を出す。
しかし、魔法が生み出した風によって積んであった木製の桶が床に飛び散り、けたたましい音を響かせる。
その騒音に驚いて飛び込んできたのは番頭だ。
開口一番カインローズは怒鳴られる。
「このドアホ!!真面目に掃除も出来ねぇのか!桶を綺麗に積み上げろ!魔法なんぞ使って掃除なんかするんじゃねぇ!」
女湯にまで声が聞こえていたのだろうリナの笑い声が響く。
「あはは、バカインローズが怒られてやがりますわ」
「うっせぇ!リナお前こそちゃんと掃除してるんだろうな!?」
――カインローズの声が響く先、壁で仕切られた女湯ではリナは風呂の掃除をしていた。
「まったくバカインローズは掃除も出来ないっと……それに比べて私はメイド。掃除くらい朝飯前なのですわ!」
デッキブラシをクルクルと回しながら踊るように掃除を始めたリナであるが、もちろん本職はメイドではなくアル・マナクのセプテントリオンの六席に身を置く者である。
当然だが彼女が趣味でメイドの恰好をしているだけであって、メイドの能力まである訳ではない。
掃除チェックに来た番頭は踊りながら掃除をしているメイドに声を張り上げた。
「こらこの糞メイド!掃除に斑がありすぎて話にならねぇ!!やり直せ!!」
「ええ!?私完璧に軽やかに掃除をしたはずですのに…」
「軽やかだぁ?腰を入れてしっかり掃除しろ!糞メイド!!」
当然だがリナが怒られている声は男湯のカインローズにも聞こえる。
「がははは!掃除も出来ない糞メイドだと。わはははは、くっくく…腹痛ぇ……」
「うっさいですわよ!このバカインローズ!」
壁越しに罵り合う二人を見て番頭は溜息を吐き、頭を抱えた。
「ああ、もういい……お前ら全然使えねぇって事が良く分かった」
カインローズとリナが立ち直った番頭に、浴場から叩き出されたのはそれから少し経っての事だった。