28 夢
自身に当てられた部屋に戻ってくると、床に布団が引かれており驚く。
宿の誰かが用意していったのだろうが、一応とばかりに持ち物のチェックをしてしまうリーンフェルト。
特に荷物が荒らされた様子もない事から安心したので、備え付けの湯のみに緑茶を入れる。
緑茶とはアシュタリア産の緑色のお茶の事である。
独特の渋みの後にふわりと甘みが来るそれは、老舗らしく良い物を使っているようだ。
一息ついた所でリーンフェルトは布団に潜り込む。
羽毛を使った軽く暖かい布団は睡魔を呼び寄せ、容易くリーンフェルトの意識を奪い夢の世界へ誘ってゆく。
眠ったはずのリーンフェルトであったが、暫くしてなぜか視界がはっきりとしてきた。
目の前にはただただ白い世界が広がっていた。
「ここは……夢の中?」
――そう認識出来る夢だ。
辺りは白い靄が掛かっており、濃い霧の中を進んでいるような気にさせられる。
彷徨うようにして進んでゆくと、霧の中に人影を見つける事が出来た。
その人影に向かってリーンフェルトは駆け出すのだが、捕まえられる気がしない。
追いかけては離れてゆく黒い影からだろう、聞き慣れた声がする。
「やっと見つけた……」
しっかりと聞こえたその声はリーンフェルト自身の声だ。
自分自身の声なのだから聞き慣れているのは頷けるが、リーンフェルト自身が見つけたと言った覚えはない。
黒い影はどこかへ誘導するようにリーンフェルトの前を付かず離れず進んでゆく。
夢だと分かっていても思い通りに動く事は出来ない。
ただあの影を追いかけなくてはいけないという衝動だけがリーンフェルトの思考を満たしており、体は勝手に影を追いかけてしまう。
徐々に辺りを包んでいた霧が薄れてくると、影に誘導されて辿り着いた場所が、なかなか広い所である事に気がつく。
「ここは…見覚えが……」
そうリーンフェルトには見覚えがある。
観客こそいないが入れ替え戦の決勝で使われたコロシアムだ。
いつの間にかその舞台へと迷い込んだリーンフェルトは辺りを見回す。
また少し霧が晴れてくると誘うように前を進んでいた影が止まる。
そしてとリーンフェルトの方へ向き直り、その眼が合う。
赤いルビーのような瞳に見つめられると、心臓を鷲掴みにされたような苦しさと痛みが走る。
そして動悸が早くなり嫌な汗が全身から噴き出てくる。
「やっと見つけた……」
先程から影はそれを繰り返し、黒い靄の掛かった顔に表情は窺えないが何となく笑っているような気がする。
「貴方は一体何者なんですか?」
叫ぶように問いかけるリーンフェルトに影は、不明瞭な音で答える。
「私…誰…?私はリーンフェルト……」
「私だと言うのですか!?」
影はリーンフェルトを名乗る。
良く見ればそれはリーンフェルトをそのまま黒く塗りつぶしたかのような形を取っている。
「私…は…リーンフェルト……お前こそ何者だ…?」
この影がリーンフェルトであると言うのならば、ここにいる私は誰なのだろう。
「私は……誰?」
そう呟くと不意に襲ってくる自分を否定する思考と連動するように影が羽虫の群れのように蠢きこびり付いたヘドロのようにリーンフェルトに絡み付き、全ての思考が埋め尽くされ奪われそうになる。
「このままでは影に呑み込まれてしまう……」
リーンフェルトは持てる限りの思考を働かせて何とか自分を肯定するべく試みるが、然し無情にも体にへばり付いた影は重く、足や肩から自由を奪ってゆく。
「もう…ダメかも……」
影に呑まれてゆく思考の中リーンフェルトの心は諦めが支配し、思わず目を瞑ってしまう。
目を瞑ってしまえば何も見えない。
何もかもここで諦めてしまえば楽になる。
そんな思考が満ちて深い谷底に落ちて行くような感覚だ。
――どこまで落ちて行ったのだろう?
もう落ちているのかすらわからない。
ただ落ちている中で思い出した事は今日の出来事だ。
クライブから髪留め用に貰った紺地の織物は白い羽根が織られている美しい物だった。
アトロからはストールだった、自分からはきっと購入しないだろうワインレッドのストールである。
カインローズからは剣だ。それは模造刀だったらしく稽古の最中に折れてしまったが、波紋の美しい剣だった。
思考を乱す物がなくなり、今日皆が気に掛けてくれた事を思いだしリーンフェルトは徐々に落ち着きを取り戻してゆく。
自分は一人ではないのだ。
父と母と妹がいて、アトロ、クライブ、そしてカインローズがいて……。
他にも多くの人がリーンフェルトを支えている事に気がつく。
「私は一人ではない!私こそがリーンフェルト・セラフィスです!紛い物よ消え去りなさい!!」
黒く塗りつぶされそうになったリーンフェルトは閉じた目を見開き、力強い言葉で影を払い除け、自己否定の思考を排除する。
払い除けた影は目の前に禍々しく集まると、今度は突然肥大し白い世界を覆い尽くさんばかりに溢れる。
「ククク…吾輩は消えぬ、消せぬ。不死身故にな」
溢れた膨大な影はいつしか巨大な黒いドラゴンへと変貌を遂げており、その咢はリーンフェルトに向かって開かれ、闇よりもなお深い口と鋭利な歯を見せる。
背に見える翼を広げ、天に向かい咆哮すれば天地を引き裂かんばかりに大地を揺れ動き威嚇してくる。
強大な力、圧倒的な存在感は夢などとは到底思えなく、今にも押し潰されそうになる。
「クッ…ドラゴンだなんて……」
ドラゴンからのプレッシャーにリーンフェルトの体は硬直し、身動きが取れずなす術もない。
「私はリーンフェルト…選ばれた適合者……」
巨大なドラゴンの姿を取ってなおリーンフェルトであると、影は名乗る。
しかしリーンフェルトがそれよりも気になったのは、後の言葉だ。
「適合者?選ばれた……?」
何の適合者なのか?
また誰によって選ばれたのか?
意味深な言葉に困惑するリーンフェルトを余所に、ドラゴンが喉を鳴らして笑う。
「ククク面白い…その内会える…」
二本の捻じれた角と濡れ羽色の鱗に覆われた赤い瞳がリーンフェルトを捉え、鋸のように生え揃ったドラゴンの口元が笑ったような気がする。
そして、大きく口を開くと食い殺さんばかりの勢いを以て襲いかかってくる。
身動きの取れないリーンフェルトはあっけなく……眼前に迫る闇に呑まれて悲鳴を上げる。
「きゃぁぁぁぁああ!!」
と、自身の上げた声で目が覚める。
今の夢は一体なんだったのだろうか?
全身から嫌な汗が噴き出ており衣類が肌にへばり付いて気持ちが悪い。
部屋に備え付けのシャワールームがあったのなら直ぐにでもシャワーを浴びたい気分だが、アシュタリア式のこの宿にはそれがない。
受付まで怠い体を引きずりながら向かうと、宿直当番なのであろうかあの番頭がおり声を掛けてくる。
「なんだこんな夜更けに」
「あのこの時間から温泉は使えますか?」
「ああ、使えるとも。ふん…ちょっと待っておけ。代えの浴衣を用意しよう」
そう言って受付の奥で物を漁る音がしたかと思えば、その手には浴衣とタオルを持って現れた。
「これでいいだろう。持って行け」
「ありがとうございます」
リーンフェルトは代えの浴衣を受け取ると、踵を返して温泉へと続く廊下へと向かった。
廊下はオリクトが使われた間接照明が使われており足元の視界は良好である。
暗い廊下は怖い夢を見たせいか、少々恐怖を感じるが汗を流してしまいたいリーンフェルトは心を決めて進んでゆく。
衣類を脱ぎ、かけ湯をしてと一連の作法として覚えてしまったリーンフェルトは、それを行い湯船に浸かる。
湯船に首まですっかり浸かった状態で先程の夢を考える。
「あれは一体なんだったのでしょうか……?」
ただの夢ならばそれで良いのかもしれない。
しかしあんな奇妙な夢は、何かから干渉がなければ起こりえないのではないかと少々被害妄想気味に考えてしまう。
魔物からの干渉だろうか…しかしそういった類の魔物には遭遇していないと思われる。
では犯人はおそらくあの影もしくはドラゴンといった事も考えられるが、影では誰かは分からずドラゴンなどは現実味すらない。
それになぜ私なのだろうかと角度を変えては考えるが、そもそも心当たりもないので検討もつかない。
悩むだけ無駄なのかもしれない。でも一時になり出すとどうして気になってしまうというのは本人の性分なのだろう。
「一体誰なのでしょうか…私の事を適合者とも呼んでいましたね…何に適合しているというのでしょうか……」
考えた所で到底理解できない。
肌に纏わり付いていた不快感こそ、洗い流せたが気持ちは晴れない。
体が本調子ではないからかもしれない。
この後上手く寝付く事は出来るのだろうか?
「はぁ……」
リーンフェルトは深い溜息を一つ吐くと、のろのろと湯船から上がる。
髪を洗い余分な水気をふき取り、風魔法で髪を乾かす。
さらさらと風に舞う金糸をある程度乾かしたら、新しい浴衣に着替えて部屋へと戻る。
部屋に戻ると布団が整えられており、枕元に小さな小瓶が置かれている。
布団を見れば新しいシーツに取り換えられている。
恐らく番頭の心配りなのだろう。
小瓶を手に取ってみると仄かに花の香りがする香油のようだ。
手に取り少し温めてから、髪に馴染ませるようにつけて、櫛で梳いていく。
しっとりと仕上がった髪に花の香りがして、気分が落ち着いてきた気がする。
香油のお蔭か布団に潜ると、夢を見る事もなく朝まで眠る事が出来た。
起きてまず番頭に布団と香油のお礼を言わなければならない。
受付に行ってみると昨日の番頭は当直を終えていないとの事だった。
仕方なく昨日の謝辞を伝えて欲しいと言づけをお願いして食堂へと向かう。
食堂には通常運行のアトロと顔色の悪いクライブがいた。
「アトロさん、クライブさん。おはようございます」
「ああ、リンさんおはようございます」
「リンさんおはよ…っす……うぅ……」
クライブは昨日の酒がまだ残っているのだろう。
青い顔をしており白湯を少しづつ飲んでいるようだ。
「クライブさん調子悪そうですね」
「完全に二日酔いという奴ですな。クライブも旦那の一気飲み命令など無視しておけば良かったのですよ」
「…うぅ……それが出来るのはアトロさんだけっすよ…リンさんは…酔わないんっすよね……」
「私は魔法がありますからね。ちょっと待って下さい、少し光魔法を掛けてみますね」
動きがぐったりしているクライブの下に歩み寄ると、光魔法をクライブへと掛ける。
クライブは淡く光るリーンフェルトの手を見つめていると、徐々に気持ち悪さが抜けていくような気がした。
「ありがとうっす…少し良くなったみたいっす」
「いえいえ。これくらいならお安いご用ですよ」
若干顔色が戻ったクライブは、リーンフェルトにお礼を述べる。
アトロから見てもクライブの顔色は大分良くなったように見える。
「うちのクライブがお世話になりました」
「いえ、これくらいで良ければ…お世話だなんて……」
「いえいえ。この場に居ない旦那の代わりにお礼を言っておきますよ」
「もともとカインさんが無茶振りするからいけないんです」
少し怒った顔をするリーンフェルトに、アトロは笑いながら頷く。
「ははは、確かにそうなのですがね。でも断れる事なら断っておかないとこうなってしまいますからね」
「アトロさん…それが出来たら苦労しないっす……」
「まあ、そうかもしれませんが二、三品のおつまみと適度の合いの手で適当に返しておけばいいのですよ」
クライブが恨めしそうな目をしてアトロを見ているが、大した気にならないという様子でその対処法を披露する。
「結局クダまいている人は近寄らないのが一番です」
リーンフェルトからの尤もな一言に皆で笑う。
「そういえばそのカインさんですが……」
「クライブでこんな状態ですからね。きっと部屋で寝たままですよ」
アトロはそう言って笑うと、リーンフェルトに食堂のカウンターを指差す。
「リンさん、あそこから自由に料理を取ってくる仕組みになってますから、まずは取ってきたらどうでしょう?」
促されるままにリーンフェルトは、カウンターに食事を取りに向かった。