19 蛞蝓亭にて
リーンフェルトの両肩を板挟みにして固定していた器具が取れたのは、司祭の昔話を聞いた日の更に二日後の事であった。
教会の朝の礼拝が終わった後に司祭が直々にリーンフェルトの怪我の具合を見て、取り外しが決まった。
直ぐに修道士が二人掛かりでリーンフェルトの肩を固定していた器具を取り外す。
丸三日動く事の出来なかった為、まずは上半身をゆっくりと起こしてみる。
ようやく器具が外れたリーンフェルトは首と肩を回しながら、ストレッチを行う。
ほぼ動かなかったせいで、凝り固まった部分がある。
そういう部分を重点的にほぐしていく。
程なくして、違和感なく肩周りが滑らかに動くようになっていく。
それを一頻り見ていた司祭はリーンフェルトに話しかける。
「やっと肩が落ち着きましたね」
「司祭様、本当に有難うございました。お蔭様でこの通りです」
貴族の令嬢らしく流麗な礼をするリーンフェルトに、少々困ったような表情の司祭は穏やかな顔で答える。
「いえいえ、私は教会のお勤めをしただけに過ぎませんよ。確かに動くようになりましたが、まだ無理をしてはいけませんよ?」
「その……早く剣も魔法も練習したいのです。いつぐらいからなら大丈夫でしょうか?」
「そうですね…何とも言えませんが、もう二、三日しっかり栄養のある物を食べて静養する事をお勧めしますよ」
ふと気がつくと部屋の入り口が何とも騒がしい。
そちらの方に顔を向けると勢い良く扉が開き、大手を振ってカインローズが現れた。
「おう、リン!やっと復活したか」
そう言いながら部屋の中に入ってくる彼に続き、アトロとクライブが入ってくる。
「リンさん、元気になったみたいで何よりっす」
「一時面会謝絶でしたから、本当に心配したんですよリンさん」
クライブとアトロの声も普段より心なしか明るく、リーンフェルトの復活を喜んでいるようだ。
リーンフェルトを囲む一行に向かって司祭は声を掛けた。
「おや、お見えでしたか隊長さん」
「ん、ああ…司祭さん。あんときゃ本当に世話になったな」
「いえいえ、これも教会に身を置く者の定めでございます。そうそう彼女ですが、もう少しゆっくり静養する事を勧めていたところです」
「なんだリン、もう復帰しようとしてたのか。生真面目な事だが今は司祭さんの言う通り静養が必要だぜ?これから養生も兼ねて温泉にもで入りに行こうじゃねぇか」
突然温泉にでも行こうなどと言うカインローズを、早速咎めるようにリーンフェルトは口を開く。
「ちょっとカインさん。それでは任務失敗の報告が……」
「ああ、それはこちらでもう手配済みだ。だから気にしないでまずは体を万全にしないとな」
そういうとニカッと笑うと、カインローズは司祭に巾着を差し出す。
「これは?」
「俺の部下が二人も世話になっちまったんだ。治療費とは別に俺からの礼ってやつだよ」
「成程…でしたらそのまま当教会へ寄付ください。それで多くの貧しい子供達が食事をする事が出来ます」
「それは司祭さん、あんたにやったもんだ。好きにしたらいいぜ」
「ならばそのように」
司祭はカインローズから巾着を受け取ると、カインローズ達をここまで案内してきた修道士へそれを渡す。
受け取った修道士は恭しく祈りの言葉を唱える。
「神に感謝を」
「神に感謝を」
司祭も修道士に短いその祈りの言葉で返すと、リーンフェルトの前に立ち手を差し伸べた。
「貴女により良き導きがあらんことを」
「お世話になりました」
そういうとリーンフェルトも司祭の手を取り握手を交わした。
――教会から出た一行は、まず今借りている宿へと戻り荷物を回収する。
自室に戻ったリーンフェルトは早速着替える。
と言うのもカインローズ達は迎えにこそ来てはくれたのだが、リーンフェルトの着替えを忘れるという事をしている。
結局アトロがこの街で新調したフード付きマント借り、貫頭衣の上から着こんで宿まで戻る羽目になったのだ。
どうしてそういう所で気が利かないのだろうかとも思わなくはないのだが、今回は色々と迷惑も掛けてしまったのでプラスマイナスゼロという事で納得した。
「と言っても下着類と制服しかないのですが……」
ここルエリアで新調した水色の下着を身に着けブラウスを羽織る。
後は制服の上下に袖を通して、ロングブーツを履けばほぼいつもの姿である。ほぼとつくのは、あの男との戦闘で私服も購入したブーツもダメにしてしまい、お気に入りで使用していた髪を結ぶのに使っていた緑色の布も使い物にならなくなり、教会の方でどうするか尋ねられた時に廃棄をお願いしたのだった。
という訳で現在リーンフェルトは髪を下ろしている。
その為リーンフェルトは荷造りの最中サラリと垂れ下がってくる髪を鬱陶しく思っていた。元々高くないテンションがだんだんと下がってくるのを感じた。
このままではいけないと首を左右に数度振る。
気を取り直して宿の部屋から出て、出口へ向かった。
その間カインローズ達はルエリアでの宿を引き払うべく、手続きをしていた。
勿論失くした部屋の鍵代も込みでのお支払いとなっている。
輸送用の馬車は無くなってしまったので、ルエリアで馬車は購入したようだ。
アトロが御者を務めクライブとリーンフェルトが二頭立ての幌の付いた馬車へ、カインローズは自身の馬に跨っている。
幌馬車を引く一頭はリーンフェルトの乗っていた馬が充てられた。その一頭だけでは足らず、どうやら馬も一頭購入したようだ。
早速馬車に乗り込んだリーンフェルトは、そんな相違点を見つけながら脇に腰かけた。
そういえばまだ、カインローズに教会に運んでもらった事のお礼を言っていないのだが、なんだかタイミングを逃したようで言いづらい。
そもそもあの襲撃犯を見つけて戦闘に入ってしまった事は、セプテントリオンであろうともこの部隊の指揮官であるカインローズの命令なく行ってしまった違反行為である。
そして暴走の果てにこの様であるからリーンフェルトは、肩身が狭いと感じていた。
それを気を使ってかクライブは務めて明るい声でリーンフェルトに話し掛ける。
「色々あったルエリアからもおさらばっすね」
「そうですね。クライブさんはもう怪我の方は大丈夫なのですか?」
リーンフェルトは先に教会に運ばれていたクライブの容態について、聞いていなかった為そう聞き返す。
「あはは、大丈夫っすよ。リンさんの方が怪我は酷かったみたいだし、それを言うならリンさんこそ大丈夫っすか?」
「ええ、おかげさまで。この後温泉に行くとは聞きましたが、どこに向かっているのですか?」
「えっと確か……ルエリアから半日くらいサエスの王都エストリアルの方に言った所に、マイムって温泉で有名な街があるらしいっす。そこに行くみたいっすよ」
そう答えるとクライブはリーンフェルトに頭を下げた。
「俺の命が助かったのはリンさんが応急処置をしてくれたお蔭だって聞いたっす。本当にありがとうございましたっ」
しかしそれに戸惑うリーンフェルトは、逆にクライブに謝ってしまう。
「そんな…私の魔法など大した事なくてちゃんと治してあげられませんでした。ごめんなさい」
そんなやりとりを数度した所で、会話が聞こえていたのだろうアトロが割り込んでくる。
「リンさんはクライブの感謝を受け取ってください。それについて私からもお礼を」
「……はい」
アトロにそこまで言わると断りきれないリーンフェルトは、そこで首を縦に振る事になった。
そうしてゆるゆると街道を西に向かって進むと、マイムの街が見えてきた。
マイムは温泉で有名というだけあった多くの宿屋と繁華街のある街であり、当然のように街の入り口には噴水が備え付けられており
勢いよく水を吹き出している。
マイムの門を潜ればそこには大通りに軒を連ねた宿、そして宿である。
その宿屋だが建築様式が違うようで、街並みも違和感を感じる。
先程までとは違い異国に来たような気分にさせられる。
「こりゃ懐かしいな。アシュタリアの建物じゃねぇか……」
カインローズ曰く、東大陸ボーテスにあるアシュタリア帝国の建築物に似ているのだそうだ。
「そうでしょうね。ここはボーテスの文化を取り入れた街ですから」
アトロは当然と言った感じでカインローズの言葉を肯定すると宿屋の一軒を指差した。
「面白い事にここの宿屋の入り口には、その店の温泉の効能が掛かれています」
辺りの宿屋を見回すと確かにどの宿も、効能が大きく書かれた看板が立っている。
各宿はどれも温泉であり、湯元が一緒ならば効果も同じなのではないかと思うのだが、それぞれ売り文句が違うのだ。
曰く、美肌の湯。
曰く、打ち身に効く湯。
曰く、細身の湯。
「これ…どれが本当かわっかんねぇな……」
カインローズですら呆れるこの効能の多さにどれが本当であるか戸惑う。
「なにか情報はないのですか?」
そう問うリーンフェルトにアトロは笑う。
「全部本当ですよ」
「どういう事ですか?湯元は何れも同じですよね?」
答えを知っていたのだろうアトロは、説明を始める。
「普通ならそうですね。ですが店毎に効能が違うのは、何故か。種明かしをしてしまいますとね。各宿秘伝のレシピで作られた薬草を温泉に入れて、効能としているからです」
確かに表に謳った効能がなければ、たちどころに悪評が立ち、宿屋街から淘汰されてしまうだろう。
納得したと頷いたリーンフェルトは、ならばと提案をする。
「それならばあの宿にしませんか?」
リーンフェルトの指差した先には、落ち着いた佇まいの宿屋があった。界隈では老舗に入り、また入り口に書かれた効能には余程自信があるのだろう。
「全て」
そう一言書かれていた。
「大沼の蛞蝓亭ですか。このマイムにある三件の老舗の一つですよ。大池の蛙亭、大藪の蝮亭とみんな大が着くので三大と呼ばれております。そのいずれも効能は全てと書かれているそうですよ」
「三件とも全てなのですか?」
「ええ、どうも創業者が皆仲が悪く競い合ったのが始まりだとか」
アトロの薀蓄を聞きつつ一行は蛞蝓亭の扉を手を掛ける。
「蛞蝓亭にようこそ」
従業員一同が声を張り上げリーンフェルト一行を歓迎して迎える。
手続きはアトロとカインローズの仕事だ。
「宿を四日ばかり取りたいのだが開いているだろうか?」
カインローズが切り出すと獲物を捕らえるが如く、フロントのベテランが怒涛の攻めを見せてくる。
「勿論でございますお客様。ささ一番良い部屋にご案内致しましょう」
「ああ一番良い部屋じゃなくても……」
「いえいえお客様何を仰りますか!貴方ほどのお方でしたらぜひとも最上級のお部屋にお泊りください」
「いや…しかしだな。普通のそのなんだ……」
「いいえいいえいけません。極上のお部屋へご案内致しますので」
あっという間に追い詰められたカインローズを見てアトロが前に進み出る。
「一番良い部屋ではなくゆっくりできる部屋を四部屋お願いします。それ以上の押し売りはこちらの紋章の方達が黙ってはおりませんよ?」
そう言って見せたのは一匹の翼の生えた蛇が己の尾を噛み、背を内側に巻き、翼でオリクトを抱えているそれ、つまりアル・マナクの紋章だった。
「お…お客様方はアル・マナクの関係者様でしたか。でしたらなおの事……」
「くどいですよ?」
にこやかな笑みを浮かべて、ピシャリと言ったアトロはさすがである。
それに比べて…いや言うまい。
そもそもカインローズに受付に行かせたのは隊長だからだ。
「で、ではご案内致します」
一行は何とか無事に普通の落ち着ける部屋を四部屋借りると、それぞれの部屋に分かれて行った。