171 お姉様
マルチェロが予定していた部屋を占拠してしまっていた為に、移動を余儀なくされたリーンフェルト、シャルロット、そしてナギとリナは別室にて浴衣に着替えている。
ここでもリナは皆に背を向けて着替えを行っていた。
何故かと言えば必死に精神統一をして心を乱さないようにしていたからだ。
敬愛するリーンフェルトやシャルロット、愛らしいナギと両手に抱えきれないハーレム状態にリナの鼻の血管はドクドクと脈打ち噴火が近い事を告げていた。
その欲望をなんとか抑えながらの着替えだった為、随分とゆっくりとした着替えになってしまいシャルロットから心配そうな目で見られ体調を聞かれるがそれについては元気よく大丈夫と答えた。
リナの着替えが終わるのを待って、ナギは皆に声を掛けた。
「それではお姉様方、温泉に案内致しますね」
先程とは打って変わって大分機嫌が戻ってきたのだろうにこにこと笑顔を浮かべるナギが先導して温泉へと案内する。
「お言葉に甘えます」
そうリーンフェルトがナギにそう答える。
ママラガンに来てからはほとんどナギがいろいろと手配をしており、リーンフェルト他アル・マナクの 面々も快適に過ごす事が出来ている。
そして今日もまた温泉宿を貸切で手配しもてなしてくれるのだから、彼女の言葉にも頷ける。
「はい、お姉様方を持て成すのはとっても楽しいのです」
彼女の笑顔には嘘偽りがない事、なによりその尻尾が上機嫌に揺れているがはっきりと見て取れるのでナギは心からもてなす事が楽しいのだろう。
リナは高まる期待感から一層口数が少なくなっていて、それをナギに心配されたがそこは具合が悪い訳ではないので心配しなくてもいい旨を伝えているのだが、それでも静かなリナを気遣って話しかける彼女の可愛らしさにちょっとした優越感を感じながら木製の廊下を歩く。
滑らかで温かみのある床や建物からも木材の爽やかな香りがふわりと満ちていてとても気持ちが良い。
皆お揃いの温泉宿の浴衣である事もリナの興奮を加速させるいいスパイスとなっている。
硝子に映る薄桃色に白のラインが入った浴衣は今日の記念に後でナギにお願いして買い求めておこうと心に誓うリナである。
さてナギに案内されて辿り着いたのは屋内の浴室へと続く手間に設置されていた脱衣所である。
改めて浴衣を脱ぎ、用意されていた白いタオルを手に持ち浴場への扉を開けると、湯煙の向こうに複数の浴槽が見えた。
「こちらがこの七福神温泉自慢の七宝の湯です! 温泉の効果は美白、血行促進など計七種類で心も体もリフレッシュ出来ます。それと露天風呂の方には庭園風になっていますので、後で行ってみましょうねお姉様方!」
そう説明をしてみせるナギだが、この時ばかりは年相応のはしゃぎようである。
それにしてもお嬢様がこれ以上綺麗になったらどうなってしまうのだろうかとリナは考える。
引く手数多で男が寄ってくるかもしれないが、それは適時排除しようなどとリナが考えている事など誰も気が付かないだろう。
尤も美白で一層美人になった所でリーンフェルトの周りには碌な男がいないので、そのような事にはならないという事実に今のリナでは気が付くのは難しいに違いない。
「なんだかとても立派なお風呂ですね」
リナの妄想を余所に浴場を見渡したリーンフェルトは感嘆混じりにそう漏らす。
浴場内はモザイク柄の石で作られており足触りも滑らかで心地良く、高級感を醸し出している。
各浴槽は泳いでも差し支えないくらい大きく、そこに源泉から汲み出されたお湯がかけ流しにされており絶え間なく湯船に流れ込んでいる。
実家のお風呂は勿論温泉では無い為、リーンフェルトが魔法の練習がてら浴槽に湯を張ったりしていた事を思いだしちょっとだけ複雑な気分になった。
勿論当時は貧乏であったし、リーンフェルトがお手伝い出来る事と言えばそのような事くらいで薪代と水を汲む人工分くらいは生活の足しになっていたのではないだろうか。
ふとそんな事を考えたがすぐに気持ちを切り替えた。
当時の実家と他人の物を比べても仕方が無いし、何より今はナギのおもてなしを心から楽しむ事こそが彼女に対する礼と言えるだろう。
それに先程シャルロットとも今日は楽しむと約束したのだ。
それはそうと先の言葉はナギにしてみると相当嬉しかった様で、黄色と黒の尻尾が猛烈な勢いで左右に振れている。
そんなに振れて外れてしまわないかと心配になる程だが、彼女はちょっと得意げに胸を張るとこう続けた。
「それは勿論です! アシュタリアの威信を賭けて作りましたから。お姉様方は温泉の作法などは?」
そう聞かれてリーンフェルトが思い出すのはマイムの温泉宿である。
そこにはジェイドとの戦闘に敗れ傷ついた後療養の為とカインローズが任務そっちのけで手配した結果である。
お蔭で体の方は完治して今に至るのだが、その時に泊まった蛞蝓亭は温泉の入浴方法にとにかくうるさかった。
あそこで学んだ事がこんな所で役に立つとは誰が想像しただろうか。
取り敢えずリーンフェルトはナギの問いに答えるべく口を開く。
「私は一度サエスで経験していますから分かりますよ」
「ではシャル姉様は?」
「アシュタリアについた初日に温泉は経験してますから、大丈夫ですよ! ……リナ様は大丈夫でしょうか? お姉ちゃんと一緒にサエスの温泉に行ったなら問題ないのかしら……」
そしてこの場にいる最後の人物へと視線が集まる。
リーンフェルト達よりもやや離れた所で佇むリナは恍惚の表情で三人の様子を見守っていた。
「美しい空間にお嬢様方……なんと至福な一時……」
心の底からそんな言葉が口をついて零れた。
ケフェイドになるアル・マナク本部には客室にこそ風呂はあるが基本セプテントリオンに名を連ねる者は与えられた家の方で暮らしている。
当然お風呂に一緒に入る事など任務先でもなければ、まず起こりえない。
そんな数少ないチャンスをアシュタリアの粋を集めて作られた美しい温泉で巡り合えた事は幸運としか言いようがない。
これぞ至福の一時である。
出来ればこの一時を絵画に収めたいとすらリナは思う。
勿論そんな事をさせてもらえないので、しっかりと脳裏に焼き付けておかねばならない。
リナの思考とは別で傍目から見るとどうにも言葉が少なく、たまに鼻を抑えて俯いたりとやはり具合が悪そうに見える。
本当に具合が悪いようならばお風呂では無く部屋で安静にしていてもらおうとリーンフェルトはリナに声を掛ける。
「リナさん本当に大丈夫ですか?」
顔を覗き込むようにして現れたリーンフェルトはいつもと違い少し高い位置で髪を結わえており、印象も若干違って見える分思わずびっくりしたがそのお蔭か少しだけこちらに意識が向く。
「えぇ! 大丈夫ですわよ。そう、作法でしたわね……確かかけ湯からですよね」
作法ならば蛞蝓亭で嫌という程の立て看板で見て来て頭に入っていたリナはそのように答える。
意識こそ妄想に片足を突っ込んでしまっているが、この場での会話は会話で重要な記憶であり思い出となるものである。
そんな場にいるのだから一言一句逃すはずがない。
寧ろ反芻して暗記するまでこの会話と思い出は楽しめるだろう。
そして回答としては十分な及第点ラインだ。
ナギの表情も一層明るく可憐に笑って見せる。
「リナ様も知っているのなら安心ですね。ではちょっと内風呂で温まってから、露天風呂に参りましょう」
そうして四人は大きな湯船へと身を沈める。
少し温度の高いそれは一瞬熱いと感じたが、それも直ぐに感じない程心地よい物へと変わる。
湯船の側面は巨大な一枚硝子と面しており、その先には庭園が広がっている。
風呂に浸かりながら美しい庭園を楽しめるのだから、贅沢というものだ。
庭園に生えている松の木の立派な幹を見てシャルロットが感動した様子で話し始める。
「大きい木ですねー……」
「木まで植えてあるのですね……」
「はい。庭園風と言いましても実際に庭園を作るように指示致しましたので」
ナギがそう答えると納得した様に自然に頷いてしまう。
国の威信を掛けて作ったと豪語しただけの事はある。
ただ豪華な訳ではない、圧巻の美しさと風情はきっとこの国を訪れた者に大きな感動と思い出を残す事だろう。
あれこれと楽しそうに説明するナギと少々放心気味に窓の外を眺める姉妹をリナは湯に浸かりながら観察していた。
外を眺めていたリーンフェルトであったが、何か興味が湧いた物を見つけた様でそれについてナギへと質問を投げかける。
「あの竹の様な物で作られている壁はなんでしょうか?」
「あれはですねお嬢様。恐らく向こうが男湯かと」
「はい。正解ですリナ様」
そう笑顔で返してくるナギにリナはどこか距離を感じてしまう。
お姉様とは行かないまでも敬称の類がついてしまっている事への距離感の方がリナとしては重要な所であった。
しかしそれは厚かましい願いでもある。
「リナ様だなんて他人行儀な、私の事はリナとでもお呼びくだされば……」
思わず口をついて出てしまった本音に慌てて両手をブンブンと振って誤魔化そうとするのだが、当のナギはと言えばキョトンとして表情で首を一つ傾げて見せた。
「そうですか、ではリナ様はリナ姉様とお呼びしても宜しいですか?」
「そ、そんなお嬢様と同列に扱われるなど」
リナは顔をにやけそうになるのを必死に隠そうと一層腕を振るえば水飛沫が大きく跳ねてナギに掛かり始める。
ナギはナギで抵抗する事なく目を瞑って水飛沫が掛かるのを耐えているので、リーンフェルトは助け舟を出す事にした。
「私はそもそもその辺りを気にした事がありませんよ? リナさん」
「私達、あんまり公爵令嬢っぽい生活じゃなかったものね……お勉強の先生はしっかりしたところの人を雇ってはいたけれど、メイドさんとかはお家にいなかったし……」
リーンフェルトの言葉に呼応するようにシャルロットも援護射撃に入る。
敬愛するお嬢様の言葉とあれば気恥ずかしさで振るっていた腕も鈍り、やがて止まる。
水飛沫が止まったのを見計らってナギはその掌で顔に掛かった飛沫を拭えば、いつもと変わらない笑顔を見せる。
「では、リナお姉様とお呼びいたしますね! ではではアシュタリア自慢の露天風呂へ入ってみましょう!」
半ば強引にそう話を進めると勢い良く立ち上がり露天風呂の入り口へと駆け出していってしまい、リナに反論の余地を与えない。
浴槽に残された三人は小さな背を追いかける為にそっと立ち上がる。
ナギが開けた扉から外気が流れ込むと、湯船から上がった三人の肌を冷たい風が撫でて行くのだった。