146 舌先三寸、胸一寸
近くで天を焦がした火柱を荷台で寝転がり見ていた、そして会話を聞いていたカインローズは胸がムカムカする中、大きくため息を吐いた。
「親父の野郎無茶しやがったな……」
一部始終を聞いていたカインローズはそう呟いた。
父親でアベルローズは確かに恰好の良い事を言っていた。
息子としてもリーンフェルトに対して感じる事を、バッサリ言ってくれた様な感じもして感謝すらあるのだが気持ちとしては呆れた気持ちでいっぱいになっていた。
アベルローズがリーンフェルトに何をしたのか。
恐らく胸に手を当てて目を閉じたリーンフェルトの手が乗っていない方の胸をアベルローズが触ったのだろう。
アベルローズが今もそうかは分からないが、女と言えば胸と即答するような父親であった。
小さい時分に良く女子を侍らせては着物の隙間に手を突っ込んでいたのを良く覚えている。
ちなみにそれを母親であるキトラにチクって、大喧嘩になった事を記憶の底から思い出していた。
「女なら何でも良いのか親父……なんて命知らずな……しかしあいつの胸なんぞに何故興味を持ったのかねぇ?」
確かにリーンフェルトの事件、旧アルガス王家の絶対支配時に起こったマルチェロ王子殺害未遂事件についてはケフェイド大陸では有名な話だが、アシュタリアまでは知られていないローカルな話だ。
間一髪辛うじて防御が間に合ったアベルローズ。
片や反射的に魔法を放ち、慌てて制御に移ったリーンフェルトが上方に魔力を逃した事により火柱にこそなって大爆発は免れたのだ。アベルローズの髭こそ掠めたが荷台や荷物までは灰にならなかったのである。
魔力量はマルチェロ事件当時よりも格段に上がっており、果たして全身やけど程度で済むかは運次第、もしくはよくリーンフェルトを知っていて仕掛けるならば先に防御魔法を展開してからだろうか。
しかし、そこまでして彼女に悪戯するメリットがあるだろうかとカインローズは考える。
あの瞬間焼却装置を発動させるくらいなら、酒場に屯する娼婦にでも金を払った方が余程安全である。
そもそもカインローズは隠れおっぱい派である。
むっつりスケベと言われればそうかもしれないが、いちいちそんな話をしないだけである。
それ故にリーンフェルトには一分足りとも反応しないし、そういう目で見る事は無い。
大体色気がなさ過ぎる。
ともあれ今回の回避はリーンフェルトが日頃から魔力制御の技術も欠かさずに鍛錬していたのが功を奏した結果であり、制御が出来なかったらアベルローズ諸共ここら辺の地形が変わるほどの爆発が起きていただろう。
胸を両手で抱き抱える様にガードしながら、リーンフェルトはアベルローズを怒りのこもった視線で睨みつける。
そして一段低いトーンで彼に語り掛けた。
「アベルローズ様?」
背筋がゾクリと寒くなったアベルローズはここに来てやっと命が危険に晒されていた事に気がつく。
正に虎の尾を踏んでしまったような緊張感と気まずさがアベルローズの体を縛り付ける。
それはキレた嫁が醸し出す危険な空気に似ている。
慌てたアベルローズは、これと取り繕うべく言い訳を始めた。
「いや、すまんすまん。だがな先程くらい無防備になって貰わんとお前さんには触れる事すら出来んのだぞ?」
もっともらしい事を言って煙に巻こうとしているのだが、リーンフェルトの怒りの矛先はぶれる事はない。
「なぜ、胸を触りましたか」
一段と低い声。
そして高まる殺気の中、めげずに言葉を掃出し説得を試みるもその切っ先は喉元まで迫ってきている。
「つまり、お前さんには隙がないから……」
「肩でも良くありませんか?」
女性にこれほどまでに恐怖し、言葉が出てこない事がかつてあっただろうか。
言いくるめるべく次の言葉を探すが思う様に出てこない。
「えっとだな……」
尚も悪あがきをしようとするアベルローズに、リーンフェルトはとどめの一言を放つ。
「キトラさんに言いつけます」
アベルローズは全身から嫌な汗が噴き出たのが解かった。
冗談のつもりだった。
ちょっとした茶目っ気だった。
言い訳はいろいろあるが、キトラにばれるのはまずい。
普段優しい嫁ではあるが、キレた時の暴れっぷりは流石ハクテイの血筋である。
かつて女遊びがばれた時などは、顔が腫れあがるまで殴られたのだ。
それもハクテイの力で。
首の骨が折れなかったのは、単に彼女の愛情であったと思いたい。
今回のは女遊びでこそないが、今や国賓待遇のアル・マナクのメンバーであるリーンフェルトだ。
国際問題になっても大事なのだが、一番ハクテイ家に影響力があるところで現在一手に担っているオリクト関係の事業について口出された場合だろう。
もちろんリーンフェルトにはそんな権限はないのだが、そんな事は当然アベルローズにはわからない。
さらに烈火の如く怒り狂ったキトラを止める自信は正直、アベルローズにはなかった。
「いや待て俺が悪かった! すまんこの通りだ!」
クワッと目を見開き、慌てて綺麗な土下座ポーズをとると深々と頭を下げた。
「全く……私の胸など触っても嬉しくないでしょうに」
呆れたような声を出す彼女にいらぬ相槌をアベルローズは付け加える。
「それは確かに……実に慎ましやかな……」
いくら会話の流れで呼び水になったとはいえ、流石に失言である。
全身を貫くような殺気をまとった彼女がポツリと呟く。
「灰になりますか?」
もはや怒気よりも完全な殺気での対応に、アベルローズは早々に身を引く。
「あ、いや……やめておく。しかしだな、物は考えようだぞ?」
「どう言う意味ですか?」
これは挽回のチャンスを得たと舌で口先を湿らせるとアベルローズは彼女を丸め込むべく脳みそをフル回転させて、胸について大々的に肯定の姿勢を見せる。
「お前さんのそれは欠点ではない。お前さん自身が気にし過ぎるから欠点に見えるのさ」
「それは……」
「確かにお前さんのは小ぶりかもしれん。しかしだ! 世の男共が必ずしも大きい方が好きかと言えばそうではない。むしろ希少価値すらあるかもしれないのだぞ?」
「は、はぁ……」
なにやら急に力説を始めたアベルローズに呆気に取られてしまい、思考に空白が生まれる。
「ともかくだ。お前さんは素晴らしい女性だ。そこだけは俺が保証してやるから安心せい! カッカッカ」
最後には高笑いと共に締めくくられ、あやふやな気持ちになったが、女性として褒められる事が少ないリーンフェルトにとっては思いのほか効果のある言葉であったらしい。
急に笑顔が戻り少々恥ずかしげにそっぽを向くあたり、まだまだ初心よのうなどとアベルローズは内心ニヤリと笑いながらも機嫌が直るまで褒め続けた結果、キトラへの報告という最悪の事態は回避できたと彼は確信した。
その後は実に和やかな雰囲気で会話をし、思いの外話が弾んだのはアベルローズの話術に因るところが大きい。
すっかり話し込んでしまい気が付けば、本日の野営準備が始まる時間となっていた。
「おい、いつまで親父と喋ってるんだ? そろそろ野営の準備をしないと飯にありつけないぞ?」
いつの間にか二日酔いから復活したカインローズがリーンフェルトを迎えに来たことにより、アベルローズの危機……と言っても身から出た錆なのだがを無事に回避した事の安心感から急に体が軽くなるのを感じた。
「全くやれやれだわい……」
そういって荷台に大の字に寝転がったアベルローズの視線の先には、薄らと星々が表れ始めている。
帝都への道のりはまだまだ始まったばかりである。
平坦な道を後二日、宿場町を二か所経由して、帝都ママラガンがある山の麓に辿り着き更にそこから登山の開始である。
普段自身の魔力で空を行くアベルローズにとっては時間も金も掛かる陸路は正直面倒以外の何物でもないのだが、皇帝からは陸路の許可しか下りていない。
空路で行くにはそれなりの手続きと、最低でも皇帝に一度面通しして置かなければならない決まりになっている。
従って空路で帝都ママラガンに入れる者は極々少数である。
それに空路の方が正直警戒が厳しくなっており、正しい割符を持っていなければ門前で罰せられる。
それでなくともママラガンは雲よりも高い場所にある為、ある程度飛べるだけでは辿り着けないのである。