138 蠢く死体
野営はほぼカインローズの警戒網のおかげで難無く一晩無事に過ごす事が出来た。
翌朝には緩慢ながらも魔力が回復して動ける者がちらほらと散見されるようになった。
しかしまだまだ魔力が回復せず寝たきりの者もいる事から、全員が行軍に耐え得るだけの魔力が回復して動けるようになるのにはもう一日くらい掛かりそうである。
あれからヒナタもまだ目を覚まさないのだが、寝顔を見ている限り苦悶の表情を浮かべたり、汗をかいている様子はない。
規則正しい寝息を立てているので、心配はないだろう。
リーンフェルトは何か異変があったら呼んで欲しい事を伝えて、魔力が回復して動けるようになったシュテイ家の兵士達に看病を引き継ぐとアル・マナクに割り当てられたテントへと向かった。
十二張のテントの内、一番外側に設置されたアル・マナクのテントに戻って中に入れば、肩周りにぎこちない動きを残すアウグストが八つ首ヒュドラの肉片を研究しているのが目に入った。
「ただ今戻りました」
一瞬ぎょっとはしたが、研究こそが本分のアウグストである。
何もしていないよりも何かを研究していた方が彼らしいなと思い、自然と口元に笑みが零れた。
「いやリン君お帰り。ヒナタ殿の容態はどうかね?」
昨日から看病に当たっていたリーンフェルトにヒナタの事を尋ねると、経過も含めて回答がなされる。
「まだ目を覚ましませんが状態は安定しているかと。シュテイ家も魔力切れから回復された方々がいましたので、そちらに引き継いで参りました」
「なるほど。ところでリン君……大変申し訳ないのだが」
徐に眼鏡を右手の中指でクイッと上げたアウグストが改まった口調でリーンフェルトに話しかけた。
「私の筋肉痛をなんとかして貰えるかね? テント設営を手伝ったのだがね腕やら腰やらが痛いのなんの。腕なんかは痛すぎてこれ以上上がらないくらいなのだよ」
肩のラインよりも腕が上がらない事を強調しつつ、弱ったといった感じの表情で話されては対応に困る。
魔力なら確かに自前の物があるので、少し回復魔法を掛けても問題はないだろう。
しかし、リーンフェルトもアウグストに一つ言わねばならない事がある。
「運動不足ですね。完全に……もう少し研究の合間を見て運動してください」
「いや勿論、腕を回したりして筋肉を伸ばしたりする事はしているがね。昨日のテントの支柱は私には重すぎたのだよ」
「仕方が無いですね……では後ろを向いてください。肩の方から治療を始めますから」
「やってくれるかね。いや疲れている所本当に悪いとは思うのだがね。私も研究するのに支障をきたしていて辛いのだよ」
そう言って後ろを向いたアウグストの肩に手を置くと治癒を始めるべく魔力を込めようとする。
その時だった。
テントの入り口がひらりと開いて、リナが現れた。
「お嬢様。それを甘やかしてはいけませんわ」
「くっ……リナ君、もう戻って来たのかね……」
苦々しい表情のアウグストとは正反対にリナはお見通しですよと言わんばかりに微笑む。
「私をちょっと遠くのお使いにやっている間に筋肉痛を治して貰おうだなんて……徹夜で看病して帰って来たお嬢様を捕まえるだなんて許しませんわ」
上司であるアウグストを下種を見下すような冷たい目で見つめるリナにアウグストは慌て出す。
「いやいやリナ君。少し落ち着きたまえ!」
「いえ、待ちませんわ。お疲れのお嬢様に私的な事をお願いするだなんて……覚悟、出来ているのでしょうね?」
「待て待て! リナ君その手に持っている物はなんだね!」
「これでございますか? 簡単に申し上げるとお仕置き用の器材でございますわ。あっ……お嬢様はお疲れでしょうから少しお休みになられると宜しいですわよ。その間にそこの中年を私がシバいておきますから」
とてもにこやかな表情のリナに追い出される形でテントを出る事になってしまったリーンフェルトは途方に暮れる。
テントの中からアウグストの悲鳴が風に乗ってリーンフェルトの耳に届いたが、きっと何を言っても今のリナには届かないだろうと諦めて早々にその場を立ち去る事にした。
休憩する場所を失い少しテント群から外れた所に未だ放置されたままとなっている八つ首ヒュドラの胴回りあたりまで行くと、人気もなく気兼ねなく休めそうだった。
不思議な物で死体であるはずのヒュドラからは死んだ動物が放つ独特の匂いがしない事に眉を顰めた。
もしやまだ生きているのではという懸念から、リーンフェルトは独自に調査を開始する。
現状見えるのは首を全て失った胴体とそれが付いていた部分の切り口だ。
切り口はどれも綺麗に切断されており、それを切り落としたカインローズとヒナタの剣の腕を改めて感じさせる。
「切り口は特に問題ないようですね……」
顎に手を当てて思案する事数分。
今度はヒュドラの背後へと回ると可笑しな箇所を見つける事が出来た。
死んでいるはずのヒュドラの尻尾あたりが微かに蠢いているのが見て取れたからだ。
「まだ生きているのでしょうか?」
リーンフェルトはヒュドラから少し離れると風魔法で尻尾の付け根を切り裂いた。
その傷口からはシュルクの指程度の大きさのヒュドラが無数に溢れかえり、我先にと地中に逃げて行くのが分かった。
つまり八つ首ヒュドラは母体であり体の中に数えきれないくらい幼体を抱えていたという事になる。
彼等が母体程に大きくなるにはどのくらいの年月が必要となるかは分からないが、これ以上逃がしては危険であると判断したリーンフェルトは彼等を死滅させるべく火魔法を放つ。
燃え上がるヒュドラの死体からは熱と炎に炙り出されたヒュドラの幼体の脱出スピードが加速し始める。
「くっ……思っていたよりも動きが早い……これは間に合わないかもしれませんね……」
リーンフェルトが気が付く前に逃げ出した幼体は兎も角として、今この場にいた幼体を少しでも減らすべく火魔法を次から次へと放つ。
「リン! 何か派手な事をしてやがんな!」
昨日から空の上で警戒体制を引いていたカインローズがヒュドラの死体から火が上がった事で何事かとこちらに向かって来たようである。
「大変です! カインさん! ヒュドラの幼体が地中に逃げて行こうとしています!」
慌てた様なリーンフェルトを客観的に見ていたカインローズは冷静に指示を出す。
「リン! 良いか、まずは土魔法で地面に干渉して固めてしまえ!」
「了解しました、カインさん!」
カインローズの指示を把握したリーンフェルトは右手で火魔法を打ちながら、左手で土魔法を行使して地面の硬度を上げれば地中へと逃げ込もうとしていたヒュドラの幼体達は地面の硬度が上がった事によって潜る事が出来ず、地表をミミズの様にのた打ち回る。
「リン! 地中に逃げちまった奴はどうしょうもねぇ! そこの連中は片付けちまうぞ!」
「はい!」
硬化した地表を食い破る事の出来なかった幼体はあっという間にカインローズの雷魔法とリーンフェルトの火魔法の餌食になり消滅した。
「しかしヒュドラの野郎舐めた真似しやがって」
「仕方ないですよ。誰も知らなかったのですから」
「だが、これは次回現れた時に必ず役に立つぜ! リン、お前良く気が付いたな」
「いえ、たまたまだったんですよ。私も休むつもりでここに来たので」
「なんだリン、こんな所で休むだと? お前にはずっとヒナタの面倒を見てもらっていたんだ。テントで休めば良かっただろう?」
その言葉に先程のアウグストとリナの事をカインローズに説明すれば、半笑いの表情でリーンフェルトの肩に手を乗せた。
「そりゃお前……災難だったな」
「えぇ本当に。ですがこうしてヒュドラの幼体を多数退治する事が出来ました。カインさん手伝ってくださってありがとうございました」
ヒュドラの幼体退治を手伝ってくれたカインローズに頭を下げる。
彼の助言が無ければもっと多くの幼体を逃がしてしまっていただろう。
「ん……あぁ良いって事よ。なんだかお前には借りがどんどん増えて行っていて怖いぜ」
「私はそういうのあまり気にしませんよ?」
「俺が気になるんだよ!」
そう一言ぶっきら棒にカインローズは言うと再び空へと帰って行ったのだった。