117 貴女と二人きり
アウグストの祈りが女神に通じたのは発生から約五分後の事だ。
物陰から見ていたリナが食す前に倒れるという前代未聞の結末に呆然としていたのだが、そこから立ち直り動き出したのが五分後という訳である。
窓の近くで只管臭気をやり過ごしていたアウグストをサッと捕まえると、開け放たれた窓からそのまま脱出を図る。
やはりこうなってしまったかとアウグストは微妙な表情のまま、リナに話しかけた。
「リナ君、助かったよと言うべきか悩んでしまいますねこれは」
しかし事の次第に納得のいかないリナは、頬に手を当てながら鼻から息を吐く。
「何故でしょう。私の作った料理は完璧でしたのに」
「いやね……あれだけ訳のわからない物を入れればそうなるでしょう。最初の味見した時の物で完成で良かったのですよ」
「ですが、そのなんと言いますか……お店で食べるような味になりませんでしたので、勝つ為には味にコクと深みがどうしても必要だったのですわ」
より美味しい物を作ろうとした結果だが、完全に失敗である。
アウグストはもう一人救助を求めているであろう人物の事が頭を過ぎり、慌てた様にリナに命じる。
「それはそれとしてだ。リナ君今すぐ彼を救出したまえ。君の料理で本当の死者が出る事になる」
「それはいけませんわ!」
リナの名誉の為に補足しておくが、一応彼女の料理で死者は今の所出ていない。
確かに倒れたり意識を失ったりとその破壊力は抜群ではあるが、本当に奇跡的に死者は出ていない。
そこに今回放置してしまったクライブがもしも死んでしまうような事があれば、いよいよ殺人料理としてリナの料理を食べる者は二度といなくなるだろう。
尤も今でも誰も食べようとはしないのだが。
それでも誰かが死んだという実績は無かったのだ。
このままでは本当に実績を作ってしまうと慌てたリナも形振り構わず救助へ向かう。
光魔法で強化した脚力で飛び降りた窓まで一気にジャンプすると、そこから再び中に入る。
そこにはクライブが白目を剥き、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を天井に向けて倒れていた。
幸いにして死んではいない事に安堵した彼女は自身の作った料理に目をやる。
平皿に盛られた黒に近い紫色のそれにフォークの先で突いてみれば、ねちょっとした感触が食器の先に感じられた。
糸を引いたそれを徐に口にやって、先についた料理の味見をしてみる。
「今回のはかなりスパイシーな仕上がりでしたのに……。ちょっと舌先が痺れて、頭がクラっとはしますが……」
そんな感想を述べつつ、クライブを無事に回収すると医務室まで運んでいくのだった。
後にアウグストがこんな事を考察を口にしている。
「彼女の料理だがね。料理する際に手間を省く為に魔法を使っていたが、光魔法で自身が作った料理の毒性を解毒している。所謂酔わない魔法使いと一緒という見解だね。
それともう一つの可能性として光魔法で強化された肉体に丁度良く作られている為に、強化された肉体ではないものが食べると刺激が強過ぎるのではないか。尤も私自身は光魔法で肉体強化は出来ないから試す事は出来ないがね」
そして最後に。
「なんにしても。あれを食べなくて本当に良かった事は賢明な判断であった」と。
一方、助け出されたアウグストから事の顛末と料理対決は結局審査不能であるという事で引き分けとなった事を知らされた二人は複雑な気分であった。
「苦。私の料理があれと同列……」
アルミナは眉間に皺を寄せて呻く様に言った。
つまり引き分けとは甲乙付け難かったとも取れる。
それは実際ありえないのだが、結果だけ見てしまえはリナとの勝負が引き分けに終わってしまった事。
今回の件で白黒はっきり付かなかった事が、非常に不満のようだ。
「仕方がないですよ。クライブさんがあれでは……」
リーンフェルトとアルミナはアウグストから結果を知らされた後、直ぐに医務室へと向かう。
まるで石化させられたかのようにクライブが苦悶の表情を張りつかせたまま医務室のベッドに寝かされているのを、見てリーンフェルトは胃のあたりに光魔法を掛け始める。
暖かな光がクライブの腹部に当てられると、少し痛みが引いたのだろうか少しだけ表情が和らいだのを見て彼女もまた安堵から少し表情の肩さが取れる。
「擬。どうやったらあんな物が出来るのか謎」
「そうなんですよね。途中まで普通の料理だったと思うのですけど」
「嘲。流石リナ、その料理まさに殺人級」
「アルミナさん……それ褒めていませんよね?」
「是。彼女とはいろいろある。多少口悪くなる。仕方ない」
そう答えたあたりで医務室にもう一人、クライブの見舞いにと現れたのはアトロである。
「あぁ……やっぱり何かありましたか」
何を推測していた彼の様に不幸な事になっているクライブへと保護者の様な優しい表情で、ベッドの脇に設置してある椅子へと腰かけた。
「アトロさんもしかして何かあると感じていたのですか?」
「それはそうでしょう。アウグストさんが仕掛けた悪戯か何かかと思っていましたが、まさかリナさんの料理をまた食べさせられる羽目になっていたとは……」
アトロの言にアウグストが説明と食い違っている部分があったので、リーンフェルトは補足を入れる。
「それがどうも食べる前に倒れたみたいなんですよ」
「ふむ……では完全な拒絶反応なのでしょうな。それも一瞬で意識を落として無かった事にしたくなるようなです。余程嫌な記憶だったのでしょうね」
不幸な事にクライブはリナの料理を食べる機会が巡ってくる不運の人である。
恐らく臭気でフラッシュバックが起こり、その恐怖に耐え切れずに気絶してしまっただろうという結論に至る。
「帰。そろそろ仕事戻る。七席、御者君をお願い」
「はい。クライブさんへの治療は私が処置しておきますね」
「去。ばいばい」
そう言ってスタスタと医務室からアルミナは去って行った。
「しかし今回は結局の所どういった趣旨からこんな事になってしまったのですか」
その質問についてはリーンフェルトは謝るしかない。
もしも最初の話通りに事が進んでいたならば、このベッドで寝ていたのは自分かも知れないのだ。
そしてそれを言い訳じみた理由でアウグストを巻き込み、回り回ってクライブの元にそのお鉢が行ってしまった事が原因である。
「ごめんなさいアトロさん。クライブさんを巻き込んでしまったのは間接的にとはいえ、私が犯人だと思います」
「それはどういう事です? 確かにリンさんの手料理が食べられるという触れ込みだったとは思いますが」
「ええ……リナさんとアルミナさんが喧嘩を始めてしまってその勝負内容が料理対決だったのです。審査員は私がやる事になりかけまして、咄嗟にアウグストさんの名前を出して回避したのが発端なのです」
「成程。そうなるとアウグストさんがそれを回避しようとして、公募になったという所ですな」
「はい……」
シュンとした表情のリーンフェルトにアトロは怒るでもなく至って落ち着いた声色で話しかける。
「リナさんの料理を回避したい気持ちは良く分かります。私も回避した事がある一人ですから。ならばせめて犠牲になったくれたクライブが良くなるまでお願い出来ませんか」
その提案にリーンフェルトの心は少しだけ軽くなるのを感じた。
「そうですよね……分かりました。クライブさんが良くなるまで任務の合間になってしまうかもしれませんが、精一杯介抱させてもらいます」
「ええ、それがクライブにとっても一番良い結果だと思いますので、そうしてあげてください」
アトロはそう言うと苦笑して見せた。
リーンフェルトはアウグストにクライブの介抱を申し出る為に医務室から出て行ってしまう。
医務室にはアトロとクライブの二人が残っている。
「実は起きていましたよね?」
誰の気配も感じなくなったアトロは静かにクライブへと語りかける。
「やっぱ気が付いてたっすか」
「まぁクライブ、君ともそこそこ付き合いが長くなってきましたからね」
顔の筋肉は未だ硬直し苦悶の表情ではあるが、体調は比較的に楽なようだ。
「今回のは一口も食ってないっすからね……ってそれにしてもアトロさん! 何かありそうだったら教えて欲しかったっす!」
「ははは、クライブもリンさんの手料理という餌につられてしまったじゃないですか」
「そりゃ食べてみたかったっすから」
「まぁ君の介抱を申し出てくれたのだから、しっかり頑張るんだぞ」
クライブはアトロのアシストに深く感謝して頭を下げた。
これで少なくとも数日中はリーンフェルトと一緒に居られる時間を持つ事が出来ると思うと舞い上がりそうになる。
許可を取りに行ったのだから戻って来るだろう。
今回の件はアウグストもまた多少負い目があるに違いないので、許可は下りるだろうと言うのがアトロの見解であった。
アトロもまた二人きりにしてやろうと医務室を後にしていた。
――二人きりになれる。
そんな気持ちでわくわくしながらリーンフェルトが来るのを待っているだが一向に来る気配がない。
寧ろ医務室に入ってきたのは医務室送りの原因を作ったリナである。
引き攣った顔が一層引き攣る中、リナはクライブに向かって頭を下げた。
「クライブさん。今回は本当に申し訳ない事をしましたわ」
とわざわざ謝罪しに来たのだった。
「そんな気にしないでくださいっす。それよりもなぜリナさんが来たっすか?」
「それは勿論今回の件は私に責任がありますので、介抱の件はお嬢様に変わってもらったのです」
その一言はハンマーで頭を殴られるよりも衝撃過ぎて、一瞬頭の中が真っ白になる。
「あの……今なんて言ったっすか……?」
「ですから私は元気になるまで介抱する事になりましたの。ちゃんと手料理を作って介抱して差し上げますわ」
そこからのクライブの反応は素早かった。
「もう介抱が必要じゃないくらい元気っす! ちょっと最近仕事の疲れが溜まっていたのかもしれないっす!」
そう叫びながら一目散に医務室から走り去っていくのだった。