116 天国と地獄
「さて残り時間が後三分を切ったようだが……」
懐中時計を見やりつつ、三人にアウグストからアナウンスが入る。
「ここからが腕の見せ所ですわ!」
既にいくつもの調味料が投入されたリナの鍋の中身はいつものように暗黒物質の生成に成功した様である。
野菜がドロドロに溶け酸っぱいのだか苦いのだか分からない臭気が目に刺激を飛ばしてくる。
眼鏡越しのアウグストであるが既にあのキッチンには近づきたくない気持ちで一杯である。
また、出来立てという物は大概美味しいものなのだが、これほどまでに望まれない出来上がりというのは無いだろう。
アルミナはその状況を見て余裕の笑みを見せつつ自身の煮込んだ鍋の中の物を深めの皿に盛りつけようとする。
鍋の蓋を開け、おたまを差し込んだアルミナは目を見開く。
「否。煮込み過ぎた……」
彼女の作った煮物は風味こそ煮物であるようだが、野菜も肉も跡形もなく混ざり合い液体と化している。
「なんですの? その飲み物は?」
目ざとくアルミナの料理を見ていたリナはそう指摘して嘲り笑う。
「否。これが古来よりの料理方法!」
どうやら彼女は失敗を正当化するべく煮物の概念を根底から覆そうとしているようだ。
「アルミナ君、それは流石に無理があるね」
そうツッコミを入れるアウグストに背の低い彼女が一層小さくなったように見えたのは気のせいだろうか。
そうしてリーンフェルトの料理へと目を向けたアウグストは感嘆の声を上げる。
「ほう……普通にパスタですね!」
これは本来褒め言葉ではないのかもしれないが、この状況に至っては褒め言葉に該当するのだから恐ろしい。
「さて審査の順番ですがくじ引きで決めようと思います」
そう言って細長く切られた紙に数字が振られており、数字の書かれた部分はアウグストが握って隠す。
「それでは引いてください」
三人が一斉にくじを引いた結果はアルミナ、リーンフェルト、リナの順番で料理が出される事が決定した。
「私の料理が三番手……」
「嘲。むしろ最後の方が良い。審査員が最初から再起不能、困る」
若干ショックを受けたリナがそう漏らしたのを、アルミナが拾ってツッコミを入れれば、開き直ったリナは両手を腰に当てて胸を張った。
「まぁ私が作った料理は最高に美味しいので最後で十分勝利を掴めますわ」
「嘲。ちゃんと味見して」
料理が駄目な人程、味見と言う物をしない傾向にあるとどこかの書物に書いてあったはずだ。
そんな知識でリナに追撃を掛ける。
「天性の才能がある私には不要ですわ。むしろアルミナこそ味見してはどうなのです?」
リナも、完成時にはちゃんと味見をしているのだ。
その後にアクセントやら隠し味が多いだけで。
「笑。完成まで煮込めば美味しい、アシュタリア流」
「えっと……アルミナさんアシュタリア出身とかでは無かったですよね?」
料理について何やらアシュタリア風に拘っているアルミナに、リーンフェルトは彼女の来歴を思い出して質問を投げかける。
「是。生まれはマディナムント」
いつもの様に短くアルミナがそれに答えれば、リナから指摘が入る。
「アシュタリアと関係ないじゃありませんこと?」
「否。獣耳、もふもふ最高」
「もう会話にすらなっていませんね……」
段々纏まりが無くなって来たので、仕切り直しとばかりにアウグストが手を打ち鳴らす。
「……まぁどんな料理であれ審査は審査員がしてくれますから、冷めないうちに早速彼の下に持って行きましょう」
その場がアウグストによって治められ、いよいよ実食の開始である。
別室に控えていたクライブの元にはリーンフェルトの料理という事で早速一品目が運ばれる。
「クライブ君、一品目はスープだ」
アルミナが作ったのは煮物であったが全ての食材が溶けてしまい、完全にスープ状態になっている事から最初からスープと紹介する方が妥当と考えたアウグストはそのように説明して、一品目をクライブの元に給仕させる。
給仕に協力してくれるのは、食堂で働いている一般の職員達だ。
ナイフとフォークを用意されたクライブは立てられる様に置かれたナプキンを崩して、どこかで見たことのある所作を思い出しながら膝に敷く。
大きめのテーブルに上等なクロスが敷かれ、椅子も食堂の物では無く客室用の物が用意されている。
そこに座るクライブは期待に胸を膨らませて、目の前のスープを見やる。
自分の為だけに作られた料理、そして高級な調度品に囲まれた一室での食事。
ここだけ見れば完全に貴族にでもなった気分である。
しかも愛しのリーンフェルトの手料理であるとの事、テンションが上がらない訳がない。
元々田舎暮らしの自分に出来るテーブルマナーなどたかが知れているのだ。
無理に取り繕おうにも知識が無い。
という訳で少々がっつき気味にスープを掬うと、カチャリと皿にスプーンが当たり小さな音を立てた。
極力音を立てない様に口の中に流し込み早速味わう。
磯の香りが鼻腔を抜け、喉を通る頃には野菜や肉の風味も感じられた。
所々ジャリジャリとした物が口の中に不快感を残す事はあれど、普段あまり料理などしないだろう彼女が慣れない手つきで野菜の皮を剥いたのだ、それが多少残っていたとしても我慢出来る。
寧ろそんな姿を想像して愛らしくさえ感じるのだから恋という物は恐ろしい。
クライブは結局深皿一杯の煮物を飲み干すに至った。
「クライブ君、辛かったら完食しなくとも良いのだよ?」
「なんか口の中がジャリジャリ、ゴワゴワするっすけど大丈夫っす!」
「そ、そうかね? 良いかい、無理は禁物だからね。では二品目は主食だね」
アウグストが給仕用の呼び鈴を押せば、職員が恭しく二品目をクライブの待つテーブルへと配膳する。
「これは美味しそうっすね!」
「では食べてみてくれたまえ」
「うっす!」
フォークへと持ち替えたクライブは早速パスタの上に掛かっているトマトソースを絡めて、パスタを解きほぐし巻きつけて一口頬張る。
トマトと挽肉にニンニクの風味が移っており、なかなか食欲をそそる。
クライブには少々塩気が足りない感じがしたが、食べて食べられない味ではない。
炒めた時の火力が強かったのだろうか、挽肉が少々固くはなっていたが概ね満足出来る内容であった。
リーンフェルトへの愛がそうさせるのかパスタをも完食したクライブの腹は大分きつくなって来ていた。
「クライブ君。三品目があるのだがどうするかね? 見た所大分苦しそうだ。やはり料理は空腹時に食べるのが最も美味しく感じられるのではないかね」
「それはそっすけど……作ってくれたんっすよね?」
「ああ……そうだね。だが、私としてはこれ以上食べても正しく判断出来ないのではないかと思うのだよ」
「大丈夫っす、大丈夫っす。三品目をお願いするっす!」
こうなったらリーンフェルトの手料理をフルコースで完食したいクライブは、三品目をオーダーする。
アウグストは深いため息を一つ吐いたかと思えば、今度は大きく息を吸い込み息を止めてから呼び鈴を鳴らす。
しかし先程まで給仕をしてくれていた職員の悲鳴が遠くから聞こえた。
「なっ……何事っすか!」
慌てて立ち上がろうとしたクライブを、アウグストは静止させると落ち着いた声で話し始める。
「クライブ君、恐らく先の給仕の子が慌てて転んでしまったのだろう。彼女はそそっかしいからね」
「そうなんすか? それなら良いっすけど……」
「そう。それに三品目だがもう君のテーブルに配膳されているよ」
何時の間にかシルバートレイにクロッシュが被された状態の物がテーブルに置かれていた。
「あれ……いつの間に……それになんっすかね……背後に殺気を感じるっす」
それもそのはず瞬く間に給仕を終えてクライブの死角へと滑り込み、料理の行方を楽しみにしているリナから鋭い視線が注がれている。
遠くからこれが一番美味いと言えと殺気を当てられたクライブは身震いをする。
「な、なんか急激に温度が下がったような……」
「大丈夫かね? クライブ君。もう止めた方が良いのではないかね?」
「けど……折角作ってくれたっすから」
そう言ってトレイに被せられた蓋を取り去った瞬間、クライブは突如として気を失って倒れたのだった。
「ゴホゴホッ……クライブ君は倒れてしまいましたか。誰か急いで救護班を呼びたまえ! 彼を医務室へ!」
命令を発する為に吸い込んだ息が喉の奥と肺に強烈な不快感を運び込む。
トレイの蓋によって遮断されていた刺激臭が一気に解放された為に、審査員室として使われていた部屋の空気を塗り替えるのにそう時間は掛からなかった。
寧ろ遮断されていた事により、濃縮された臭気がクライブの意識を刈取ったのだと思われる。
ここに居ては危険だとアウグストは動き出して直ぐに窓を開け放つ。
新鮮な空気が部屋の悪臭の逃げ道となり徐々に薄まって来ているのだが、原因が未だ部屋の中にある為、予断を許せない状態にあるアウグストは早く誰かが助けに来てくれる事を切実に女神に祈ったのだった。