103 沈思のループ
アウグストにお使いを頼まれたケイはルクマデスを買い求める行列に並んでいた。
確かにルクマデスはリーンフェルトが買ってきた物を食べているが、ケイ自身はこの待っている時間がとにかく勿体無く感じていた。
遅々として進まない行列。
無駄に流れる時間。
この場で出来る事は限られている。
最初はストレッチのつもりで脹脛を伸ばし、続いて右腕を反対の手に交差させて上半身を捻る。
「暇だなぁ……」
思わず声に出てしまったケイに列の前に並んでいた男が振り返った。
「何だ兄ちゃん暇だって? あんたこの国の生まれじゃないだろ?」
「そうだね。ちょっと用事にこっちに来てるんだけどさ」
「ルクマデスを待っている時間はなヘレネ様との対話の時間なのさ」
「女神様と対話だって……?」
「そうさ。このドーナツを待っている時間は何もしていないわけだ。勿論仕事もそうだが……ある意味自由な時間な訳だ」
「自由な時間ならもっと他にする事があるんじゃないのかい?」
「まぁ、他の大陸から来たんならそうかもしれないな。だがよ沈思の時間は自分を見つめなおす時間なんだ。日々の些細な事を女神様に相談するのさ。そうすれば自ずとやらなければならない事が見えてくるってもんだ」
「そんなものかい?」
「ああ、そして沈思を終えればルクマデスが待っている。自分へのちょっとしたご褒美に蜂蜜たっぷりのあれを食べるのさ」
「グランヘレネの皆は蜂蜜が好きだよね。ホント。確かに美味しいけどさ」
「そりゃ女神様の愛が詰まった食べ物だからな。体にもいいしな。男は逞しく、女は美しくなれる。なっ? 女神さまさまだろ」
「そうだね。なら僕も暫し黙っていろいろ考えてみる事にするよ」
「ははは、まあ頑張れよ」
そう言って男は前を向いて再び黙り込む。
(あんまり黙っているのは好きじゃないんだけど)
そこは郷に入っては郷に従えという事か。
ケイは口を閉じて考える。
押し黙り思考を重ねて行くうちに徐々に列は進み、無事にケイはルクマデスを購入する事が出来た。
「沈思の後はご褒美だよね」
男が言っていたようにルクマデスを頬張れば、確かに昨日食べた物よりも美味しく感じられた。
「……あちゃ~」
ケイはルクマデスの入っていた箱を弄る手が何一つ掴めなくなった事に気が付いて声を上げてしまった。
そうケイはルクマデスをいつの間にか完食していたのである。
「これ……アウグストに怒られちゃうよね。もう一回並ぼう」
そう言ってケイはルクマデスを求める人々の列の最後尾に並ぶと、再び沈思をし始めるのであった。
――一方。
リーンフェルトはカルトス大陸に展開されたグランヘレネの陣地内で頭を抱えていた。
「全く……どうしてこうなったのかしら」
彼女らしくなく机に肘をついて手に頬を寄せる。
今リーンフェルトの前にはグランヘレネの中級士官が三名ほど立っている。
「なぜ私がグランヘレネの指揮を取らなければならないのですか! コンダクターは何をしているのですか?」
「お連れの方と酒を呑み明かして二日酔いで寝込んでおります」
つまりそういう事が起きている。
カインローズの差し入れた酒は美味しくはないが度数は高い酒だ。
それを只管飲んだ結果、元々酒に強くないカインローズがダウンした事、その相手をしていたコンダクターもまた酔い潰れて動けなくなったのが今の状況だ。
結果サエスの反撃が開始された時には爆睡して起きなかった。
勿論カインローズを起そうとして近寄ったグランヘレネの兵士達は軒並み吹っ飛ばされた。
それがコンダクターのテントに入れる上級士官達であった事が悲劇の始まりだ。
グランヘレネの兵士達の規律は厳格に守られている。
それ故に上級士官達がカインローズの犠牲になったのだ。
グランヘレネが負けた翌日からサエス軍は反撃を開始した。
中でも火の魔法を扱う傭兵集団が加わってからはアンデッドへの有効な対策が出来たとして、散発的に現れてはアンデッドを焼き払い逃げて行くという嫌らしい戦法でグランヘレネのアンデッドの数を徐々に減らしに来ている。
そんな中で起こったそれは指揮系統を破壊するには十分過ぎた。
「我々はどうしたらいいのだ!?」
ただただ戸惑い混乱するグランヘレネの中級士官達は従う事は出来ても、命令を出す事が出来ない。
そして客将の身分であるリーンフェルトに助けを求めて来た。
「私達に命令を!」
三人の中級士官に傅かれても、リーンフェルトにはリーンフェルトの立場という物がある。
アル・マナクとして戦場に立つ事は出来ない。
が、放っておけばあっさりとこの陣地を失いかねない上にその状況に陥れた原因がカインローズの寝起きの悪さという事であれば上官の尻拭いも致し方のない事とも思える。
結局見捨てる事も出来なかったリーンフェルトはグランヘレネのローブを頭からすっぽりと被り素性がばれないようにした上で指揮に当たる事になったのだった。
「まずは火を放っては逃げて行く傭兵共の動きを封じます。続いてこちらの指揮系統が回復するまで私が時間を稼ぎましょう」
「「「お願いします!」」」
三人の中級士官達の声が綺麗にハモる。
暫定的に指揮を執る事になったリーンフェルトであったがこの中級士官達、命令こそ出来ないが従う事にかけては非常に優秀だったのは救いと言えよう。
「土魔法の得意な者が多かったはずでしたね。三人は各自部隊を率いてサエス陣地付近に待機。次の襲撃が始まったら傭兵部隊の後方に三メートル程度の土壁を一気に作り上げてください。これで退路を断たれば袋のネズミという物です。もし取り逃がしてしまっても次からはもっと警戒して深くには仕掛けて来なくなるでしょう」
「「「なるほど!」」」
彼等は実は一心同体なのではないかというくらいに息がぴったりと合っている。
彼等ならば土壁の同時展開も滞りなく行えるだろう。
「ともあれ逃がしてしまっても構いません。追撃もしません。私は貴方達の命を背負うつもりはありませんから必ず生きて戻りなさい」
「「「はい!」」」
中級士官達はやはり綺麗に返事をしてそれぞれの準備を開始して出撃していった。
「これで上手く行けばいいのですけどね」
今まで碌に反撃する事もなかったグランヘレネ軍が反撃を開始出来る程、回復したのだと思ってくれればそれで良い。
出来れば両方の損耗を避けつつ膠着状態に持ち込めれば最高である。
アル・マナクとして成果を出さず、そこそこに陣地を守る。
消極的な作戦になってしまうのは仕方のない事だ。
そんな訳でローブを頭から被り、もし顔を見られた場合に備えてシャハルに顔だけ認識阻害を掛けると言う徹底ぶりで戦場に立つ事になってしまった。
リーンフェルトは上空から部隊配置の完了を確認すると索敵に入る。
アンデッドが動く事の出来ない日中のゲリラ戦など上空から見れば部隊運びなど一目瞭然である。
いかにも怪しく動き回る三人一組の部隊が四つ程確認された辺りで、リーンフェルトは土魔法を使って拳大の石を多数作り出すと広範囲にそれを降らせる。
高度はそこそこであるから自由落下した石はかなりのスピードと威力をもってサエスの傭兵部隊を襲う。
突然上空から降ってきた礫に彼等の動きが止まる。
「なっなんだいきなり!」
「おい、こちらの動きが筒抜けだぞ!」
「何故だ。グランヘレネに風魔法を使う奴がいるなんて! ともあれ作戦がばれているなら無理する事はない。アンデッド共は大部削れたしな引くぞ! 俺様の勘がそう叫んでいる」
そうだった。
グランヘレネの部隊にいるのに風魔法を使って上空にいたリーンフェルトは今更ながらその過ちに気づく。
しかしこれは仕方が無いだろう。
仮に夜であればドラゴンゾンビが空を飛んでいても不思議ではないのだが、生憎と今は昼過ぎである。
アンデッドを警戒している彼等が冷静に判断出来ているならば、空を飛んでいる奴がいるというのが直ぐに思い至るだろう。
つまりこの段階で純粋なグランヘレネの兵士だけでは無い事が彼等に知れてしまったのである。
迂闊な事をしてしまったが、これで相手も警戒して手を出しにくくなるだろう事を祈るしかない。
傭兵部隊は驚く程素早く撤退を始める。
リーンフェルトも自身の失敗に動揺してしまい、土壁を展開する合図が遅れてしまい傭兵部隊を取り逃がしてしまう。
「ともあれこれで今までの作戦は使えなくなるはずですよね」
中級士官達に遅れる事撤退の合図を出す。
一時間程度で全ての部隊が陣地へと帰還して来る事になった。
「始めに、皆ご苦労様でした。私の失策によって本作戦は失敗してしまい、申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げるリーンフェルトに中級士官達は驚いて、地に頭を擦り付けんばかりに頭を下げた。
「そんな事はないです。こちらの損害は軽微であり、死者も出ておりません!」
「こちらの部隊も問題ありませんでした。取り逃してしまった事は残念ですが作戦は成功かと!」
「そうです。謝らないでください! 我々がちゃんと生還出来たのも貴女の指揮のお蔭です!」
口々にフォローされてしまったリーンフェルトは、少々気恥ずかしさを覚えながら口を開く。
「わかった。皆の気持ちはありがたく受けておく。さてこれで日中にも空から監視されていると彼等は誤解するだろう」
「これから我々はどうしたら……」
「指し当たっては警戒を怠らないでください。三部隊で交代制を敷いてサエスの監視を指示します。この任務は責任重大ですよ。しっかり遂行してくださいね。私はその間に二日酔いと怪我人達の治癒に回ります」
こうしてサエスとグランヘレネの戦争は膠着状態となっていくのであった。