白木蓮
麗らかではありますが、代わり映えのしない、平凡な春の一日でした。暖かい日が続いていて、もう冬は過ぎ去ったのだと世間では思われていました。その点につきましては、私も何ら異存がなかったように記憶しています。しかし、春にはどこか危なっかしいところがありました。私が単に心配性なだけかもしれませんが、それは春の嵐の予感でしょうか、ひどく脆い壊れ物を抱えているかのような胸騒ぎがして、どうしても落ち着いてはいられませんでした。
私は外へ出て、しばし歩いてみることにしました。家の中に閉じ込もっていては、不安を取り除くことなど到底出来ませんし、歩いていれば気が紛れるばかりでなく、靄のように薄く漂う危険な香に気が付くことも、また出来るかもしれなかったからです。
家の前を流れる川が、日の光を受けて煌めいていました。釣り人の姿も、ちらほら見受けられます。釣り糸が垂れ、小さく波立つところをじっと見つめる姿や、釣り人の流す雑音まじりのラジオの音が懐かしく思えました。冬の間は、皆寒がって釣りになどやって来ませんでしたから、こういったところから春が感じられました。
私はそのまま川沿いを歩いて行きましたが、全てが平穏無事なように思われてなりませんでした。それなのに、一体どうしてでしょうか。春への疑念は、拭いがたいものとなっていて、どうしても私は安心することが出来ませんでした。私は、粗探しをするように、あたりを見回してみました。すると目に入ってくるのは、未だ裸で、枯れ木のようになっている木々の枝でした。こういったところの心許なさ、虚しく枝の間を抜けていく風が、物寂しい冬を思い起こさせ、私を不安へと駆り立てるのでしょうか。そのように考えてみましたが、どうも納得がいきませんでした。私が予感しているのは、可逆的なものではなく、良くも悪くも新しい訪れに違いなかったからです。
それから私は、近くの田へ行ってみました。別段意識せずとも足が向いてしまう、そういった場所でした。田植えはまだ行われていなかったので、その時の田は、果てしもない殺風景な泥んこに過ぎませんでしたが、用水路の脇に植えられた白木蓮の花が、ちょうど良く見頃を迎えていて、線路に差し当るずっと先の方まで咲き誇っていました。
私はその美しさに目を見張りました。大きく厚い純白の花びらが、みなそれぞれ天を向いているその様は、まったく荘重なものでありました。私はこのような花を他に知りません。細緻を欠いていると言う者があるかもしれませんが、私にとっては唯一無二の、上品な、そして清廉な花なのでした。
私はこの並木の花を、最後まで見なければ気が済まないように思いましたので、線路の方へと歩みを進めて行きました。その間も、私はずっと花を見上げていました。この日の白木蓮は、本当に格別だったのです。私は白木蓮の花自体は以前にも見たことがありましたし、自然とやってきてしまうような場所でしたから、ここに咲く白木蓮もまた見たことがあったのです。しかし、ここまで魅惑されたのは、初めてでした。私はいつも以上に美しい、白木蓮の典雅を、全身で感受せねばと思いました。
と、その時です。不意に強い風が吹きました。音はなく静かで、見た目にも重たい花弁が微かに揺れるばかりでしたが、それと同時に、花の芳香がふっと流れ込んできて、私の鼻腔を刺激しました。急な刺激に私は脳が麻痺して、意識が遠のいてくかのような感覚を覚えました。それは、香りが鼻を抜け頭に至り、そのまま空気へと溶け込んでいくかのようでした。
視界が霞み、どうも判然としません。足取りも酒に酔ったようになり、蹌踉めきます。こうなってみると、花の白も恐ろしげにたゆたっているように見えました。
私は、熱にうなされて、夢か現かも分からなくなった時のことや、激しい痛みで、つと視界を奪われた時のことを思い出しました。しかしこの感覚は、そのいずれとも異なっていました。これは苦痛というよりも、快楽に属するものだったからです。
私は改めて花を見遣りました。花は相変わらずぼやけたままで、私を惑わせるばかりでした。その内、白というのは、人を狂想へと向かわせる色だと、そんな奇妙な考えさえ浮かび始めました。しかし、このままでは正気を失ってしまう、そう思った時、一つ合点のいったことがありました。私の予感の正体は、これだったのだ、ということです。
それからは無我夢中で歩きました。春の陽気に、花の優美に、拐かされてはならないと、必死で抗いました。何よりも危険なのは、嵐の狼藉でもなく、冬の寂寞でもなく、春の愉楽だったのでした。喜びを享受する上での節度というものを、忘れてはならないのです。それがどのような性質のものであっても同じです。純粋なもの、感傷のもの、逃避のもの、全て同じなのです。この時の私は一線を越えかけていました。ですから、気狂いにでもなってしまう前に、私は並木を抜けて、日常に立ち返らなければならなかったのです。
線路の先には、なんてことのない住宅地が広がっていました。どこからか、布団を叩く音も聞こえてきます。私は、ほっと一息吐くと、家に帰ることにしました。踵を返しますと、また白木蓮を見ることになります。ですから、少し遠回りをしました。