笑顔咲く花のように
笑顔咲く花のように
春が過ぎて、緊張と、少しのソワソワ感が抜けた頃。巷では初夏を彩る花が少しずつ、綻び始めてくる季節。
そのキャンパスの中庭には、今年入学したばかりの夏樹のお気に入り、ライラックを背にした木製の、やや古びたベンチがある。古いけど、手入れはされているようで、座り心地はとても良い。
このキャンパスの中庭は、市内、いや道内でも有名で、周囲にはいくつものレストランが並んでいる。勿論店内でも食事が出来るのだが、こうして晴れた日には、中庭にずらりと並べられたオープンカフェへとテイクアウトしてきて食べる学生の姿が多い。
ただ、夏樹が座っているのは、目の前にテーブルなどない、ただの横長のごく普通のベンチ。彼女が座ると、目の前には丸い小洒落た雰囲気の木製テーブルが、四・五脚の椅子に囲まれて、ところ狭しと中庭を彩っているのが見える。
このオープンカフェで談笑する学生達の声を聞きながら、一人読書に精を出すのが、彼女流の昼休みの過ごし方なのだ。
この時期、晴れた日にはキャンパスの中庭から、徐々に緑を濃くしていく山並みが、遠くに見える。背中には薄い色のライラックの香りが微かに広がり始めていた。
柔らかな日差しと爽やかな風が心地よい、過ごしやすい季節だ。彼女はいつも、大抵の場合は一人で昼休みを過ごしている。
そんな彼女の日常が、ある日突然、思いも寄らぬ方向に動き始めたのは、そんな穏やかな日常の、昼休みのことだった。
「……何ですか」
夏樹は、自分でも驚く程に冷静な声で、自分のお尻の横に置かれた熱々のホットサンドが載ったトレイを見てぼそりと言った。
後ろからベンチの背もたれ越しに置かれたものだろう。読んでいた本から目を離し、背もたれの向こうに目線を送る。
夏樹の思わぬ無愛想な声に面食らったのか、ホットサンドを突然置いたその人物は、多少ならずとも戸惑ったようだったが、すぐに夏の太陽のような陽気な笑顔になって夏樹に話しかけてきた。
「あは、いきなりゴメン。びっくりした? あのさ、ここ空いてる? 他の席、全部埋まっちゃっててさ」
明るい人懐っこい笑顔で屈託なく話しかけて来るのは、季節を先取りした日焼け顔の、背の高い男子学生。一方的に言うと、彼は背もたれをひょいと飛び越し、返事も待たずに夏樹の横に陣取った。かと思うと、右手に持っていた具沢山のホットドックに豪快にかぶりつく。
「……あの……これは……?」
夏樹側に追いやるように置かれたホットサンド。
「あ、食べて食べて。あんた、何にも食べてないように見えたからさ。それに、俺一人で食うのってちょい苦手でさ。一緒に食ってよ」
……有無を言わせぬ彼の良い分に、かなり圧倒されながらも、夏樹は素直にお礼を言って、ホットサンドの端をかじってみる。実は彼女、ほとんど毎日ここに来ているのだが、ここで食事をしたのはこれが初めてなのだ。
「……おいしい、ですね」
覗き込んできた彼の顔を見上げて、かなり遠慮がちだったが、そう言って微笑んでみる。と、彼は驚いた顔を一瞬だけしたが、すぐに心底嬉しそうな顔になった。頬が少し紅潮したのは、気のせいだろうか。
それから少し、夏樹は読書ではない、この中庭での時間を過ごした。夏樹は人付き合いというものが昔から苦手で、特に大学に入ってからは友人もほとんどいないのだ。そんな夏樹が久しぶりに笑顔で話している相手は、いきなり夏樹の空間に入り込んできた男子学生、准。
この日から、夏樹のキャンパスライフは少しずつ、変わっていったのだ。
これまでほとんどの時間を一人で過ごしてきた夏樹だったが、准に言われて初めて気がついた。夏樹が取っている講義の中にいくつか、准も受けている講義があったこと。彼が紹介してくれた男女問わない数人の中にも、昼休みに一人中庭で読書をしている女の子がいるのに興味を持ってくれていたこと。
彼と過ごす時間が少しずつ長くなっていく。その中で、夏樹は自分自身が変われそうな気がしていた。
これまで内気だった自分が、少しずつ、周囲の雰囲気に親しみを持って馴染んでいっている。このまま、今までからは考えたこともなかった楽しいキャンパスライフが、私の中でも始まるのではないか……一人静かに、むしろ人と関わることを避けるようでもあった自分が、今変わり始めている……。
夏樹が楽しむようになってきたキャンパスライフの中で、少しずつ、自分自身を変えようと、前向きになってきた頃。キャンパスはいつもと違う雰囲気の活気に包まれていこうとしていた。
緑が丘祭。この大学の、一年に一度の大イベント。学生全体がこのイベントを盛り上げようと、至る所で催し物の作戦会議が開かれ、準備に取り組んでいく。
この時ばかりは講師たちも協力体制に入るのか、講義はほとんどない。
教室を使ったり、外の通路に面した場所に屋台を組んだり、キャンパス中がお祭り会場だ。
夏樹は、准がきっかけで仲良くなったグループから、教室の一つを使った展示コーナーの担当に誘われていた。
これまで夏樹は、この手のイベントが心底嫌だった。友達どころか、まともに話せる知り合いもいなかった彼女にとって、最も孤独を感じてしまうのがこういうイベントなので、憂鬱になる季節でもあった。
だが、今年は違う。気さくに話してくれる友達もいる。今自分がやるべき仕事も割り当てられている。
本来なら全てに置いて満足しているはずなのに、それでも夏樹の心には引っかかるものが一つだけあった。
准のことだ。
彼は今まで、いつも一番近くにいてくれて、夏樹の人見知りをいつでもフォローしてくれていた。今の夏樹の周囲にいる人の中で、唯一、彼女の本当の自分というものを理解してくれている人物なのだと、夏樹は信じていた。
准は、自分が所属しているサークルでの活動に忙しいらしく、こちらの展示の準備が始まっても、一度も顔を見せに来ていない。
(淋しい……なんて思ってたら、変に思うよね……)
交換したメールアドレスを見ながらも、そう思って連絡するのをやめた。
でもなんで、こんなに淋しいんだろう。周りには、とても楽しそうに準備をする仲間達がいるのに。頭を切り替えようとする夏樹だったが、なかなか上手く切り替えられない。周囲に気づかれないように振る舞うので精一杯だ。
「ねえ夏樹」
「はい?」
「淋しいんでしょ?」
「え?」
「ほら図星! 大好きな准とこんなに長く離れてるのは初めてだもんね」
夏樹は心臓が飛び跳ねたかと思う程のショックを受けた。
「だ、大好き……って」
「えーだって夏樹、准がいない時の淋しそうな顔、ガチなんでしょ? 分かりやすいよー」
困惑する夏樹をからかうように、数人の女子が集まってきた。
「あのっ、私は別に好きとか……」
「やーだ、初々しいよー」
「でもさ、なっちゃん、准いないと不安なんでしょ?」
「それは……いつも一緒にいてくれたから……」
夏樹を囲んで、からかうような、それでも慰めるような言葉で、夏樹を元気づけようとしてくれているのは分かる。分かるが……今の今まで、彼が好きだとか、そういう感情を自分が持っていることには全く気づいていなかった。
「あ、准!」
「え?」
「あっ」
「……?」
一人が呼び止めて振り返った先には、噂のお相手、准がいた。サークル仲間と賑やかに通り過ぎようとしているところを呼び止められたのだ。
急に呼び止められた准も、驚いたのだろうが、いつものように気軽に、片手を上げて軽く挨拶する。女子たちの後ろに隠れるように立っていた夏樹には気づいていないようだった。
准の周りには、二人の男子の他、十人近くの女子が集まって、大移動の最中だ。サークルの仲間なのだろう、とても仲が良さそうに戯れるように歩いていた。しかし不意に夏樹と目が合った一人の女子学生が、見せつけるかのように准の腕に自分の腕を絡め、先を急ぐ素振りを見せた。
准も困惑したような表情を見せたが、すぐにいつもの屈託のない笑顔に戻り、廊下を曲がって賑やかに去っていった。
結局、准は姿が見えなくなるまで、夏樹がその場にいたことには気づかなかったようだ。
「……准、君……」
「だ、大丈夫? なによ、あの女!」
「准も准だよね! 一言くらい、何か言ってけばいいのに!」
呆然と見送った夏樹を励ますように、周りの女子が口々に言う。はたと我に返った夏樹は、「何でもないよ」と笑顔で答えると、その日の作業を最後までしっかりと終え、一人暮らしのアパートに戻った。その日は、家に帰るまで、また誰とも口をきかない、以前の夏樹に戻っていた。
緑が丘祭が始まるまで、同じようなことが何度かあった。その度に、夏樹は自分の心が今までになく動揺していることを、嫌でも実感することになった。
これまで当たり前のように、准が真っ先に自分のところにやって来て、一緒にお昼を食べる。他愛ない話をしながら、教室まで歩く。
こんな些細なことだが、これまで他人とほとんど関わってこなかった夏樹にとっては新鮮で、とても心地よいものだったのだ。お陰で、友人もできた。昼休みは一人で過ごす日の方がずっと少なくなった。
これからもっと、友人が増えて、楽しく笑って過ごせる日々が続くものだと、勝手に信じていたのだ。
だが、たった一人、准だけが、この数日間で夏樹から離れていってしまった気がして、どうしようもなく心が揺れている。准には男も女も関係なく、友人が多いのは出逢った頃から知っている事実であっても、夏樹が納得できる材料ではなかった。
「やっぱり私なんかじゃだめだね……」
一人、灯りもつけずに佇む自分の部屋で、呟く。
もう、気づいているのだ。自分の心が、すでに准の元へと向かっているのを。
(だけど、彼のような人が選ぶのは私じゃない。私なんかよりもずっと明るくて、綺麗な人の方がお似合いだもの。そう、この間腕を組んでいた人みたいな……)
考えれば考えるほど、自分の魅力のなさばかりが頭の中を駆け巡り、これまで感じていた、友人との楽しい時間さえも思い出せなくなってしまう。
その日は、緑が丘祭開幕の日。
夏樹は大学へは行かなかった。展示会場は前日のうちに完成していたし、当日の案内役は他のメンバーに決まっていたからだ。
勿論、他の学生たちは、キャンパス中に作られた様々な屋台や演劇などを楽しむために、他の学校の学生や友人、親たちをひき連れて楽しんでいる。
準備は滞りなく終わったのに、空はとても良く晴れているのに、夏樹は外へ出ようとはしなかった。
何をするにも手につかない。何か大切なものが、あっさりと自分の手をすり抜けていってしまったのに、それを取り返す手段が、どうしても見つけられない。
どうしたらいいのか、わからない。
「私……准君が好きだったんだ……優しさに甘えて……勘違いしてた……」
やがてゆっくりと時間が過ぎ、閉め切ったカーテンの隙間からは、すでにオレンジ色の夕日が差し込んできていた。
緑が丘祭は三日間の日程で行われる。夏樹は、三日とも、出席しなかった。また明日から、通常の学生生活が始まる。多分、前と同じだ。あの日准と出逢う前に、戻るだけなのだろう。
ピンポーン
「? ……」
「コンコン」
「…………」
日が暮れてしばらくたった頃だろうか、チャイムに続いてドアをノックする音が聞こえてきたが、夏樹は声を出さなかった。こんな顔では、客人を驚かせてしまうだろう。
「コンコンコンコン!」
今度はチャイムではなく、さっきよりも強くノックされ、さすがに不審に思った夏樹は、そっと玄関まで歩いていくと、小さな声で問うた。
「はい……どちら様ですか」
「開けてよ、夏樹。俺、准」
「!」
思わぬ来客。だけど聞き間違いかも。夏樹は半信半疑でドアを開けた。
「や!」
ドアチェーンの隙間から覗く、日焼けした顔。
本人だった。いつもの、太陽みたいな笑顔で、自分の目の前に立っている。手にはコンビニのレジ袋のようなもの。
「ずっと学校祭来てなかったなんて知らなかった。何で言わなかったんだ? ……って、俺が言えたことじゃないみたいだ」
「え?」
「今日になって聞いたんだ。俺がサークルの女と腕組んでたのを見てショックだったんじゃないかって……あれは俺にしてみりゃただの悪ふざけだったのに……夏樹がそんなにショック受けるとは思わなかったんだ。ごめん!」
言うと、准は深々と頭を下げた。急いできたのだろう。まだ微かに、肩で息をしていて、汗ばんでいる。
「それ、言うために……来てくれたの……?」
「だって俺……女友達は多いけど、女として好きになったのは夏樹だけなんだ。その人を傷つけてたなんて、情けなくて……」
一瞬、夏樹の頭は真っ白だった。
今この人は何て言ったのだろう。
理解するまで、ゆっくり二十秒はかかったに違いない。
「な、何で泣くの?」
動揺した准の声。ついさっき自分が口走ったことを改めたのだろう、若干震えている。顔の赤みが増している。
「だって……嬉しくて……」
両手で顔を覆ってしまった夏樹の言葉を聞いて、准も心から安堵の息をつく。
自分が傷つけてしまった花のように可憐で危ういその細い肩が嬉し涙に揺れている。
そっと震える肩に腕を回し、壊れないように、優しく、だけど力強く抱きしめる。
彼らの背中から、大きな音が連続して聞こえてきた。開け放してあったカーテンの向こうには、祭りのフィナーレを飾る花火が、狭い空いっぱいに咲き誇っていた。