人間7号誕生 ③ 移動
夏美の陣痛が始まった。伝輝と夏美は、咲の車で病院に向かおうとする・・・
ピンクシルバーの軽自動車のエンジン音は小さく、軽やかに走り出した。
夏美は目をつぶり、顔を窓の方に向けてじっと座っていた。
「苦しいの? お母さん」
伝輝が心配そうに尋ねた。
夏美はゆっくり首を動かし、目を開けて伝輝を見た。
「ごめんごめん、陣痛は収まっているから大丈夫よ。
でも、体力温存したいから、ちょっと休ませてね」
夏美の口角が優しく上がり、再び首を窓の方に戻し、夏美は目をつぶった。
目をつぶる時に、夏美の左手が伝輝の右手を握った。
伝輝も黙って握り返した。
咲は黙ったまま、車を走らせていた。
時折、バックミラーで後部座席の二人の様子をチラチラと見た。
静かだな・・・
カーラジオも音楽も流していない車内で、伝輝は思った。
咲も出産が近い夏美に気を遣っているのだろうか。
「あ、しょーちゃんからメッセージがきてるわ」
スマホの振動に気付き、画面を見た夏美が言った。
「しょーちゃんもこれから病院へ向かうって。
前田さんが、しょーちゃんの仕事を引き受けてくれたんですって!」
夏美は嬉しそうに言った。
「本当に、前田さんって良い人ね。
そう言えば、しょーちゃんから聞いたことあるんだけど、咲さんと前田さんは幼馴染なんですってね」
夏美は比較的いつもの口調で咲に話しかけた。
「そうですね、前田さんとは」
咲は短く返答した。
前田さん?
伝輝は咲の方を見た。
顔は見えず、ハンドルを持つ腕が見える。
伝輝に一つの疑問が浮かんだ。
今、運転してるのは、本当に咲なのだろうか?
咲は、前田さんのことをいつも「香」と呼んでいたはずだ。
伝輝の心臓は次第に鼓動を速めていった。
エミリーからのメールを思い出した。
既に、キバ組織が動いている可能性もあるのだ。
そして、今、まさにキバ組織がお腹の赤ちゃんを手に入れる為に実行しているのだとしたら?
伝輝は夏美の方を見た。
夏美は昇平に返信した後、再び目を閉じて休んでいた。
夏美に悟られてはいけない。
ただでさえ、出産を間近に慎重にしないといけないのに、余計な不安を与えてはいけない。
そっと、伝輝は右手を離し、身体を夏美の方にひねり、左手で夏美の手を握った。
興奮すると化けが発動しかねない。
右手は空けておこうと伝輝は思った。
「お母さん、知ってる?」
伝輝は運転している咲にも聞こえるように話した。
「前田さんって、青色のパンツ持っているんだよ。
あと、他にも黄色とか、蛍光ピンクもあったよ」
「何、言ってんの? 伝輝」
夏美は目をつぶりながら言った。
口元はうっすらにやけていた。
「咲さんも知っているよね!」
伝輝はいたずらっぽく咲の方を向いて言った。
「ああ・・・そうですね」
咲は何も反応を示さず、冷たく答えた。
やっぱり、おかしい! 咲さんじゃない!?
彼女にとって、一番知られたくないはずの話をしたのに、咲の態度は相変わらず変わらない。
顔を下に向け、二人にばれないように静かに息を吐いた。
伝輝はキバ組織について詳しくは知らない。
だが、タカシから化け能力のスペシャリスト集団と聞いている。
そのスペシャリストに、別の動物に化けるのが得意なスペシャリストもいたら?
窓から景色を見る。
包産婦人科病院とまごころ総合病院は、途中までは同じ道のりである。
夏美と昇平には内緒で、ゴンザレスに車を運転してもらい、伝輝は事前にまごころ荘からそれぞれ二つの病院までの行き方を確認していた。
まだ、この車がどちらに向かっているかは判断できないが、まごころ総合病院に向かう素振りを見せれば、きっと確定だろう。
伝輝はさりげなく体を捻り、自分の顔や動作を咲に見られないようにした。
そっとハーフパンツの右ポケットに入れていたケータイを取り出し、ゆっくり開く。
極力画面を見ないようにしながら、ボタンを押す。
運転 さき ちがうひと かも
咲に自分達をバックミラー越しに見られているかもしれないと思い、伝輝は必要最小限だけの文で、一斉メールを送った。
◇◆◇
人間界の日本と同じ交通ルールで、咲の運転する車は走り続けた。
伝輝は右手でケータイを握りしめた。
メール受信のバイブレーションはあれから一度もない。
前方を見ると、大きな道路に繋がる交差点が見えた。
伝輝はドキッとした。
この交差点をまっすぐ進めば、包産婦人科だが、左に曲がればまごころ総合病院の方へ向かう。
伝輝は咲のハンドルを持つ手を見た。
車は二車線道路の左側を走っていた。
前方の交差点の信号が黄色になり、赤へ変わった。
カチカチカチ・・・
咲は左折指示キーを鳴らした。
伝輝の緊張は頂点に達した。
ゴンザレスも曲がる時に、カチカチとハンドルの前にある矢印のライトを点滅させていた。
この車はまごころ総合病院に向かおうとしている!
赤信号で車が止まったが、カチカチ音は消えない。
道が違う、というべきか伝輝は迷った。
夏美は目をつぶったままウトウトしていて、気づいていない。
もし、言ってしまったら、どうなるのか?
咲は正体を現し、自分達を襲うのだろうか?
ごまかされたとしても、それを聞いた夏美は不安になるはずだ。
伝輝は下を向いて歯を食いしばった。
何で、気づかなかったんだ!
伝輝は自分を責めた。
同時に必死で気持ちを落ち着かせようとした。
夏美に今の状況を悟らせてはいけない。
ほんの少し、伝輝は左手の力を緩めた。
信号が青に変わり、咲はハンドルを回した。
カチカチ音を響かせながら、車はゆっくり左に曲がった。
たすけて
伝輝は何とかこの一文だけメールで送った。
そして、必死で心の中で同じ言葉を叫んだ。
◇◆◇
「あら?」
ずっと黙っていた咲がヒョッと声を出した。
その理由がすぐに伝輝にも分かった。
曲がり始めたあたりから、妙な振動が車から伝わってきたのだ。
走行音も、今までと違い、ペタペタという不気味が音が聞こえてきた。
咲はギュッとハンドルを握り、ポツンとボタンを押し、カチカチ音を鳴らした(ハザードランプをつけた)。
素早く左手でレバーを動かし、慎重に停車した。
「どうかしたの?」
夏美が目を開けてつぶやいた。
顔色がさっきより悪くなっていた。
「いえ、ちょっと・・・」
咲が夏美の方を見る為に頭を後ろに向けた。
無表情の顔に焦りが出ている。
コンコンコン
運転席の窓を叩く音がした。
伝輝はその方を見た。
白地にチェック柄の厚手のシャツ。
無精ひげを生やした男のヒト。
無造作に伸ばしっぱなしのような黒髪の頭の上には三角の犬耳がついている。
タカシさん!
ヒトの姿のタカシが運転席の窓を左手でノックしていた。
咲は窓を開けた。
「咲さん、大変ですよ。
タイヤがパンクしているみたいですよ」
「まさか・・・!」
咲は車を降りて、タイヤを確認した。
左後部のタイヤが確かにパンクしており、変形が始まっていた。
「さすが、咲さん、適切な判断ですね。
まっすぐ進まずに、大きな道路の方に曲がって一時停止したんですね」
タカシがニコッと笑って言った。
「すぐタクシーを呼びますね!
この近くにタクシー停留所があるから、呼べば五分もかからないですよ!」
タカシはケータイ(普段使い用)を左手で取り出し、電話をかけた。
右手はジーンズのポケットに突っこんでいる。
電話を終えたタカシは、今度は後部座席の窓をノックした。
夏美が窓を開けた。
「気分はいかがですか?
すぐにタクシーが来ますので」
「ありがとう、タカシさん。
ちょっと痛みがきているみたいで・・・」
夏美は弱々しい声で言った。
「痛みの間隔は?」
「十五分から二十分の間よ」
「分かりました。
俺がついていきますから、安心してください。
病院まであと少しです」
タカシは言うと、夏美はゆっくり微笑んだ。
伝輝は何が起きたかよく把握しきれていなかった。
だが、タカシと目が合った時、タカシがニッと笑い、ウインクまでしたので、もう大丈夫だと感じた。
タカシの言う通り、タクシーはすぐにやってきた。
事情をタカシから聞いていたらしく、運転手のヤギは目をクルクルさせながら、大慌てで車から降り、タカシと一緒に夏美を乗せた。
「伝輝」
タカシに呼ばれて、伝輝は走ってタクシーに乗った。
最後にタカシが左後部座席の窓を開けて、咲に話しかけた。
伝輝はタカシと車のドアに挟まれる状態になった。
「タクシーと一緒に、自動車修理手配もしておきましたから、咲さんはそこで待機していてください。
ここまで運んでくれてありがとうございました!」
わざとらしく大きな声でお礼を言った後、タカシは窓を閉めた。
タクシーは方向転換し包産婦人科病院へ向かった。
咲は無表情のまま、車の前で立ち尽くしていた。
◇◆◇
タクシー内で、タカシはテキパキと夏美の脈拍を確認したり、お腹を撫でたりした。
そして、夏美がメモしていたノートを見た。
先程と違い、右手も使っていた。
「きちんと陣痛の時間を記録していますね。
これなら、先生方も確認がしやすいでしょう」
夏美は痛みが辛いのか、黙ったままだった。
「今日はタカシさん、仕事じゃなかったの?」
伝輝はタカシに尋ねた。
「だったけど、何とかスタッフと予定を調整して有給休暇をとったよ」
「そうなんだ。
ありがとう、助かったよ・・・」
伝輝は小さな声で言った。
「礼は要らないよ」
そう言って、タカシはポンと伝輝の頭を撫でた。
「良く頑張ったな」
夏美に聞こえないように、タカシは小声で言った。
ヒトの姿のタカシの手は、とても温かかった。
伝輝は涙が出そうになったが、必死でこらえ、顔を窓の方に向けた。
包産婦人科病院の、赤レンガの壁が見えてきた。