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0.蜜の笑顔

ゲラン暦 418年 ―春の候


 クーニャを見送って、半月ほど過ぎた頃の深夜、レルファンは神殿に忍び込んだ。

 どんなに警備が厳しい場所であっても、必ず急所はある。侵入は思っていたよりも容易だった。それも全て、優秀な部下のお蔭である。


『ハインツ様ならともかく、レルファン様が禁域の花に手を出そうとは……』


 警備の下調べを頼んだカルヴァは渋い顔だったが、事情を離せば渋々頷いてくれた。信用されていないのか、『度を越さないでくださいね』と重ねて言われたが、調査に手は抜かなかったらしい。


「さて、と。部屋はどこだっけな」


 秘密主義の神殿では、巫女の部屋を調べるのも一苦労である。優秀なカルヴァであっても、半月を要してしまった。そのカルヴァから渡された小さな紙切れに目を落とす。


「南、か。あっちだな」


 見回りや、ランプの灯りを避け、植木や柱の陰に隠れつつ進む。

 二級巫女以上は個室を与えられるようだ。エスタの部屋に入ってしまえば、見つかることもないだろう。

 大神殿の南、その隅が巫女や神官の居住区である。石造りの荘厳な神殿であるが、その裏側というのは思いのほか質素で、生活感に溢れていた。

 井戸の横に設けられた水場には洗い桶が干されているし、近くの木々には物干し用の紐が渡してある。取り込み忘れたのか、隅の方に布が一枚取り残されていた。

 飯炊場の近くを通れば、片づけを終えたらしい下女二人が、薪の山の陰に座り込み、食事をしていた。木の椀を抱え、ぺちゃくちゃと雑談をしている。その雰囲気は城下の女たちとなんら変わらない。

 気付かれないように慎重に通り過ぎ、目指す場所の付近までやって来た。


「えー……と。南の大柱から左にいち、に、さん。よっつめ、と。あれか」


 いくつかの部屋は窓が閉められているが、エスタの部屋と思しきところは微かに窓が開き、そこから光が漏れていた。まだ起きているらしい。


「扉は……あそこか」


 周囲に人がいないことを確認して、レルファンはエスタの部屋の木戸に向かい、するりと身を滑らせた。


「よう」

「きゃ……っ!?」


 簡易祭壇の前に膝を付き、ぶつぶつと経典を読み上げていたエスタは、急に現れたレルファンに腰を抜かさんばかりに驚いた。大きな声を上げそうになるのを、慌てて口元に手をあてて止める。


「元気そうじゃねえか。あれから見つからなかったか?」

「あ、あなた様は……!」


 ありえないものを見るように、瞳を大きく見開く。瞳が零れ落ちてしまいそうだった。


「暗がりだったし、覚えてない?」


 少し残念そうにレルファンが問うと、ぶるぶると首を横に振った。


「まさか。あれから毎日、どうなったかと思いを馳せておりました」

「ほう、それは光栄」


 にか、と笑うと、エスタは弾かれたように立ち上がった。開いていた窓を慌てて閉め、周囲を窺うように耳をそばだてる。異常はないと分かると、全身でため息をついた。その場にへたり込み、胸を押さえながらレルファンを見上げる。

 エスタはまだ眠り支度をしていなかったらしい。仕立ての良い巫女装束を纏い、帯もきっちり結ばれている。化粧はしていないようだが、美しい顔には紅だの白粉など不要だった。縁取る金髪が、装飾の役割を果たしていた。


(やっぱり、見間違いじゃなかったな)


 暗がりゆえに見間違えたかと思ったが、灯りの下で見るエスタは変わらず綺麗だった。

 いや、ほんのりと上気した頬や、艶やかでふっくらした唇が露わになり、あの時以上に輝いているかもしれない。

 見とれかけたレルファンだったが、ふ、と笑って言った。


「心配せずとも、見つかるようなヘマはしてないぞ。見咎められずにここに来るくらい、簡単だ」

「でも、危険です! ここへの男性の出入りは重罪なのに……」


 重々承知である。レルファンは焦る様子のエスタを手で制して言った。


「報告に来たんだ。クーニャは無事、兄貴と北門を出て行ったぜ」

「え……! 本当ですか?」


 不安げにしていたエスタが、顔を明るくした。


「ああ、問題ない。もう、生家に戻ってる……と思うぞ」


 これも、カルヴァに調べさせた。母親はいなくなった娘が帰ってきたことに涙し、それが幸いしたのか、まだ命を繋げているらしい。

 神殿からの問い合わせは、使者が生家に着く前に、レルファンの手の者が嘘の情報を与えて追い返した。子盗りにあったと言ったのだが、使者はそれに納得したのだ。地方や貧困街では、他国へ奴隷として売る目的で子供を攫う者がいる。幼い兄と連れ立って歩いていたクーニャが、運悪くそれに行きあったとしてもおかしくない。もう、クーニャに神殿からの追っ手は向けられないだろう。


「夜逃げして捕まった巫女のことは、懲罰が済むまで他の巫女に知らされないのです。もしかしたらって不安で不安で……。クーニャ、大丈夫だったのね」

「ああ。で、これを預かってる。お礼、だってさ」


 天鵞絨のリボンをエスタの目の前に差し出すと、エスタの瞳に、涙が盛り上がった。

 震える指先でそれを摘み上げ、眼前に捧げ持つ。


「これ……あの子の宝物じゃ……」

「らしいな。でも、あんたに渡してくれってさ」

「クーニャ……」


 リボンは、少女がいつも握っていたのか生地が縒れていた。涙の痕のような滲みもあり、これが幼い少女の心の支えを果たしていたのだろう。


 それをエスタは、クーニャを抱きしめるようにそっと胸に押し当てて、「神に感謝いたします」と呟いた。頬に一筋の涙が伝う。

 この女は、人を思うときに美しさを増すのか、とレルファンは思う。あの晩もそうだった。人の為に心を寄せるとき、一層輝く。

 レルファンは無意識に手を伸ばし、指腹で頬に流れる涙を掬い取っていた。無骨な男の指に触れられて、エスタがびくりとして顔を上げた。


「騎士様……、何か?」

「あ、いや」


 驚いたように問われて、レルファンは狼狽える。伝う粒が余りに儚かったから、消える前に触れなくてはと思ったのだ。


「すまん。触りたくなった」


 碧い両眼に捕らえられて、素直に吐いた。きょとんとしたエスタは、不思議そうに首を傾げる。


「いや、勿体ない気がしてな」


 このまま存在を消してしまうには、それは輝きすぎていた。

 当たり前かもしれないが、エスタにはそれが伝わらなかった。「はあ」と小さく声を漏らしたのち、くすくす、と笑った。


「こんなもの、喉を潤すにも足りませんのに」


 屈託のない、朗らかな笑顔だった。クーニャの無事を確認した、それが理由なのだろう。

 レルファンは、可愛らしい控え目な声を聴きながら、小さく笑った。その顔が見たくて、その声が聞きたくて、この半月を過ごしていたのだ。

 どうしてこんなにも切望したのかは分からない。綺麗な女という括りであれば他にもまだいるし、美しさだけならば固執することもない。しかし、充足感を覚えている今、それだけの女じゃないと思えるのだ。


(何なんだろうな、この気持ちは)


 女の笑顔が見たいなど、ハインツでもあるまいし、自分が考え至るなど想像していなかった。しかし、遠慮がちに笑う顔や、鈴が鳴るような声を聴けばそれだけで満足している自分がいる。

 と、その極上の笑顔が曇った。


「あ、あの。あなた様は大丈夫でしたか??」

「は?」

「騎士団の方が、巫女の脱走に加勢したなど知られたら叱られてしまうでしょう? 見つかりませんでしたか?」

「ああ。大丈夫だ」

「本当ですか? 新しい騎士団長様はとても怖い方だと聞きました。ですから、見つかれば酷い仕打ちが待ってるのでは、と不安だったんです」


 目を見開いたレルファンである。新しい、とても怖い騎士団長とは、紛れもなく自分のことであろう。そんな自覚はないし、むしろ心優しいと思っている(自己評価であるが)。

 失礼な、誰がそんな情報をここに流しやがった。


「へえ、団長の噂ってこんなところまで流れてるの? すげえな。どこからそんな話が?」


 素知らぬ顔をして訊いた。元凶が分かったらぶん殴ってやる。


「騎兵隊の副隊長様です」


 あ・い・つ・か!

 対女性用のハインツの胡散臭い笑顔が蘇る。あいつ、碌でもねえこと言いやがって。


「私が直接聞いたわけではないんですけど。レイラという姉巫女が、陛下の儀式の休憩に聞いたのですって。猛々しくて、乱暴な方だって。騎士団長なんて重大な責務を負う方ですから、それで当然なのかもしれませんけど」


 猛々しく乱暴に仕返ししてやろうじゃないか。


「へえ。他にはどんなこと言ってたか、知ってる?」


 問いに応えようと、エスタはええと、と視線を彷徨わせた。


「あ、そうだ。不信心で、神殿には足も向けないって聞きました。そういえば、団長就任の為の潔斎の儀も副団長様に任せて欠席なさったんですよね」


 欠席したのは、他国の王子が訪問されており、近衛として帯同していたからである。自身のことで代理を置くのは論外と判断し、儀式の方をカルヴァに任せたのだった。


(知ってるくせに、あの野郎)


 大方、巫女にレルファンのの悪口を流して、逆に自分の評価を上げようとしたのだろう。禁断の花園だか何だかと気にかけていた奴だ、踏み入る布石にしようとしたに違いない。

 あの薄ら汚ねえ髭、毟った上に焼いてやる、と誓うレルファンだった。


「あ、すみません。上司の方をこんな風に言ってはいけませんよね」


 申し訳なさそうにエスタが身を竦ませる。黙ってしまったレルファンを窺うように、そっと視線を投げかける。


「そう言う風に聞いただけ、ですので、その」


 レルファンはくすりと笑った。


「構わない。俺みたいな下っ端には縁のない人だからな。つーか、団にはバレてないし、大丈夫だ」

「ほんとですか、よかった」


 ほう、とエスタがため息をつく。そしてようやく立ち上がった。狭い部屋を見渡す。


「あの。私、お礼とか出来なくて。お金は持ってないし、ええとその」

「いらねえよ。暇だからやったんだしさ」


 見返りを求めたわけじゃない。強いて言えば、笑顔が見たかっただけだ。


「でも……私も助けてもらったようなものですし」


 納得できないのか、エスタはきょろきょろと部屋を見渡す。何か贈れるものを探しているようだったが、寝台と小さな行李、簡易祭壇だけの部屋に何もないことは、レルファンですら分かった。

 別にいらねえんだけど、と視線を流したレルファンが、祭壇の上に並んだ経典に気付いた。

 煉瓦のように分厚い経典は、全十二冊。別録に九冊という膨大な書物である。ハヤディールの裕福な家庭では、二十一冊全て揃えており、勿論レルファンの屋敷にも――手にしたことは一度もないが――革張りの美しい装丁の物がある。

 その内容を、巫女や神官はすべて頭に叩き込み、巫女に至ってはそれを詠唱しなくてはいけなかった。


「じゃあ、経典の話を聞かせてくれよ」

「経典、ですか?」

「そう。俺さ、経典とかってよく知らねえんだ。団長と同じ、不信心ってやつ。だから、教えてくれない? 簡単でいいから」


 断られるのを前提にして訊いた。幾ら簡単にと言っても、この量を教えてもらうとなると、レルファンはここに通わなくてはいけない。さっきエスタが言ったように、ここは男子禁制の禁域である。無理なことは承知で、ただ、エスタの困った顔が見てみたくて言った。

 きょとんとしたエスタだったが、しっかりと頷いた。


「それくらい、お安いご用です」

「へ、いいの?」


 間抜けな声が出る。あっさり了承しすぎだろう。


「経典を人々に教え広めるのもまた、巫女の仕事ですから。私、経典を教えるの得意なんです。任せて下さい」


 エスタはレルファンにニコリと笑って見せた。


「あー、や、でも、俺ここに通うことになる、けど。それっていいのか?」

「あ、そうか!」


 ようやく、気付いたようである。


「ちょっと言ってみただけだよ。礼なんて、別にいい」


 くすくすとレルファンが笑うと、エスタは考え込むように腕を組んだ。しばらく経典を見つめたのち、「いえ」とはっきり言った。


「いえ、構いません。もしまたここに来られるなら、来てください」


 決意の込められた碧眼が向けられて、レルファンは驚く。


「いいのか? そんなことして、見つかったらあんたが困るだろ」

「困りません。助けてもらったからここにいられるんですもの。恩人にお礼できるのなら、喜んでお教えします。あ、でもにここに来るのが危険なようでしたら、無理は言えませんが」

「ええ、と」


 予想外のことに戸惑った。これ、お願いしていいのか? 

 これきりで終わってしまうというのは、なんとなく嫌だった。もう少し話してみたいし、もっと知りたいとも思う。ここに堂々と(忍び込むわけだが)会いに来られると言うのは、経典教授という理由であっても、嬉しい、ような気がする。

 しかし、『度を越さないでくださいね』というカルヴァの小言を思い出す。ここで頷いたら、あいつはひとしきり文句を言うことだろう。どころか、全力で阻止しようとするだろうし、延々説教が始まってしまう。なまじ、それが正しいと分かっているだけに、悩んでしまう。


「お教えできるのは夜になりますけど、お仕事に差しさわりのない時にいらしてくださいね」


 レルファンの葛藤を知ってか知らずか、エスタが重ねて言う。


「私、いつでも待ってますから」

「うん、じゃあ、よろしく頼む」


 可愛らしい台詞に、うっかり、頷いてしまったレルファンだった。


「はい!」


 大きく声を上げたエスタが、は、と口を押さえた。周囲の部屋を確認する。


「……教えてもらう前から、見つかりそうだな」

「す、すみません……」


 しゅんとするエスタに、レルファンは手を差し出した。


「レルフだ。よろしく」

「あ、エ、エスタです」


 真白で柔らかな手が、おずおずと差し出された。レルファンの手にすっぽりはまり込んでしまう。

 そっと握手を交わした二人は、小さく笑いあった。


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